第44話 『遠い記憶と現実』
シャワーから出て、絵梨香はもたれ掛かるようにソファーに座る。
髪を拭きながら、さっきまでの光景を思い出していた。
あんなに雨に打たれたり、雨の中を走ったりする事も、もう何年もなかったことだった。
ちっちゃいビニールシートを
笑いが込み上げてくる。
「あんなに背中を濡らしちゃって……あはは」
でもそう呟くと、すぐ近くに感じた零の腕や息づかいと、幾度か起きたちょっとしたニアミスがフッと蘇って、頬がふわっと上気して来るのを感じた。
その時と同じように鼓動が高鳴って、絵梨香の両肩をほんの少し揺らす。
時計の針は12時を回っていた。
大きく息をついて、左側の壁を眺める。
「きっとあなたは、まだ捜査に関する何らかの作業をしているんでしょうね」
壁の向こうに投げ掛けた。
今日1日、色々なことがあった。
子供の頃以来の、この場所に降り立っただけでも心震えるような出来事なのに、懐かしい思い出に多く触れ、大人になった心でそれらを見つめ、多くを感じた。
おじいちゃんさえ居てくれたなら……
どうしてもっと早く、ここに来なかったのか……
そう思うと、口惜しくて悔しくてたまらなくなる。
静代おばあちゃんに会えて、いっそうその思いが大きくなった。
日々に流されることによって起こる消極性は、必ず後悔を生む。
蒼汰に背中を押されて、静代に会えた事に心から感謝するとともに、これを機に、これからの自分の生き方についても考え直そうと思った。
「……ちっとも眠れないわ」
またとなりの壁を見上げる。
「しかし、同じ時間に同じ場所に行くのって、どうなのよ?」
壁に向かってそう言いながら、“秘密基地”でのことを思い出していた。
胸の奥には、様々な熱い思いが凝縮し、絵梨香の感情を揺さぶる。
本当は、2人で書き綴ったあの日記を、じっくり一緒に読みながら、当時の “答え合わせ” をしてみたかった。
「でも彼はきっと、今頃はそれどころではないくらい、捜査に夢中になってるんでしょうね」
そう皮肉っぽく言った。
「あ……」
頭の奥に、またいつものうっすらとした痛みが浮かび上がってきた。
『想命館』でのあの夜以来、絵梨香は妙な頭痛に取り憑かれている。
「走ったせいかな……」
そして、その脈打った感覚はこめかみにも上がってきた。
この頭痛がひどくなる前に薬を飲もうと、ウォーターピッチャーに目をやる。
しかし、水は底をついていた。
「うーん……どうしよう」
とにかくダイニングまで降りて行こうと思った。
なければコップで水道水を頂こうと。
絵梨香は薬だけ持って、部屋を出た。
ドアを出て施錠したところで、隣からガチャッと音がした。
そちらに目をやると、部屋から出てきた零に、また遭遇してしまった。
「どうした?」
小さな声で近寄ってくる。
「あ……薬を飲もうと思ったらお水を切らしてて……あなたは?」
「俺は車に資料を取りに」
「そう」
「じゃあ一緒に降りるか」
「え……ええ」
「お前が一人でダイニングに行っても、冷蔵庫も開けられないだろ?」
「ああ、そうよね」
階段の両端に設置されているセンサーライトが、2人の歩幅に合わせて点灯していく様は、まるでどこかに導かれているかのような錯覚に陥る。
ダイニングに着くと、零は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、絵梨香に投げてやった。
「ありがとう」
「ちょっと待ってろ。俺も資料を取ってくる」
そう言って零は足早にダイニングを出た。
絵梨香は零と遭遇したことで、また“蔵”での光景を思い出していた。
まるでタイムスリップしてきたかのような、懐かしくて温かくて、心癒される空間だった。
そう思えるのは、自分達の思い出を保管してくれていた、章蔵の思いや優しさが、そこここに溢れていたからであり、その空間自体が当時、心を通わせていた2人のかけがえのない場所だったからだろう。
そして16年の時を経て、その当時の小学生は、成長して大人になった姿で、あの場所で再会した。
自分達の距離が、随分縮まったように思えた。
ほどなくして零が走って帰ってきた。
漆黒の濡れた前髪を無雑作にかき上げた零は、一息つくと自分も冷蔵庫からミネラルウォーターを取って来て、絵梨香の向かい側に座った。
「その資料は?」
絵梨香は、零が早速テーブルの上に開いたファイルを覗いた。
「ああ、高倉警部補から預かっていたものだ。今日こんなに進むと思わなかったから、車に置いたままにしてあったんだが。今から照らし合わせてもう一歩踏み込んでみようと思ってね」
零は読んでいるようには見えないほど、高速でそのページをめくっている。
「今から? さっきのタマムシノートもあるのに? あなたって全然寝ない人のなの?」
「お前こそ、今日は慣れない事したから疲れてるんじゃないか?」
「そうね、早く寝ようと思ったんだけどね」
零は、絵梨香のボトルの横にある、薬を取り出した後のアルミシートに目をやる。
「また頭痛か。あれからずっと?」
絵梨香はそれをポケットにしまいながら頷く。
零は少し神妙な顔をした。
「あまり薬に頼らない方がいいぞ」
「わかってはいるんだけどね。今日も弓枝さんに同じことを言われて……あ、そうだ! 絹川さんはすごく薬に詳しいって、弓枝さんがそう言ってたわ!」
絵梨香は零に、言い忘れていた弓枝との話をした。
零はサッとメモにとる。
「それは実際に、弓枝さんが絹川美保子に薬をもらった事があるっていうことだよな?」
そう言いながら顔を上げた。
すると絵梨香はテーブルに突っ伏したまま、動かなくなっていた。
「おい! どうした? おい!」
零は絵梨香の隣に回り込んで、その肩に触れた。
完璧に意識を失ったわけではなく、鈍い反応は返ってくる。
なんの前触れもなく、こんなに急激に眠気が襲ってくるのは、やはり不自然だと思った。
「お前、何を飲んだんだ!」
「何って……いつもの……頭痛薬だけど……」
「その薬はどこで手に入れたんだ」
「……前にも言ったけど……」
「おい!」
返答がなくなった。
脈を診て、額に触れて熱を測っても異常はない。
『RUDE BAR』で見た時と同じ、まるで極度に泥酔しているような症状だが、でも今回はあの時とは違って、アルコールを全く摂取していない。
零は意識朦朧としている絵梨香を抱き上げた。
資料もすべて置いたまま、2階に連れて上がる。
絵梨香の部屋の鍵は見つかりそうにないので、ひとまず自分の部屋に入り、まだ使っていないベッドのシーツを剥いで、そこに寝かせた。
その頃には、絵梨香にはもうすっかり意識はなかった。
深い眠りに落ちているようだ。
布団をかけて、顔にかかった髪をそっと払う。
まだ少し濡れていた。
ふと、似た光景が頭によぎった。
それは、もっと小さな女の子だった。
しかし、こうしてスヤスヤ寝息を立てているこの寝顔は、あの頃とちっとも変わらないように見えた。
よく鼻をつまんでいたずらしたことを思い出す。
しばし
時計を見る。
さっき高倉と電話していた時に、20分後に再度連絡をする約束をしていた。
車に置いてきた資料について、調べたい事が幾つかあったからだ。
更に15分が過ぎていた。
零は絵梨香を起こさないようにと、携帯電話とノート2冊を持ってバスルームに入った。
「すみません高倉さん、遅くなって。いえ、大丈夫です。ではさっきの続きから。ええ、ざっと話しますね」
零はダイニングでざっと見ただけの資料の記憶を元に、集めた証言と、その裏取りの依頼、そして彼なりの分析を手短に話し始めた。
「では明日『RUDE BAR』で。はい、午前中には出る予定でしたが、まあ新たにこのノートが見つかったことで、少し調べることが……ええ、時間は追って連絡します。わかりました。おやすみなさい」
またそれらを片手に部屋に戻る。
絵梨香の様子をうかがったが、全く動いた形跡もなかった。
ひとまず机に資料を並べた。
携帯を置いて、その横にあるタマムシノートを改めて見る。
章蔵の自作の文章が、ぎっしりと強い筆圧で書かれている。
それは手紙でもなく詩とも言えない、古典風の文章で、その形式は俳句でも川柳でもなく、定まらないものであった。
横書きに何行も書かれている。
文を読めばなんとなくの意味は把握できるが、全てが抽象的で、具体的な事は何も書いていなかった。
零が一番気になっているのは、文章に一体感がないことだった。
まるで思いつきで羅列でもしたような、飛び飛びになった表現。
零はノートから目を外して ソファーに大きくのけぞった。
「……分からない。じいさん、一体何が伝えたかったんだ?」
そう呟く自分に、溜め息をつく。
「俺も何気に追い詰められてるな」
そう自嘲めいて言うと、ベッドの方から声がした。
慌てて駆け寄る。
少し声のトーン落として、声をかけてみる。
「どうした? 相澤絵理香、起きたのか?」
反応はない。
やはり、まだ眠っているようだ。
起こさないように、そっと手首を取り、脈を測る。
頬の少し下のあたりに手の甲を当て、熱がないかも確認をした。
これだけ触っているのに、起きる気配がない。
「まったく無防備な。男の部屋だぞ」
そう言いながらも、脈を測っていた手を布団の中に戻してやる。
「今でも俺は、お前にとって“お兄ちゃん”なのかもな」
そう言いながら、もう一度布団を首元まで あげてやった。
ソファーまで戻ると、零はもう一度タマムシノートを覗いた。
ノートの前半部分には、自分たちが書き連ねた、あの頃の思い出が詰まっている筈だ。
その部分をめくろうとしたその手の動きを、零は止めた。
彼女と一緒にこれを覗き込んで読むようなことは、今後もないかもしれない。
しかし、今これを一人で読んでしまっては いけないような、そんな気がした。
第44話 『遠い記憶と現実』ー終ー
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