第132話 『Regained Consciousness』
翌朝、病室のベッドの上で目覚めた蒼汰は、しばらくそこで
絵梨香が切り付けられた時、自分が上げた大きな声に重なった零の叫びが、今でも耳から離れない。
初めて実感した零の想い……
そしてそれに背を向けるように、アメリカへ発つと言った零の無機質な表情……
どうすれば……
まだ目を開けない昨夜の絵梨香の顔を思い浮かべる。
蒼汰は大きな溜め息をついた。
「今考えてもしょうがないか……よし、とにかく顔でも見に行くか」
そう言って体を動かすと、それまで忘れていた痛みが太ももにビッと走る。
「痛ってぇ!」
その痛みも、絵梨香への思いにつながる。
本当はこの想いすらも、痛みと同時に飛ばしてしまいたいのに……
そう思いながらも、どちらも不可能だということを、自分のなかで把握している。
蒼汰はそっとベッドから足を下ろして身支度をすると、その足を引きずりながら病室を出た。
エレベーターの上行きのボタンを押して、ほどなくして開いた扉の中には、絵梨香の母の千香子が偶然乗っていた。
「おはようございます」
「おはよう蒼汰くん、お加減はどう?」
「まあ……少しは痛みもマシになってます。おばさん、どこかに行ってたんですか?」
「ああ、院長にお話を聞いてたの。出血が多かったけど、回復傾向は悪くないからもうすぐ意識は戻るだろうって」
「そうですか……よかった。おばさん、昨日あのままずっと病室にいたんですか?」
「ええ」
「寝てないでしょう? ひどく疲れてるように見えますけど。そうだ、今からオレが絵梨香についてますから、おばさんは一旦、カサブランカレジデンスにでも帰ったらどうですか?ちょっと休んだ方がいいと思いますよ。それに、絵梨香の目が覚めたら着替えだっているだろうし」
「そうね。でも……」
「今更遠慮なんてしないでくださいよ! オレは絵梨香の保護者みたいなもんなんですよ」
「そうよね。ありがとう、蒼汰くん」
「で……由夏姉ちゃんは?」
「今、こっちに向かってるらしいの」
「帰国するんですか?」
「ええ、絵梨香の一大事だからね。すごく慌ててた……私も上手に話せなかったし、蒼汰くんと連絡がつかなかったでしょ? 状況が分からないから不安だって言って。とにかく帰国するって……」
「そうですか……すみません。オレが由夏姉ちゃんにちゃんと連絡すれば良かったんですけど」
「何言ってるの! あなただって、被害者で患者なのよ。なにも悪くないわ」
「あはは……患者やるのも、もうちょっと飽きてきたんで、オレが絵梨香の相手してますよ。ゆっくりお風呂でも入ってきてください。絵梨香が目覚めたら、すぐに連絡するので、安心して待ってて下さい」
「ありがとう……蒼汰くん」
病室に着いた千香子は、さっと身支度をして、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを蒼汰に差し出すと、またお礼を言って絵梨香のマンションに戻っていった。
シーンとした空間の中で、加湿器の音だけが流れていた。
その横で、まるで白雪姫のように眠る絵梨香のそばに、蒼汰はそっと歩み寄った。
昨日より大分顔色も良くなり、その寝顔は健やかにすら見える。
椅子に座りなおしてベッドに両肘を置いて、その顔を眺めながらぼんやりしていた蒼汰は、いつのまにか眠りに堕ちていた。
「蒼汰、蒼汰……」
聞き馴染みのある温かいその声色に、ゆっくり目を開ける。
視界が真っ白な布団で埋めつくされていることに驚いて、蒼汰は慌てて顔を上げた。
そこには、意識を取り戻し、その大きな目をしっかり開けた絵梨香が、その視線を蒼汰に向けていた。
「絵梨香! よかった……大丈夫か?」
「蒼汰……ついててくれたのね。ありがとう……」
半身を起こそうとする絵梨香を制して、蒼汰は彼女の襟元に布団を掛け直す。
「天海先生が来るまでは動かないで。分かった?」
「うん。分かった」
「よし!」
蒼汰は絵梨香の頭を撫でながら髪を整え、ナースコールボタンを押した。
天海院長が到着し、蒼汰は廊下に出て千香子に電話を入れた。
通話を終えたタイミングで、廊下の先に人影を見つける。
波瑠が手を上げてやってきた。
「波瑠さんおはよう! 今、絵梨香の意識が戻ったんだ」
「そうか! よかった。病室に行ったら居ないからさ、きっとこっちだろうと思って来たんだ」
「ごめん波瑠さん、ちゃんと連絡しないで……」
「いいよ、そんなこと。お前はどうなんだ? 傷の具合は」
「この通り。どうってことないから歩き回ってたら、昨日は婦長さんに怒られちゃってさ」
「ははは、“不良患者”は今に始まったことじゃないけどな」
病室のドアが開いた。
「どうぞ」
婦長がちろっと蒼汰を見据えて、ドアを大きく開けた。
「院長からお話があるので」
二人は中に招き入れられた。
ベッドに向かって手をあげた波瑠に、絵梨香はいつものように微笑んで見せる。
その表情は明るく、回復を確信させた。
天海は明るい顔で二人を迎える。
「もう何も心配いらないよ。どの数値も正常で安定している。あと数日したら腕の傷の抜糸はあるけど、今日にでも退院はできるよ」
「よかったな、絵梨香!」
「後はね……」
そう言うと、天海はおもむろにしゃがんで蒼汰の足をギュッと掴んだ。
「痛ってぇ!」
「素行の悪い患者がいるって、婦長から聞いたんだけど?」
「ああ……すみません」
そう言いながら上目遣いで婦長の顔を見る蒼汰と、笑いを堪えながら睨み返す婦長の表情が おかしくて、天海は笑い出しながら立ち上がった。
「あはは、君ももう退院だ。素行が悪いおかげでリハビリ不要。まあ、でも無理はしないで、ちゃんと消毒に通院してくれよ」
「分かりました。ありがとうございました」
天海が波瑠の方を向いた。
「波瑠くんが身元引受人かな?」
「はい、そんなところです」
「じゃあ、無理しないようにだけ注意してやってね。あまりにも素行が悪いようなら僕に言って、抜糸の時にかなりアクティブなハサミ使いで対応するからさ」
「わかりました、お任せください!」
青ざめた表情の蒼汰に、皆が笑った。
波瑠と会話を弾ませている絵梨香を背にして、天海は蒼汰に小声で聞いた。
「お母さんは一旦家に帰られてるの?」
「はい。今連絡したので、こちらへ向かってると思います」
「じゃあ、由香さんは?」
「あ……海外だったんですけど……どうも引き返して来てるみたいです」
「まあ……そうだろうねぇ。無事だとはいえ、絵梨香ちゃんがあんな事件に巻き込まれたとなったら、気が気じゃないだろう」
「ええ……」
天海が蒼汰の肩に手を置いた。
「彼女のこと、頼むね」
「はい」
天海は声のトーンを上げて言った。
「じゃあ、ごゆっくり。ああ、お母さんが到着されたらナースステーションに来て頂くように伝えといて」
そう言って婦長と共に病室から出ていった。
「絵梨香……気分は?」
「大丈夫! もう何ともないよ」
絵梨香は笑顔を見せる。
「そっか、良かった。とにかく、ここからは日にち薬だから。まあ、オレもなんだけどな」
「そうそう、蒼汰、自分も患者だと自覚を持てよ。俺、飲み物でも買ってくるな」
波瑠は蒼汰と絵梨香を2人にしてやろうと、買い物を口実に病室を出る。
頃合いをみて買い物に行くつもりにして、しばらくは廊下のベンチに座ったまま、時を過ごしていた。
『RUDE BAR』で見た、犯人相手の零の迫真の演技……
果たしてあれは本当に演技だったのか。
零の真意、そして蒼汰の思い……
それらが入り混じって、波瑠の心を複雑にしていた。
廊下の向こうから名前を呼ばれた。
その声に、思わず立ち上がる。
「波瑠くん!」
悲壮な表情を浮かべ、ベンチから立ち上がった波瑠に向かってまっすぐに走ってきた。
そしてギュッと抱きつくと、その胸に頬を寄せる。
「由夏さん……どうしたの。絵梨香ちゃんなら大丈夫だよ。今さっき、意識も戻って、今蒼汰と楽しく会話を……」
「波瑠くん……ごめん。絵梨香の前でちゃんと気丈に話す自信がなくて……お願い、少しだけこのままで……落ち着くまで」
波瑠は、由夏の肩をしっかり抱きしめて、何も言わずその背中を優しくさすった。
しばらくして、由夏が顔をあげた。
波瑠は由夏の頬の涙の跡を指で
「大丈夫! 絵梨香ちゃんは、もうすっかり落ち着いているよ、なんの心配もない」
由夏は頷いた。
「わかったわ。頑張る」
そう言って、由夏は波瑠の頬に短いキスをした。
そして、さっと病室へ入っていった。
波瑠は呆然と立ち尽くす。
「おい……俺は、どうしたらいいんだ?」
そう言いながら、波瑠はストンとベンチに腰掛けた。
第132話 『Regained Consciousness』
ー終ー
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