第43話 『Nostalgic Space』

おぼろ気な記憶と小さな明かりを頼りに、絵梨香は何とか“思い出の蔵”の前に辿り着いた。


「えっと、どこから入るんだっけ?」

蔵戸まわりを一通り見てから、蔵の脇を覗いてみる。

すると細い路地の先から、ひょっこりと零が顔を出した。


「あ」

驚きと同時に、胸がトクンと音を立てた。

彼のいる方向にサクサクと小石を踏みしめて脇道を歩いていると、まるで自分が小学生に戻ったような錯覚に陥り、あらゆる思いが蘇ってくる。


「……そうか、そうだったわね。確か “秘密の入口”……?」

柱にもたれている零にそう話した。

「入るか?」

彼が言う。

「ええ」


「……わぁ!」

絵梨香は目をいっぱいに見開いて、辺りを見回した。

何もかも、あの時のままのように見えた。

“作業台”の方に目をやると、あの頃の小さな2人があれこれ話している姿が、目に浮かぶようだった。


絵梨香の後ろで、ゴンという鈍い音がした。

「痛てっ!」

大きな梁の前で零が頭を抱えている。

「どうしたの!?」

「……実はさっきも、ぶつけた……」

そんな零を見て、絵梨香は声を上げて笑った。

零は頭をさすりながら、彼女が笑っているのをしばらく見ていた。

「あははは……大丈夫?!」

「ああ……まあ」

「ん? なに? じっと見て」

「いや……しばらくちゃんと笑ってなかったんじゃないかなと、思って」

絵梨香は目をパチッと大きくした。

天井を見上げて、大きく息を吐く。

「そうね。心底笑ったのは久しぶりかもしれない」


2人して作業台に進むと、その側には、当時彼らが使った網や籠も、状態の良いまま保管されていた。


ちょうど死角になっていた台の向こう側に、竹で編まれた大きな行李こうりかごがあり、その蓋の部分は全面がタマムシのように美しい光沢のある装飾が施されていた。

「あ! これだわ! あのノートと同じ」

絵梨香は零の顔を見た。

「ああ、そうだ。これも螺鈿細工の一種だが、よくみると玉虫塗りではないようだ。もしかして本物のタマムシの羽を使っているのなら、こんな我楽多がらくたをいれておけないくらい、国宝級の文化財かもしれないぞ」

「ええっ! 私たち思い切りおもちゃ入れにしてたし、この上に座ったりしてなかった?」

あわてる絵梨香を、零は愉快そうにみていた。

「確かに」


その蓋を開けると、中には顕微鏡や、当時の夏休みの宿題用の下書きノートもあった。

「わぁ、懐かしい!」

色めき立ってそれらを手に取り、作業台に並べる。

その光景は、まるで当時そのものだった。


「見て! このノート、表紙がタマムシ!」

「まあ、写真だけどな。いったい誰がタマムシにハマってたんだ?」

「私じゃないと思うけど」

「俺もそんな覚えはないけどな」

ノートを開く

「あ、これは……“レイとエリの夏の記録”?」

「じいさんの字だな」

「タマムシ フリークだったのはおじいちゃんね」


ノートをめくってみる。

章蔵が書いたタイトルのあとは、2人の小学生が思うままに文章や絵を書き連ねていた。

「あ、この頃からすでに字がきれいなのね」

「お前の字は踊ってるみたいだ」

「小学2年生の字なんてこんなものよ! それにしても、どうしてこんなに保存状態がいいのかな?」

2人は辺りを見渡した。

「じいさんが、たまに眺めてたんだろ。お前と再会してから、また改めて見直してたのかもしれないな」

絵梨香はノートを持つ指先に力を込めた。


そのページをめくっていくと、その当時の思いが蘇ってくる。

その時感じた、陽の当たる頬の熱さや、セミの声、そよいだ風の心地よさも草木のみずみずしい匂いも……

あの日のままの光景が瞼の奥に浮かんだ。


「あ、“明日はもう少し上流へ行こうと思う”って書いてある! これってあの日の前日……」

そう言って絵梨香は勢いよく振り返ろうとした。

すると頬が触れそうなくらい、すぐ近くに零の顔があった。

動揺した絵梨香は、手からノートを滑らせてしまう。


「あっ、ごめん」

あわてて拾おうとする2人がしゃがむと、またまた至近距離が生まれた。

息を呑む絵梨香に、零が言った。


「これ、見ろよ」

「え?」


絵梨香は彼の顔から、彼が指し示す場所へと視線を移した。

落下したノートが開いた箇所にびっしり文字か並んでいた。

「……これ、おじいちゃんの字だよね?」

「ああ、元々こんなのは書いてなかった筈だ」

「そうね、多分。気づかなかったのかもしれないけれど」


2人は照明の真下の作業台にノートを開いて、その内容を読んだ。

「難しい文章ね。意味、解る?」

「ぼんやりとしかわからないが……ただ、なんとなく違和感を感じる」

「違和感? どういうこと?」

「じいさんはわりと文才に長けてるはずだが、何と言うか……文章がバラバラのような気がする」

「文章がバラバラ?」

「むしろ並び変えれば、もう少し美しい文章になるかなと。言い回しも……なんというか、強引で……そう思う箇所がいくつもあるな」

零は真剣にそのノートに見入っている。


絵梨香はその横顔を盗み見た。

長い睫毛が目の動きと共に上下している。

さっきは至近距離から、その瞳にとらえられてしまい、吸い込まれそうになった。

いくら無防備だったとはいえ、あんなに動揺してしまったら、彼だって変に思うに違いない。

なんとも落ち着かない静寂だった。


その時、蔵戸から細かいさらさらとした音が聞こえ始めた。

「ん? なんの音? まさか雨?」

声を繕いながら、絵梨香は耳を澄ませる。

「ああ、降って来たみたいだな」

2人は無意識に蔵の中を見渡していた。

「見て、あれ!」

黄色のレジャーシートが、まるでオブジェのように吊るしてあった。

2人はまた無意識に、それを見上げながらにじり寄っていった。


「これって……」

「ああ、山で雨に遭った時に傘にした、あのシートだ」

そのシートはホコリ一つかぶっていなかった。

章蔵が手入れをしてくれていたのだろう。

胸が熱くなって、少し泣きそうになるのを抑えた。

「もっと大きかったような……そっか、あの頃は2人とも小さかったから、すっぽり入ったのね」

「まあでも、ほとんどずぶ濡れだったけどな」

絵梨香は笑った。

「あの時は、絶対に怒られるって思ってたよね?」

「ああ」

「なのに、おじいちゃん……」

2人の心に、同じ記憶が流れた。

持っていた傘を放り出して、2人を抱き締めてくれた章蔵の姿と温もりを思い出す。

絵梨香は堪えきれなくなって、頬に一筋の涙をこぼした。


零は優しい声で言った。

「これ使って、帰ってみるか?」

「え?」

絵梨香が顔をあげた。

「ここに傘はないからな」


零は梁に掛かっているシートを、ひょいと取り外した。

「あの頃は、私もあなたも届かなかったのにね。あれから16年か……」

「そうだな」

そして零は、あの頃のように両手を広げようとして、シートの両端を持ってみた。

「ちっちゃ」

絵梨香がくすくす笑った。

「あの時と同じ人物とは思えないね。出来ることなら並べて比べたいくらい!」

「お前だって、原形留めてないぞ」

「ま、そうかもね」

そう言いながらも、シートの先ををつまみながら不服そうに眺めている青年の口元に、当時の名残を感じた。


黄色いシートと、タマムシノートを手に、蔵の外のひさしまで出てきた。

「わりと降ってるわね」

「これはお前が使え。走って帰ろう」

絵梨香は自分にシートを被せようとする零の腕を阻止して、彼の胸の前に入り込んだ。

「あなたが持って。これならまだ……濡れにくいわ」

零からノートを受け取って胸に抱くと、恥ずかしそうにうつむきながら言った。


零が両手に掲げた黄色いシートをマントのように翻し、2人は走った。

時折彼の胸に接してしまい、顔を赤らめながらも、絵梨香は零に包まれて、あの時のように守られているような気持ちになった。


玄関のひさしの下で雨をはらう。

シートをそこに広げる零を見て、絵梨香が声をあげた。

「わぁ! めちゃくちゃ濡れてるじゃない。ちゃんとかぶってた?」

零の背中は、雨がしたたりそうなほど濡れていて、服が変色している。


きっと、私にかぶせてくれてたんだ……

そう思った。


「まあ、シートが小さくなったしな」

「シートが小さくなったわけじゃなくて、あなたが大きくなったんでしょ?」

「まあ、そうか」

2人はぐっしょり濡れた足元を見て笑った。

絵梨香は胸にしっかり抱いていたタマムシノートを零に渡した。

階段をあがって2階についてからは、声を発せず頷くだけで「おやすみ」と伝え、部屋の前で静かに別れた。


シャワーを浴びながら、絵梨香は心の中に何かがほとばしるような気持ちを感じた。


第43話 『Nostalgic Space』ー終ー

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