第42話 『思い出の場所』
「絵梨香ったら、そんな寂しそうな顔しないの!」
零の車の助手席の窓を開けて、絵梨香はそこに座る静代の手を握っていた。
「おばあちゃん、またすぐ会えるよね?」
「もちろんよ。今夜は楽しかったわ! しかも私、イケメンの運転する車の助手席に乗るのなんて、ホントに久しぶりなんだから。若返っちゃいそう!」
そう言って絵梨香を笑わせる。
「もう、おばあちゃんったら!」
静代は絵梨香の頬を、また両手で挟んだ。
「また会いましょ。風邪引いたりしちゃダメよ。由夏にもよろしく。じゃあね」
絵梨香は車が見えなくなるまで、手を振って見送った。
すぐ横にいた蒼汰が、絵梨香を気遣う。
「大丈夫か?」
「……うん」
そう言いながらも、絵梨香は少し気まずそうに下を向くと、蒼太の一歩前を歩いて屋敷に足を向けた。
蒼汰は、前を歩く絵梨香がポケットからハンカチを取り出すのを静かに見ていた。
足元のガーデンライトに導かれるように、西園寺邸に向かう小道を、虫の奏でる優しい音を聞きながら、2人は距離を保って歩いていった。
閑寂な玄関を通り抜け、2階への階段を上がり切ったところで、絵梨香は立ち止まった。
部屋に向かう廊下を左折せずに直進する。
「絵梨香、どこ行くんだ?」
「ちょっと夜のテラスに出てみたくなって……」
「同感だな。オレも行くわ」
2人してテラスのガラスドアを開け放った。
一斉に虫の音が耳に飛び込んできた。
「すごい!」
「玄関側とはスケールが違うな。まるで鈴が鳴ってるみたいだ!」
テラスだけではなく、広大な中庭全体から、まるで合唱のような連なった美しい響きが聞こえる。
その光景は、漆黒の海にも似ていた。
建物の右のずっと奥に、小さな光が見えた。
昼間は気がつかなかったが、確かあそこに “離れ” があって、その横にあの大きな “蔵” がある。
あの蔵は、当時の絵梨香たちにとって、いわば研究室みたいなものだった。
アトリエでもあり、そして、あの夏の思い出がつまった “私たちの秘密基地” でもあった。
「あそこが“蔵”だよな?」
「え、……ああ、多分ね」
「入ったことある?」
「うん……まあ」
「零がさっき言ってたけど、民芸品とか置いてあるの?」
「あ……どうかな、昔過ぎて覚えてない……」
「そりゃそうか」
なぜどぎまぎしたり隠したりするのか、自分でもわからなかった。
心地よい音色に乗せて、あの頃に思いを馳せて目を閉じた。
「なんだか吸い込まれそう」
「もう秋が近づいてるって雰囲気だな」
「そうね、立秋はとっくに過ぎてるし」
蒼汰が絵梨香をじっと見ていた。
「ん? どうしたの?」
「……よかったよ、元気になって」
薄暗いテラスの小さな街灯に照らされた蒼汰の横顔は、優しさに溢れていた。
「この短期間にいろんなことがあったろ? 精神的に参ってると思ってたからさ」
「うん……。だけど、2人が支えてくれた。私も目を背けることなく、こうして正面から関わらせてもらえて、少し強くなれたように思えるの。ありがとうね、蒼汰」
蒼汰は照れくさそうに、少し向こうを向いた。
「いや……本当は強くなんて、なんなくていいんだけどな。何て言うか……あんまり無理すんなよ」
「ほんと、優しいよね。なのに私は蒼汰の事、全然知らなかったんだなって。蒼汰は来栖零と一緒に、これまでだってこんな風に捜査に関わってきたわけでしょう? 色々な事件があれば、いくら身内でなかったとしても、その回数分だけ心が痛んだはずよ。それに果敢に挑んで来たんだなぁって。知らなかった。本当に尊敬しちゃうわ」
蒼汰はちょっと恥ずかしそうに頭を掻いた。
「まあ……とにかく、絵梨香はあまり無理すんな。体調だってまだ戻ってないだろう?」
「ありがとう。いつも気遣ってくれて」
更に恥ずかしそうな顔をする。
「ああじゃあ……もう部屋に帰るか! 今日はロングドライブだったし、疲れてるだろ? 早く寝た方がいいしな」
「そうね、部屋に戻ろう」
そう言って 踵を返すえりかの足元に何か落ちているのに気がついた。
「絵梨香、何か落ちたよ」
そう言いながら蒼汰が拾おうとした時、絵梨香が慌てて戻ってきて、さらうようにそれを取り上げた。
「……ありがとう」
そう言ってスタスタ建物の中に向かって歩いて行った。
あのハンカチ……さっき、門のところでポケットから取り出してたやつか?
でも、なんだか男物っぽかったけどな?
2人して自室前に戻る。
「じゃあな、ゆっくり寝ろよ」
「おやすみ」
手を振る絵梨香を見届けた。
自室のドアを閉めた瞬間、蒼汰はドアに背中を向け、頭を抱えてうなだれた。
「俺は一体何をしてるんだ? 一世一代のチャンスだったかもしれないのに……」
時計の針は10時半を示している。
絵梨香は手早く寝支度をして、休もうとベッドに飛び込んだ。
ひとしきりフワフワを楽しんだ後、天井を見ながら今日1日を振り返っていた。
ここに来て、祖母も含め色々な人の話を聞いて、実際の目でおじいちゃんの生活にも触れて……捜査もぐんと真相に近づいた。
来栖零、彼は本当にすごい人物だ。
理論的で些細なことも見逃さない。
知識だけじゃなく、事実に基づいて人の行動も見通す事が出来る能力がある。
まるで千里眼でも持っているかのように。
そんな彼が……あの夏のあの子だった。
ここに到着する寸前に見た、あまりにも鮮明な夢が、絵梨香の心をつかんで離さなかった。
あの濃密な夏を共に過ごした “お兄ちゃん” が彼……
頭はどんどん冴えてゆき、思いはどんどん当時に引き戻されていく。
「あー! もうだめだ」
絵梨香はベッドから跳ね起きて、クローゼットから懐中電灯を取り出した。
静代を送った零が戻ってきた。
部屋に向かうために大階段を上ると、突き当たりのテラスのガラス戸がホンの少しずれているのに気が付いた。
暗いその奥に目をやると、2つの背中が見える。
零はそのまま、廊下を左折して自室に直行した。
部屋に入ると、零はそこを突っ切り、ベランダに出た。
一斉に聞こえる虫の音が胸に差し迫り、室内に追いやられそうになった。
昔懐かしい思いが、一気に湧いてくる。
この音を聞きながら、子供ながらにどんな思いがあったかが、ふっと甦ってきた。
漆黒の海のごとく、辺りに目をやると、
建物の右のずっと奥に、小さな光が見えた。
電気のついていない隣のベランダとその隣のベランダを
その時、隣のベランダに灯りがついた。
零は部屋の中に引っ込む。
昼間、あの螺鈿細工の表紙を見てから、ずっとあの場所が気になっていた。
ただ懐かしいというだけではない、特別な思い出の場所が。
あいつは覚えていないようだったが……
本当は静代からの話をもとに、状況を整理しておくべきだったが、今の自分は頭を“それ”に占領されている。
ならば、しばし当時の思いに浸ってみようと、零はクローゼットから懐中電灯を取り上げて部屋を出た。
子供の頃はあの“蔵”に辿り着くまで、山あり谷ありのイメージだったが、夜にも関わらず、意外とすんなり来れてしまった。
足の長さが違うんだ、当然か。
あの頃は、今とでは頭の位置が70cm程も低いわけだし。
そう思いながら蔵の前まで来ると、さすがに胸が高鳴るのを感じた。
当時、勝手に “秘密の出入り口” と命名した小さな裏口から潜り込んだ。
中は空気すらあの時代を感じさせるノスタルジーな空間だった。
「痛てっ!」
当時はジャンプしても届かなかった梁に、今は頭をぶつける。
「大人になった洗礼ってやつか……」
思わず独り言を言った。
コンテナのように大きな木箱を3つ並べて作業台にして、ここで実験をしたり、調べたことをまとめたり、絵を書いたり……
太陽が出ていない時間はここで過ごすことが多かった。
そう、あの子と。
懐かしく語りかけてくる、多くのモノ達を横目に、零は奥に進んだ。
そして骨董品ともいえるような
「まだあったか」
零の顔は、いつになく色めき立った。
そこには当時のまま、アルミ缶が入っていた。
幼い頃の自分のタイムカプセルだった。
16年の時を経て、タイムカプセルを開けるその時、胸の中で鍵が開くような不思議な音がした。
その蓋をとると、当時のおもちゃや買ってもらったお菓子のおまけが入っていた。
その奥に、四つに折った画用紙があった。
そっと開いてみる。
小学校低学年の、決して上手とは言えない絵だった。
女の子と男の子が手を繋いで、正面を向いて笑っている。
青空をバックに山が書かれ、手前には川が流れている。
水色のクレヨンで塗りつぶされた水中には魚がいて、山にはトンボが飛んでいた。
男の子の横には “レイ” とカタカナの拙い字で書いてある。
そしてその女の子の横には……
「エリ」
そう声に出した瞬間、零は
頭のなかで当時の2人が会話している。
「来年もまた絶対会おうな、エリ」
「大好きよお兄ちゃん」
「エリ……ぼくの妹」
あの時の少女が彼女……
目を開けて、もう一度しみじみと その絵を見つめ、文字をそっと指でなぞった。
その時、蔵戸の向こうで物音がした。
零は絵をアルミ缶に戻し、手早く引き出しを閉めて “秘密の入口” まで戻り、外の様子を伺った。
「あ」
絵梨香が蔵戸側から蔵の脇を覗いていた。
その驚いた表情に、16年前の少女の面影が重なった。
絵梨香は、サクサクと小石を踏みしめる音を立てて脇道を歩いてくる。
頭を引っ込めた零は、彼女が近づいてくるごく短い時間を、不思議な気持ちで過ごす。
「……そうか、そうだったわね。確か “秘密の入口”……?」
少し照れくさそうな表情で彼女が笑った。
「入るか?」
「ええ」
零は彼女を招き入れた。
第42話 『思い出の場所』ー終ー
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