第45話 『秘密のスパイラル』

煌々こうこうとした電気の下で、絵梨香の目がうっすらと開いた。

起き上がるのが億劫になるようなフワフワの中にいる。


真正面の壁には見覚えのないモダンな時計がかけられており、その短針は3時を指していた。

カーテンの閉まったベランダに目をやる。

その暗さから、当然昼ではない。

真夜中だ。


絵梨香はハッとして、首元まで掛けられていた布団をね飛ばすように、勢いよく半身を起こした。


「えっ、ちょっと待って……」

一瞬パニックに陥る。

頭を抱えると、髪はまだうっすらと湿っていた。

頭の中を整理しながら、自分の行動を思い出そうと右手に目を向けると、ソファーに横たわる零を見つけた。

その光景を見て全てを思い出し、絵梨香は声を上げそうになって口を押さえた。


零は寝入っているようでピクリとも動かない。

3人掛けのソファーで寝ている零は、持て余すほど長い脚を組んだ形で手すりに掛け、大きなクッションに置いた右手を枕にしてしなやかな身体を横たえている。

その姿は『ル・コルビジェ』の広告写真にも使えそうなくらい、絵になっていて、まるで写真集のワンカットのようだった。


絵梨香は、布団から足を下ろした。

まだ少しフラついている。

きちっと揃えられた靴に足を入れ、そっと零に近づいてみる。

起きる気配はない。

端正で憂いのあるその寝顔に、思わず見入ってしまう。


街で初めて彼を発見した時の、あの衝撃を思い出した。

しどろもどろになって、彼に“ファッションショーのモデルとして出場してほしい”と説得した自分を思い出すだけでも、顔から火が出そうだ。

ここのところ頻繁に会っていたから……

だから忘れてしまっていたのかどうかは解らないけれど、この人はこんなに美しい人なんだと、改めて気付かされた。


ベッドに行き、幾重にもなっているファブリックの中からシーツを1枚引っ張り抜いて来て、そっと零の体に掛けた。

その様子は、モデルの写真集というよりも、もはやルネッサンス絵画のようだった。


すぐ脇のテーブルの上には、車に取りに行った資料の冊子と新たなメモがいくつか、螺鈿ノートにタマムシノート、そして携帯電話が置かれていた。

彼はあれからずっとここで、作業していたのだろう。

私が寝ているそばで……

そう思うと、急に恥ずかしくなった。

私はこの人の側でグーグー寝ていたのだ。

またもや声をあげそうになる。


ベッドの布団を静かに直してから、さっきよりもずっと慎重な足取りで、ドアの前まで行き、音が鳴らないようにそっと外に出る。

静まり返った廊下に出て、ホッと一息ついた。



翌朝、慌ててダイニングへ向かった。

「おはようございます……ごめんなさい、遅くなっちゃって」

弓枝は朗らかな笑顔を投げかけて、絵梨香の朝食を取りにキッチンに入っていく。

零は既に身なりを整えて座り、落ち着いて朝食をとっていた。


「絵梨香遅いぞ。ほら、こっち」

蒼汰が立ち上がって椅子を引いてくれた。

「どうした? 眠れなかったのか?」

「いえ……」

蒼汰の気遣いがなんとも心地悪かった。

横には視線を合わせない零が座っている。

「ああ、まあ……ここには色々思い出があるから」

「そうだろうな。毎年来てたんだもんな」

蒼汰はそう言って、何も疑わない。

「そうだ絵梨香、思い出したんだ。オレさ、じいさんから、ここに女の子が遊びに来てたって話を聞いた時にさ、じいさんの隠し子の更にその孫がいるんだって勘違いしたんだよ。零からじいさんの孫は男しかいないって聞いてたし、中学生だったから妙に気を回したりして。笑えるだろ? だから覚えてたんだ。まさかその子が絵梨香だったとはね」

「ああ……ええ」

蒼汰は2人を、交互に見る。

「小さい時に、零とも会ってたんだな」

零はなにも言わず無表情のままだった。

一秒がとてつもなく長く感じるほど、沈黙が重くのし掛かってくる。

「ああ、まあ、最初会った時は“ひょっとして外国の子かな”って思ったのを覚えてるわ」

そう思ったのは嘘ではなかった。

それ以外は、嘘だけれど。

蒼汰は少し目線を下げながら、明るい声で言う。

「そうか! お前らが出会っていたとはな! まあ、あり得る事だよな。話聞いてりゃ、じいさんにとってはどっちも孫みたいなもんだろ?」

「ええ、まあ……」

「大人になってからまた出会うって……なかなか神秘的だな」

絵梨香は大袈裟に頷きながら、紅茶をすする。


確かに、神秘的とも運命的とも、思った。

でも今日は話すどころか、零は目を合わすことさえ、一度もない。

彼は何を思って沈黙を貫いているのだろう。

そして、自分はどんな会話をしようとしていたんだろう。


零が席を立った。

「零」

蒼汰が零を止めた。

「なんだ?」

また重い沈黙の予感がして、絵梨香は息をつまらせた。

「あ、いや……今日のスケジュールは?」

「それが……午前中にここを出るつもりで、ここに来る前に波瑠さんに『RUDE BAR』を開けてもらう約束をしていたんだが……」

「どうした? 予定変更か?」

「ああ。食事が終わったら俺の部屋に来てくれ」

そう言って零は、弓枝に食後のお茶のおかわりを断って、ダイニングを出ていった。


「何だろう? 何か新しい事実を見つけたとか?」

蒼汰は独り言のように言いながら、首をかしげている。

絵梨香はただひたすら無言で食事をとっていた。

昨夜の事を蒼汰に知られているのではないかと、気が気じゃなかった。

もしそうだったら……

蒼汰と目を合わせてしまったら、うまくごまかせない気がした。

そしてそれが、怖かった。

「なぁ絵梨香?」

「なに!?」

蒼汰は絵梨香の方に向き直した。

「体調は?」

「え?」

「だって、もともとそんなに朝が弱いタイプでもないだろ? やっぱり昨日一日疲れたか?」

「あ……ええ。そうみたい。あ、もう上がる?」

「もういいのか? 待っててやるから、ワッフル、おかわりしてもいいぞ」

「ううん、大丈夫。捜査会議、始めなきゃ」

「そうか? わかった。昼飯はちゃんと食えよ」

「うん」

絵梨香と蒼汰も、弓枝にお茶のおかわりを断って2階に上がった。


階段を踏みしめながら思う。

昨夜、ダイニングに行った後は、この階段を上った記憶がない。

私は一体どうやって……

わかっている。

彼の部屋に寝かされていたということは、彼が私を……


「昨日の夜はさ」

「え! なに?」

「いやぁ……ばあちゃんに会えて良かったな」

「ああ……そうね。ホントにそう。蒼汰のお陰だから。ありがとうね」

「いや、それはホント良かったけど……どうしたんだ? なんか今朝は変じゃない?」

「え! そうかな? あ……久しぶりに寝坊とかしたから、焦っちゃったわ」

「別に起床時間が決められてるわけでもないし、気にしなくていいんじゃないの?」

「そうか、そうよね?」

「やっぱり変だ」

「そんなことないよ」

絵梨香は蒼汰の腕をバシッと叩いた。


零の部屋の前に着いた。

そのドアノブを見つめると、深夜に息を潜めてそのドアを閉めた記憶がフッと浮かんでくる。

蒼汰がノックをした音で我に返った。

こんなことでは心臓がいくつあっても足らない……小さく首を振った。


零がドアを開ける。

「入ってくれ」

短く言って踵を返す。

「悪いな、早々に呼びつけて」

「いや、もう荷造りは出来てるし、何もすることはなかったから……それより、どうしたんだ?」

零は2人を ソファーに促す。

少し緊張した面持ちで部屋に入ってきた絵梨香は、ベッドに目をやった。

そのベッドは、絵梨香が深夜に息を潜めながら直したままになっていて、以降使った形跡がみられない。

そしてその上に、絵梨香が零に被せたシーツも畳んで積まれていた。


彼はあれからベッドを使っていない。

ソファーでそのまま?

それとも寝ていないの?

絵梨香は振り向いて零の顔を見た。

今日初めて、彼と目が合った。

絵梨香が何を見ていたか、彼も気付いたはずだった。

しかし零は何のリアクションもしないまま、ただ無表情で、すぐ目をそらせた。


2人がソファーにつくと、零は長い脚の上に両肘を置いて、前で手を組みながら蒼汰に向かって言った。

「新たに発見したものがある」

「なんだ、新たな発見って?」

「じいさんが書いた文章を見つけたんだ」

「え? あの螺鈿ノートとはまた別に? どこで?」

その質問に、絵梨香は顔をこわばらせた。

心臓が徐々に早く音を立てる。

「“蔵”だ」

「蔵って、昨日言ってた民芸品とかが置いてある?」

「そうだ」

「そんなの、いつ行ったんだ? 昨日あれからか?」

絵梨香心臓は、となりの蒼汰に聞こえるのではないかと思うほど激しく脈打つ。

「ああ」

「なんだ! それならオレにも声かけてくれたら、一緒に行ったのに。で? また日記なのか?」

「まあそんなところだ」

絵梨香はうつむいて息を詰まらせた。

あのタマムシノートには、当時の2人の色々な思い出が書いてある。

それが今、この場で蒼汰の目にさらされる事に、絵梨香は躊躇ためらいを感じていた。


零がおもむろに立ち上がり、ダッシュボードの上から、どっさりと紙の束を持ってきて、2人の目の前に積んだ。

タマムシの写真が表紙の小学生用のノートは、オブジェのようにダッシュボードの上に、螺鈿ノートと並べて立て掛けてある。

「あのノートに?」

「ああ」

「なんか、あのシリーズ、懐かしいな。オレもなんか他の昆虫のノートを持ってたような気がする」

蒼汰はそう言って、目の前の膨大な紙束に視線を移した。

絵梨香は胸を撫で下ろした。

零の表情をうかがう。

彼は全くの無表情で、そしてやはり目も合わせてこなかった。


「で? これは?」

蒼汰がそのメモを見渡す。

零は、章蔵の文章を一節ずつ区切って、一枚ずつメモに書き写していた。

その紙をテーブルに順番に並べ始めた。

「うわ! これ……お前さ、昨日ばあちゃんを送ったよな? そっから帰って来て“蔵”に行って、そして更にそこからここに戻って来てからまとめたった事か? 零、お前……全然寝てないんじゃないか?」

「いや、少し仮眠はとった」

「って言ってもこの量だぞ? 全く! それでよくそんなスッキリした顔してられんな? お前はホント、タフだよな」

そう呆れ気味に言った。

「うわ! しかもなんだこれ? 難しい文だな」

蒼汰は、苦手とする鯖寿司を見た時と、同じリアクションでそれらを見下ろす。

「やべ! 全く解んない」

蒼汰はポケットを探る。

「あ! オレ、スマホ部屋に置いてるわ。 ちょっと取ってくる。スマホで調べながらでないと、なんにも解らないからな」


蒼汰がドアを閉める音と共に、向かい合って座っている2人の間に、重い空気が流れた。

「あれから眠れたのか」

零が真っ直ぐ、絵梨香を見た。

「あ……えっと、うん。あなたは……」

そう言って、ベッドに目をやる。

零は少し頷いて言った。

「ああ、あのまま。今お前が座ってるところでな」

「そっか。あの……ありがとう、ダイニングから運んでくれたんだよね。ごめんなさい、迷惑かけちゃったみたいで……、でも記憶なくて……」

「お前さ、あの薬は……」

ドアが開く音がした。

絵梨香を見据えていた零は、そう言いかけて目を伏せた。

「お待たせ!」

蒼汰がそう言いながら足早に入ってきた。

2人とも口をつぐんで、テーブルの上のメモに視線を走らせた。


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