第60話 『疑惑』
パーテーションの向こう側が賑やかになった。
「蒼汰と相澤が来たようですね」
高倉はパーテーションを開けた。
「高倉さん、こんばんは」
そう言って振り向いた絵梨香の表情は明るく、そこにいた全員を安堵させた。
「相澤さん、西園寺家に続いて『想命館』の方でもお世話になるけど、よろしくね」
「ええ、私でお役に立てる事があるなら、何でもやりますよ!」
「頼もしいな」
会議室に戻り、週末の『想命館』での聞き込みに向けて、打ち合わせをするべく、高倉は持ってきたスタッフの資料と調書を机に並べた。
その時、零の携帯電話が鳴った。
通知画面をみて、少し驚いたように電話に出る。
「……弓枝さん? なにかありましたか?」
「はい。零様、突然お電話差し上げて申し訳ありません」
「構いませんが、どうされました?」
「実は、今の今、庭師さんから聞いた話で気になることがありまして」
「お話しください。まず庭師さんのお名前から」
零は手早くメモを用意し、スピーカーに切り替えて携帯電話をテーブルに置いた。
「竹園耕作さんです。70歳くらいのかたなんですが」
「どんな内容ですか?」
「実は、竹園さんが、絹川さんが中庭の隅で隠れるように電話していたのを思い出した、とおっしゃるんです。怯えた様子で」
「怯えた様子、ですか?」
「ええ。コソコソと話していて内容はわからなかったそうですが、突然、“出来るわけないでしょ!” と声を荒げたと言うんです」
「それはいつです?」
「旦那様が病院に行かれている時以外ですから……火曜か木曜日ですが……」
弓枝はカレンダーを確認する。
「お式が週末でしたから、その前の火曜日です」
「わかりました、ありがとうございます。念のために庭師の方の連絡先も教えて下さい」
零はメモを取ったあと、絵梨香の方を見た。
「弓枝さん、ちょっと待ってください」
そう言って零は、携帯電話を絵梨香に渡した。
「少し話したらどうだ。“またゆっくりと行かせてもらう” と伝えてくれ」
絵梨香は頷いて、それを受け取り、弓枝としばし話した。
その明るい声に皆が和む。
「ありがとう」
そう言って零に絵梨香がスマホを返すと、零は高倉に絹川の通話記録を調べてほしいと頼み、立ち上がった。
蒼汰が驚いたように零を見上げた。
「どうした零? どっか行くのか?」
「ああ、親族会議があって」
「え? 例の“貸金庫の中身の開示” ってこと?」
「ああ」
「こんな遅くから?」
「いや、ちょっと遠方でやるから、前乗りで宿泊する」
「は……そりゃ大変だな」
「でも明日には帰ってくるから、お前たちが都合よければまたここに来てくれ。『想命館』のお聞き込みの概要は、今から高倉さんと相談しといてくれるか? 明日また、方針を聞かせてくれ」
「分かった。しかし……零は忙しいな。今からまた長距離運転か? 気をつけて行ってこいよ」
絵梨香が、少し心配そうな目で零を見ていた。
「じゃあ、高倉さん、あとはよろしくお願いします」
「ああ、君も気を付けて」
「はい、また連絡します」
零はパーティーションから出て行った。
波瑠と会話をしているのが、なんとなく聞こえる。
「じゃあ、これからここにある調書をもとに、実際君達に『想命館』に行ってもらってどんな聞き込みをしてもらいたいかを話し合いたいと思うんだけど」
「はい、よろしくお願いします」
そう言って絵梨香がは、ボールペンを出そうとカバンを覗いた。
「あ」
短くそう言うと、カバンの中に手を入れて、何かを取り出そうとしながら、立ち上がった。
同時にドアチャイムの音が鳴り、零が店を出たことを知らせた。
動きが止まった絵梨香を、2人が見上げた。
「絵梨香、何してるんだ?」
「えーと、あ、いえ。ごめんなさい。ちょっと化粧室に行ってきます」
明らかに取り繕ったようにカバンを肩に掛け、いそいそとパーテーションから出て行く。
「何だあれ?」
首をひねっていた蒼汰に、高倉が言った。
「何か零くんに用事でもあったんじゃないの?」
「あ……そうかもしれませんね」
高倉にそう言われると、そんな気がする。
ほどなくして戻った絵梨香の手には、アイスコーヒーが3つ乗ったトレイが持たれていた。
「これ、波瑠さんが持っていけって」
絵梨香はにこやかにそれをテーブルに置いた。
「おお、これはありがたい」
高倉は喜んで手に取った。
『想命館』のスタッフの誰と面識があるかを、絵梨香が高倉にヒアリングされている間、蒼汰はさっきから気になっていた絵梨香のカバンを、そっと覗いた。
本当に高倉が言うように、何か零に渡すようなものがあったのか……
いつもなら気にならない筈なのに、今日は何故か妙に気になった。
そこには、ジッパーバッグがあった。
透明のビニール製にカラフルなラインが施されている。
どこかで見たような気がして、蒼汰は記憶を辿った。
そんなに昔のことではない……
これと同じ……
“あ! これは”
そう思った時、声が出そうになった。
その時の情景が鮮やかに頭の中に蘇る。
"蔵"の中で絵梨香が突然過呼吸を起こした時、走り込んできた零が応急処置と言って、自分のポケットを探って……
そこから出てきたビニール袋がこれだ。
そしてそれを、激しく呼吸を繰り返す絵梨香の口元に当てた。
間隔を置きながら慎重に……
そして、部屋に連れ帰った絵梨香を寝かせた枕元に、零が自室から取ってきた紙袋と共に、この袋が置いてあった……
情景が、鮮明に思い出された。
間違いない。
使用したその袋はシワだらけになっていたが、絵梨香のカバンに入っているこの袋は真新しい。
そして更に、今その袋の中に何が入っているのか……
よくは見えないが、目を凝らして見てみる。
その時、パーテーションが開いた。
「これ、お客さんに頂いたんだけど」
波瑠がそう言って差し出したのは、最近この近所にできた高級チョコレート店のアソートボックスだった。
絵梨香がワーッと声を上げる。
「高倉さんもきっとお好きですよね? よかったらいかがですか?」
そう言って波瑠が笑いかけた。
箱を受け取った絵梨香と高倉が、チョコレートに注目している間、蒼汰はもう一度、カバンの中の袋に目を凝らした。
一つのブランドマークが見えた。
それが何であるか、頭にかかっていた
「ねえ、蒼汰はどれにする?」
そう絵梨香に声をかけられるも、生返事しか出なかった。
「ああ……オレは今はいい」
そう言って再び視線を戻す。
それは蒼汰がいくつか疑問に思ってたものの中の1つだった。
今日、この『RUDE BAR』に来るために、絵梨香の手によって、丁寧に袋に入れて用意されたものなのだ。
そして蒼汰がそれを目にするのは、今日で3度目だった。
1度目は、西園寺家の夜のテラスで。
2度目は、昨日自分の手で、彼女に届けた。
そして3度目の今日、ずっと疑問に思っていた、その持ち主がわかった。
その“男物のハンカチ”の持ち主は、零だ。
そしてその袋の存在によって、絵梨香が それを零に返却するのが、2度目であることを知らされる。
「なんで蒼汰、食べないの? すごくおいしいよ! この前、私も買おうと思ったら 長蛇の列で……まぁ、まだオープンしたばかりだからってかいかぶってたんだけど、味も本物だよ! ねえ高倉さん?」
「ほんと、これはうまいね! 江藤君も食べてみたら?」
「あ……じゃあいただきます」
そう気のない返事をして、適当に摘んだもの口に入れる。
ほとんど味を感じられなかった。
ぐちゃっと潰れたチョコレートの中から、ほろ苦いツンと鼻に抜けるようなブランデーの香りがして、高倉と絵梨香が話している声が、更に遠く感じられる。
零がそのハンカチを渡すシーンを想像した。
1度目は、いつか分からない。
でも、袋に入れて返した筈のハンカチを、もう一度、絵梨香が借りる局面があった、ということだ。
ハンカチは絵梨香の手に渡り、袋だけが零の手元に残った。
そして今、絵梨香のカバンの中にある、その袋によって、また新たな、自分の知らない2人のシーンが生まれようとしているのだと……
高倉の携帯が鳴った。
先ほどの弓枝の電話からすぐに、絹川の通話記録を調べるよう手配した高倉に、その返事が届いたようだ。
しばらく話していた高倉が、電話を切った直後、また電話をする。
相手は零だ。
「零くん、今話せるか? 絹川の通話記録を調べさせたよ。相手は追跡できない携帯からだった。しかし、同一とは断定できないとはいえ、時期的にその番号と何度も連絡を取っている形跡があった。さすがに 怪しさを感じるよ。ああ、分かった。ところで、今君は家なの? そうか。これから 長時間運転することになるけど、大丈夫か? こっちもこの電話の件を絹川に突きつけてみようと思うんだが……構わないか? わかった。 明日、俺は来られないが、佐川に聞き込みをさせて報告出来るようにしておくよ。ああ、じゃあ気を付けてな」
その会話をぼんやり聞きながら、蒼汰は絵梨香に質問をするかどうか、迷っていた。
聞くのは、簡単なはずだ。
だが、一度テラスで見せたあの時の、彼女のぎこちない横顔が頭をよぎった。
絵梨香がそんな顔をするような……そんなシーンが、2人の間にあったのだろうか?
きっと以前なら何も考えずに聞いていた筈の自分に対して、不思議に思う。
何が違うのか、自問した。
ふわっと頭に浮かんだのは、“蔵” の中で感じた絵梨香を抱きしめた時の感覚だった。
同時に、何かがつかえたような痛みと共に、また胸の中で音が鳴る。
一瞬、顔をしかめた。
「蒼汰? どうかした?」
絵梨香が顔を覗いてくる。
「あ……いや別に。このチョコレート、結構ブランデーがきつくて」
「そうなんだ?」
絵梨香は不思議な顔で、蒼汰を見た。
「あー、でも、すごくうまいな! これ」
「でしょ!」
絵梨香の表情が、屈託ない笑顔に変わった。
聞くのはよそう。
その笑顔を見て、蒼汰はそう思った。
明日はここに来られない高倉は、今日のうちに2人に把握させようと、『想命館』のスタッフとの話を丁寧に説明してくれた。
「零くんもいないことだし、今夜は少し早めに切り上げようか」
「そうですね。色々教えて頂いて、ありがとうございました」
絵梨香は丁寧にお礼を言った。
「こちらこそ! 週末は世話になるよ。とりあえず明後日、零くんも交えて、もう一度話をしよう。君たちは明日も来るの?」
「はい、そのつもりです」
波瑠に挨拶をして、3人一緒に『RUDE BAR』を出た。
「じゃあ明後日、よろしくね」
そう言った高倉とは、大通りのドアの前でわかれた。
2人は、並んですぐ近くの絵梨香のマンションに向かって歩き出す。
「今日、晩御飯食べたお店さぁ、すごく良かったよね? あそこって、蒼太の行きつけなの?」
「いや、随分前に、零に教えてもらって……」
そう言って、言葉に詰まった。
「あ……そうなんだ? また行きたいな」
「零も……一緒に?」
「え?」
「あ、いや。零も久しぶりに行きたいだろうなーとか思って。でも一緒に街に出ることも、なかなかないからなぁ」
「そうでしょうね」
『カサブランカレジデンス』の前には、すぐ到着した。
「明日はね、蒼汰と一緒に食事が出来るかは、分からないんだ。コラム、全く書けてなくて、ちょっと残業するかもしれないし。連絡するね!」
「ああ」
「じゃあまた明日ね」
そう言って、彼女がエントランスから消えるまで、そこで背中を見送っていた。
エレベーターが閉まる寸前まで手を振って笑顔を見せている絵梨香の、その手にしたカバンに視線を置いてしまう。
妙な胸騒ぎが、心を占領する。
あの2人に、何かあるのか。
その心の中に、それぞれ自分が知らない感情が、あったりするのだろうか。
1人、桜川の道を南下しながら、その思考を払拭しようと
シーンを想像しても、その前に、あらゆる場面で絵梨香を蒼汰に託す、零の姿が頭にうつし出された。
そうだ、零の中では、絵梨香は俺の管轄だ。
駅に着く頃には、少し自分らしさを取り戻せた気がした。
明日は気持ちを新たに捜査に挑もうと思った。
おそらく親族の集まりで、疲労困憊であろう零を、親友として温かく迎えようと。
そう心に決めた。
第60話 『疑惑』 ー終ー
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