第2話 薩摩島津という血筋と薩摩という国

 さて、ここらで薩摩島津についてちょっと思い起こしてみよう。


 島津氏は、戦国好きならだいたいは知ってるだろう南九州の武力チート一族。


 信長の野望などでもそのチートっぷりを数字能力的に与えられており、日本の南の端という地の利を活かして日本を統一するのはさほど難しくない大名だ。


 史実でも釣り野伏などの戦術で何度も少数で多数の兵を打ち破った戦国時代最強の戦国大名の一つだな、と言うより”島津はおかしい”と言う評判だったりする。


 他の戦国大名でも少数の兵で大軍を打ち破った例はあるがそれを何度も何度も行えた大名はいないのだ。


 そしてその歴史は長く鎌倉時代から江戸時代末まで続いた名家でもある。


 そして島津氏は、飛鳥時代の中心的な渡来氏族である秦氏の子孫の惟宗氏の流れを汲む一族のはずだ。


 そういや俺は元々秦氏だったな、島津義久になったのも秦氏つながりかもしれん。


 秦氏には聖徳太子のモデルの一人がいたりもする。


 また、彼らは飛鳥奈良時代に日本に養蚕と機織、治水と田畑作、土木と寺社建築などを大規模に持ち込んだ一族で稲荷と八幡という日本で一番目と二番目に多い神社を作った一族でもあり、賀茂氏とも関係が深い。


 なお、彼らはネストリウス派キリスト教、もしくは原始キリスト教徒で島津の丸十字はそれに関係があるのではという人間もいるようだ。


 まあこれをトンデモ話で片付けるのは簡単だが飛鳥時代や奈良時代辺りはペルシャ人なども日本へきてて政治にも参加していたたようなのであながちありえないわけでもないかもしれない。


 そして秦氏は湿地ばかりで人が住むには適していないはずの京都の盆地の川の治水工事を行って住めるようにして奈良から京都の平安京への遷都も行わせたようだ。


 もっとも厩戸皇子一族が滅ぼされた後は政治的な権力は失っていったようだが。


 でまあ、伝承では秦氏系列の惟宗氏の誰かが藤原摂関家筆頭の近衛家の持っている荘園である島津荘の荘官として九州に下りその子供の惟宗忠久が、源頼朝から正式に同地の地頭に任じられその荘園の地名から島津一代目の島津忠久を称したのが始まりとされる。


 彼は頼朝の御落胤説もあるが頼朝の正妻の北条政子が政子当人以外が産んだ子どもを生かしておくことを許すとは思えないのでこれは箔付けのため伝承にすぎないだろうな。


 がまあ、正直に言えば鎌倉時代から南北朝時代、室町時代の戦乱のなかでは島津氏はたいして活躍せず有名な存在ではなかった。


 一応、蒙古襲来の時には三代目の島津久経は薩摩の手勢を率いて防衛に参加して大いに戦果を上げたとされるし、鎌倉時代末期の五代目の島津貞久は後醍醐天皇による討幕運動が起きた後も途中までは幕府方だったが京都の六波羅探題が足利尊氏によって攻撃され陥落した後は一転して鎌倉幕府に対しての討幕運動に参加し、少弐貞経や大友貞宗などとともに九州の鎮西探題を攻略し北条英時を自害させた。


 そして、その後後醍醐天皇による建武の新政が崩壊すると建武の新政の土地分配などに不満を持った武士に担ぎ上げられた足利尊氏が挙兵して箱根で新田義貞を打ち破ったものの、京都に入った後に北畠顕家、楠木正成、新田義貞などとの戦いで敗北し、船で九州に落ち延びた足利尊氏を助けて、少弐頼尚などと共に、多々良浜の戦いで菊池武敏、阿蘇惟直らの宮方と戦ってこれを破ったといわれている。


 が、その多々良浜の戦いの時にものすごく島津が活躍したかというとなんかそうでもない感じだ。


 この時は足利尊氏とその一党ばかり目立ってるし、時間的な関係からも本当に多々良浜の戦いに島津が兵を派遣できたかも疑わしい。


 その後も島津は功績により続けて室町幕府からも守護職は正式に受けているのではある。


 しかし、その後に吉野に逃げ出した後醍醐天皇が各地に息子である親王を送り出した一つである南朝方の征西府に降伏したり、室町幕府から九州探題に任命された今川貞世と争ったりしたが、島津は薩摩総州家と大隅奥州家に分割して継承することでなんとかそれらの外敵に立ち向かった。


 しかし、南朝が滅んだ後に今川貞世が九州探題を解任されることで島津への外圧が消えると両家の間で争い合う内紛が起こって長く続きそれにより島津氏はどんどん弱体化していった。


 応仁の乱では名目上、島津氏は東軍に属したが畿内に派兵できるほどの余力はなく薩摩の島津氏の分家一族、その他有力な国人、大隅の肝付氏や日向の伊東氏などはすでに独立して勝手に動いていて島津家は全く統率の取れない状態に衰退し最悪滅ぶかという所まで来てしまっていた。


 その島津の分家の一つである伊作家の伊作忠良、俺の祖父が一族の中で頭角を現し他の島津一族を抑えて島津氏中興の祖と呼ばれるようになり、その息子であり俺の父である島津貴久は島津の英主と呼ばれるようになる。


 そして天文14年(1545年)に朝廷の上使である町資将が薩摩を訪問して父である島津貴久は薩摩国の国主として朝廷に公認されているがまだ薩摩の内紛は継続中。


 そして俺達が元服し成人と認められれば初陣も近いはずだ。


 そして薩摩という国についてだが……この国は殆どが火山灰のシラス台地で米を作るには不向きなため非常に貧しい。


 江戸時代の薩摩藩は77万石と称していたそうだがこれは大幅な詐称で実質半分ほどの35万石程度しかなかったそうだ。


 現状では薩摩全土でおそらく25万石を超えているくらいだろう。


 戦国時代の兵士の運用可能な人数は1万石につき250人程度だが、これには人夫や小荷駄や金瘡医等の非戦闘員も含まれている場合もあるし戦闘要員だけの場合もあるらしい。


 薩摩の統一に非常に時間がかかっている理由の一つがろくに食料がなくて戦を満足にできないということも有っただろう。


 信長などは金で足軽を雇うことで数を補えたし尾張は50万石以上の石高のある豊かな土地でもあった。


 もう一つは織田信長は天文20年(1551年)に父の信秀が没したため、織田の家督を継ぐが俺は永禄9年(1566年)に父の隠居により島津の家督を相続して島津家第16代当主となっている。


 この15年の差は結構大きいだろう。


 織田信長が尾張を統一し一度目の上洛を果たして上洛し、室町幕府13代将軍の足利義輝に謁見し、その後今川義元を打ち破り美濃を攻略した頃に、ようやく家督相続をして薩摩統一がかなったのは元亀元年(1570年)。


 この頃には信長はすでに二度目の上洛を果たして、三好を退けて堺の街も手に入れており第一次信長包囲網が完成し金ヶ崎の戦いが起こった頃。


 この行動力の差は尾張と薩摩の土地の豊かさに加えて商業力の差もあるだろう。


「さて、いかにしてその差を縮めるかだな」


 島津の兵は強い。


 それは鎌倉以来の土地を基盤にした鎌倉武士の精神を持ち続けたからである。


 鎌倉武士の精神については男衾三郎絵詞おぶすまさぶろうえことばにある。


 家よく作りては、何かはせん。

 庭草引くな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。

 馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。


(武士として家を継いだからには常に戦いを心がけねばならない。

 なにかあれば戦時に馬の餌にするのだから庭草は刈り取らずつねに生やしておけ。

 庭の端には生首を常に絶やすな、家の前を人が通ったら迷わず斬れ)


 此の門外通らん乞食・修行者めらは、益ある物ぞ、蟇目鏑にて、駆け立て追物射にせよ。


(門前を横切る乞食や僧侶、修験者は生きた的として弓の標的として活用するべき)


 若者共、政澄、武勇の家に生まれたれば、其の道を嗜むべし。


(武士と生まれたからにはその道を歩むべし)


 月花に心を清まして、哥を詠み、管絃を習ひては、何のせんかあらん。


(月や花に目を凝らし耳を澄ませても何の役にも立たないぞ)


 軍の陣に向かひて、箏を弾き、笛を吹くべきか。


(敵の軍へ向かって琴を引いたり笛を吹いて何の役に立つものか)


 この家の中にあらんものどもは、女・女童に至るまで、習ふべくは、この身嗜め、荒馬従へ、馳け引きして、大矢・強弓好むべし。


(武家に生まれたなら女子供でも習うべきは

 馬術と弓術である)


 まあ、そんな精神が今でも生きているのが薩摩という国だ。


 なので兵の調練も具足で完全武装して急流や海を泳げるのは当然とかだな。


 もちろんその程度で泳げないやつは戦場に出る前に死ぬということだ。


 そして人を斬ったりするのにためらいなど微塵も持たないのが当然という国だ。


 大将首は報酬にしか見えない人種ということだな。


 だから兵の強さに関しては心配することはない。


 心配はないがもうちょっと生命は大事にすべきではなかろうか。


 捨奸すてがまりという大将を守るために兵が命をかけて時間稼ぎをする戦法を平気で兵士ができるというのはある意味強みではあるが……な。

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