第102話 結局将軍義輝は二条御所で自刃したかそして畿内は争いの渦に巻き込まれた
さて、姫路に本拠地を移して畿内の状況をよく見えるようにした途端に起きた、三好長慶と伊勢貞孝の暗殺事件。
この事件だが世間一般では公方の三好殿に対する謀反とされている。
実際に畿内などの年貢の取り立てや国人同士の揉め事の仲裁などの実務的な幕府の行政を行ってるのは幕府中枢から離れたとは言え三好長慶だったということで、将軍足利義輝はなんだかよくわからない命令を出しているだけと見られていたわけだ。
実際、永禄8年5月19日(1565年6月17日)に将軍足利義輝が三好義継・三好長逸・三好政康・岩成友通・松永久通らに殺害された永禄の変においても信長公記などにそう書かれていたのだから将軍の権威というものを信じていたのは足利義輝本人だけだったかもしれないが。
もともと天文22年(1553年)に長慶の弟・三好実休によって阿波守護である細川持隆が見性寺において殺された事があったが、彼は足利義輝を排除して足利義栄を擁して将軍の首を挿げ替えれば良いと思っていた節がありそれにより実休によりうたれた可能性が高かったらしい。
その後も三好家中において三好長慶に対して義輝を廃して義栄をたてれば良いと言う者から三好長慶は将軍義輝をかばっていたわけだがその三好長慶を殺してしまってはなぁ……。
そのあたりには母親である近衛尚通の娘である慶寿院の影も見え隠れしたりもするのだが。
これは豊臣秀頼と淀君にも似てるような気もする。
更に伊勢貞孝も殺してしまったことで六角や畠山などからも見放されたようだ。
粉骨砕身しても最後は粛清じゃやってられんよな。
そして俺のところには三好義興から使者が来ている。
「此度のことは幕府内部の事にて介入はされないようにされたし」
「うむ……分かりました、そのようにいたしましょうぞ」
その後将軍より使者として進士晴舎(しんじはるいえ)が来た。
「公方様よりは近衛家の家令でもあり幕臣でもある島津内府に御所の護衛を命じるとのことでございます」
「うーむ、命ずると言われましても、兵を持って山城に向かえば三好一族に邪魔されるのは間違いないでしょう、更には伊勢貞孝殿まで殺されていては六角や畠山なども黙っておりますまい」
下手すれば復讐にはやる三好にくわえて、六角・畠山・若狭武田などからもフルボッコにされるかもしれないんだがな。
彼は力なく笑っていった。
「はは、やはり無理でありましょうな。
ではせめて私の子供を匿ってはいただけませんか?」
「あなたの子供か、まあそれくらいならかまわないが」
「ありがとうございます。
これで心残りはなくなりましたぞ」
そう言って彼は子供を姫路城において畿内へ戻っていった。
結果として言えば三好長慶が暗殺されて約一ヶ月後に長慶の兄弟たちは1万の軍勢を率いて二条御所に押し寄せ、周りをびっちり兵士で取り囲んで御所巻きを行い将軍に訴訟ありと訴えたが、将軍がそれを却下したため、三好の軍勢は御所に侵入した。
この前に将軍義輝は京を離れるためにいったん御所を脱出したが、奉公衆ら義輝の近臣はここで逃げ出しては三好長慶と伊勢貞孝を殺したことに意味がなくなり将軍の権威を失墜させると反対して義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。
そして将軍義輝に加え側近の進士晴舎ら近習のもの総勢30人ほどで三好の兵を迎え撃ったが最後は全員が討死するか自害し、義輝生母の慶寿院も二条御所にて自害した。
更にはその後二条御所にいなかった山城に在住する義輝の家臣や交友関係があるものもすべて殺され、その家財は三好によって奪われた、更に三好は義輝に仕えていた人々が住んでいる洛外の二つの村まで兵を派遣してその村を全て破壊させた。
義輝の弟で鹿苑院院主であった周暠(しゅうこう)も殺害され、もうひとりの弟である覚慶(かくけい)(後の足利義昭)も捕縛され寺に幽閉されたが、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝、明智光秀および大覚寺門跡の近衛尚通の子義俊らに助けられてその一行は、大和に戻った我が弟である畠山義弘を頼った。
そして一行の扱いに困った弟は、
「自分では勝手な判断はできないので島津の長である義久を頼るように」
と一行をこっちに船で護衛しつつ向かわせているらしい。
「やれやれこれまた面倒なことになりそうな予感がするな」
また、義輝の正室で近衛稙家の娘は近衛家へ送り届けられた。
また進士晴舎の息子の進士藤延(しんしふじのぶ)と義輝の寵愛を受けて懐妊していた側室の小侍従は俺が匿っていたので助かったが、結果として義輝の子供も俺の手の中にあるというわけだな。
明智光秀は進士藤延でありその妹である妻木は義輝の側室であった小侍従、子供の明智光慶は義輝の子で後に細川藩の客将となる尾池義辰(おいけよしたつ)であるという説もあるが覚慶一行の中に細川藤孝の家臣として明智光秀は居そうなんだよな。
さて、将軍が三好によって殺されたことで六角義賢はその総力を上げて兵を集めた。
六角義賢にとっても将軍足利義輝は煩わしい存在になっていたとは言え、もともとかついでいた主君であり、これ以上幕府の権威を失墜させれば六角の立場も危うかった。
であればこそ彼は臣従している北近江の浅井や西近江の朽木氏ら高島七頭、若狭武田の武田信豊なども加え総軍で2万の兵を集め、総大将を細川晴元として京を目指したのであった。
朝倉や美濃一色にも六角は出兵を促したが両者は一向一揆により損害が大きいことを理由にそれを拒否しているようだ。
それと同時に畠山高政も根来寺や雑賀の島津に従っているわけではない連中などを加えた1万の兵を持って和泉国に侵攻した。
ちなみに雑賀は一人の頭目のもとでまとまって戦ってるわけではなく例えば本来元亀元年(1570年)に織田信長と三好三人衆の間で起こった野田城・福島城の戦いでは、雑賀衆同士が三好と織田の双方について敵味方に分かれて戦った事もあったりする。
これに対し山城で六角を迎え撃ったのは松永久秀ら畿内衆と十河一存の讃岐衆、和泉で畠山を迎え撃ったのは三好実休を筆頭とする阿波衆と安宅冬康の淡路衆だった。
この戦いにより三好実休が雑賀衆の鉄砲によって討ち取られ、阿波衆淡路衆は一時四国へ撤退し畠山高政は河内と和泉を制圧、六角義賢は松永久秀と十河一存の不和をつき十河一存を討ち取り三好を破って三好の勢力は山城から一時追い落とされたのだった。
そしてその頃俺のもとには丹波の国人より支援要請が寄せられていたのだった。
「どうか我々を内藤宗勝(ないとうそうしょう)よりお守りください」
内藤宗勝は松永久秀の弟の松永長頼だが丹波守護代の内藤氏を乗っ取るために内藤国貞を討ち取ってその娘を娶って内藤を名乗っていた。
「それは島津の庇護下にはいることになるということだが良いのかね?」
「はい、どうかよろしくお願いいたします」
毛利元就や宇喜多直家が俺にいう。
「この好機を逃すべきではございませんぞ」
「まあ、そうだよな」
ということで俺は丹波に出兵し波多野晴通・波多野秀治・赤井直正・内藤貞勝・湯浅宗貞などとともに内藤宗勝と戦って戦死させたのだった。
こうして丹波は島津の勢力下に入った。
更に播磨の赤松晴政と義祐の諍いに小寺政職とともに介入して赤松を屈服させ、別所安治も三好と争うために島津への臣従を決めたことで播磨も島津の勢力下に入った。
これで九州・西四国に続いて山陰山陽を島津は支配下においたわけだ。
「これで三好との対立は決定的になっちまったか」
とは言え三好長慶の死後、三好が衰退したらいずれは攻撃するつもりではあった。
思っていたよりだいぶ速かったが覚慶が頼ってきた以上は足利義栄を担ぎ出すだろう三好と争うのは必然ではあるのだよな。
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