第27話 『不調』

絵梨香にとって西園寺章蔵は親族同然だった。

幼い頃の絵梨香の人間形成に深く関わってくれた、恩師のような存在だった。

ようやく再会できたことも、新たな門出を祝えることも、この上なく嬉しい出来事だったのに……


一瞬にして奪われた命……


おじいちゃんのあの優しい微笑みが、もう永遠に見られないのだと思うと、どうにかなりそうになるくらいに悲しくて、うずくまりそうになる。

同時に、今まで感じたことのない怒りが込み上げてきて、絵梨香の心を引き裂くのだった。



『想命館』での事件の夜は、蒼汰の気遣いを受けながら何とか気丈に取り繕ったものの、宿泊する部屋に入るや否や視界が歪むような感覚に捕らわれ、吐き気がして立っていられなくなった。

這うように部屋を出て来たところに小田切佳乃が通りかかり、畳の広間に通してくれて介抱してくれた。

佳乃によると、このような遺族の急性ストレス反応はよくあることで、対応にも慣れていると言っていた。

とにかく心安らかに落ち着けることが一番の薬だと、その夜はその和室に二つ布団を並べて、佳乃が一緒に仮眠をとってくれた。



翌日、朝から零が親族と共に『想命館』を早々に立ち去ってからは、高倉警部補の手伝いを蒼汰と共に行ってから自宅に送ってもらった。


昼過ぎから絵梨香はベッドに倒れ込んだまま、そこから暫く目覚めなくて、由夏を心配させた。

出張先から一時帰宅してきた由夏は、絵梨香にしばらく仕事を休むことを提案してくれたが、一人で家に居るとまた悲しみと向き合ってしまい一日中泣き続けるだろうと思ったので、通常通りの勤務を願い出た。


そして今日、自分から通常業務をかって出た割には、なんだかずっとぼんやりしていて、結局ろくに仕事にならないことに落胆している。

時折、妙な頭痛に襲われる。

それも急性ストレスの症状だと、佳乃に説明を受けていた。

「不調があっても、理由さえ分かっていれば、それ以上の不安からは解放されるんですよ」

そう言って彼女は鎮痛剤をくれた。

「気休めでも、服用することで自分を安心させる効果があるから、躊躇することなく使うといいですよ」

彼女はそう教えてくれた。

なるほど、服用すれば少し緩和されるような気もする。



終業時間を迎え、他の社員よりも先に『ファビュラスJAPAN』のドアを開け、退出した。

エントランスホールの夕日が顔を照らす。

今の絵梨香には眩しすぎて、思わず目を背ける。

この夕日のもとに、早くエレベーターが来ることを願うなんて、これまでの自分では考えられない事だった。


マンション前に着いた。

最近はぼんやり歩いているのか、電車での記憶もあまりない。

駅前のお気に入りのショップが開いていたのかどうかも思い出せない。

この調子では、道々で人に声をかけられても気が付かないで、無視してしまってるのではないかと、後から心配になることがある。


蒼汰からメッセージが入っていた。


「久しぶりに『RUDE BAR』に行くから来ないか?」


家の中で一人こもっても、絶対に良いことにはならないのもわかっていたし、ずいぶん顔を出していないのもあって、行きたいと思った。

「一旦部屋にあがってから行く」

そう蒼汰にメッセージを入れた。



先に『RUDE BAR』に来ていた蒼汰は、カウンターにいた。

今日は高倉警部補が不在なので会議は行われない。

つい先ほど『RUDE BAR』に到着した零は、さっそく所定の位置でパソコンに向かいながら、黙々と指を動かしていた。


「ところで絵梨香ちゃんはどうしてるんだ? 最近見ないけど」

何気なく聞いてきた波瑠に、蒼汰が神妙な顔で答えた。

「そうか、波瑠さんにそれも言ってなかったな……」

「どうした?」

「実は……西園寺のじいさん、絵梨香とも知り合いだったんだよ」

「どうして? 偶然か?」

「そうだな……まあ偶然だ」

蒼汰は絵梨香と西園寺章蔵の関係を話した。

「そんなこと、あるんだな」

「そうなんだ。オレがじいさんと出会うよりも前に、絵梨香はじいさんと親しかったんだよ。それで今回の生前葬の話が舞い込んで来たわけ。十数年ぶりに会えて、絵梨香、すごく喜んでてさ。それなのに、目の前であんな事件が起こったもんだから、もう精神的にズタズタになって……」

「なんてことだ……今、絵梨香ちゃんはどうしてるんだ?」

「まあ、由夏姉ちゃんの話によると、一応会社でも気丈に振る舞ってるみたいだよ。オレもこまめに連絡入れてるけどさ。まぁ返事を見る限りだと、不安定だけど大分マシになってきてるような気がするよ」

「そうか、絵梨香ちゃんにもそんなことがあったのか……」

波瑠はうつむき加減のまま呟いた。


「ねぇ波瑠さん、今何時?」

「ああ、7時だけど」

「あ、じゃあもうすぐ来るよ」

「え? 絵梨香ちゃん来るのか?」

「うん。さっき連絡したら、一度家に上がってから来る、って言ってた」

後ろの席で、零がハッとしたような顔でパソコンから顔をあげるのを、波瑠は見ていた。

眼鏡を外した零が立ち上がりかけた時、ドアチャイムが鳴った。

「おお、絵梨香ちゃん」

零が少しほっとしたような顔をしたなと、波瑠は思った。


「こんばんは」

そう言って絵梨香は階段を降りてくる。

しかし、絵梨香の動きはいつになくゆっくりで、三人は突っ立ったまま、じっと階段を見上げているような形になった。

「波瑠さん、ご無沙汰してます」

蒼汰の横にストンと座った。

その力ない笑顔に、波瑠は眉根を寄せて言った。

「絵梨香ちゃん、大変だったんだってね? 今聞いたんだけど……大丈夫?」

絵梨香はぼんやりした瞳で波瑠を見た。

「うん……もうなんか色々気持ちがぐちゃぐちゃになって……ちゃんと出来てるのかも判らないけど、仕事をせずに家にいるのもいやだから……」

「由夏さんは? 今はどうしてる? こっちにいるの?」

「ううん。由夏ちゃん、今は大事な商談があって出張中なの。何箇所も回らなきゃならなくて結構長い間行くことになってて……」

絵梨香の目はトロンとしていて、今にも眠りに落ちそうな顔をしている。

「絵梨香ちゃん、相当疲れてるみたいだけど……眠たい?」

「うん。それがね、常に眠たい感じなの。なんか定期的に頭痛もするし……」

「絵梨香、それって病院に行った方が……」

「ううん、大丈夫。ねぇ蒼汰、小田原佳乃さんって覚えてる?」

「ああ『想命館』の?」

「そう。佳乃さんにいろいろ親切にしてもらってね。おかげで大分気持ちが楽になったの。頭痛薬もくれたし」

「そうか……」

「頭が痛くなっても飲んだらすぐ効くの」


絵梨香の言葉は辿々しく、波瑠は今日はお酒はやめておいたほうがいいと、ソフトドリンクを勧めた。

「でもずっと飲んでないから、一杯だけ飲みたいな」

「わかった。じゃあ軽いのを一杯だけね」

そう言ってオレンジ色の甘いカクテルを出した。

「これ大好き! やっぱり、ここで飲むのっていいわね。おいしい!」

そう言う絵梨香の横顔を波瑠は心配そうに見ていた。

しばらく蒼汰と波瑠が話していると、カタンという音と共に、絵梨香がカウンターに突っ伏した。

「あれ? 絵梨香ちゃん? どうした」

蒼汰も絵梨香の肩を揺さぶる。

「おーい、絵梨香。寝てるのか?」

零が後ろからやってきた。

「どうした?」

「絵梨香の様子がおかしいんだ、突然意識を失ったみたいになって」

零が手首を持って脈をみる。

頬に触っても反応が薄い。

「眠ってる」

「え? 眠ってるだけなのか? まだ7時過ぎだぞ。どうして急に?」

「何か変わったことは?」

「いや。出したカクテルもかなりアルコールの薄いものだったよ。でも半分飲んだぐらいで、少しフラフラしだしてたから……ひょっとすると、絵梨香ちゃん、ここしばらく全く眠れてなかったとか……」

「あり得るな」

「しばらく奥で寝かせて、様子をみようか」 

絵梨香は、完璧に寝てしまったわけではなかったが、まるで極度の泥酔者のようだった。

零と蒼汰で、絵梨香の腕を片方ずつ支えながら奥のソファーに連れて行き、横にならせた。


第27話『不調』ー終ー

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