第111話 三州錯乱と松平元康の降伏
さて、今川氏真は駿河に戻り、俺は修験者や行商人、旅芸人などからも話を聞いて甲斐についての情報がようやく入ってきた。
今川義元は長尾の上野侵攻に遅れぬようにと駿河と相模の間の箱根越えルートも攻撃しつつ、本命は甲斐の大月から武蔵の八王子に抜けて後北条の領地に侵攻するために、小山田信茂を攻めていたようだが大軍を動かすには不利な地形故に逆に討ち取られたらしい。
そして甲斐の山奥で総大将が討ち取られ今川の配下の者が駿河などに撤退しようとしても、そう簡単ではないから落ち武者狩りによるその人的損害は目を覆うものであったようだ。
「山中では大軍を展開できぬからな……裏道獣道を用いての奇襲で大軍が敗れた例もある」
伊集院忠倉がうなずく。
「左様ですな、楠木正成は鎌倉殿の差し向けた何十万という兵を打ち破ったとも聞き及びます」
確かに楠木正成も少数で幕府の大軍を打ち破ってるが何十万とかは明らかに多すぎだけどな。
また源平合戦で木曽義仲の躍進の理由となり、平家の凋落の理由ともなった倶利伽羅峠の戦いなどもそうだな。
「我らも気をつけねばならぬな」
今川は甲斐の国への経済制裁として塩を止めたと言われているのだが、この時代塩や海産物の輸送は基本的に馬ではなく川船をつかっている、その方が重たいものを多量に運ぶには便利だからだな。
そして基本は駿河湾に向かう富士川を使う、しかし今川が富士川の塩などの往来を封鎖しても陸路の抜け道はあるし、駿河の領内の塩まで止めるわけでなければ、国境から少量ずつ売るのは難しくないだろう。
さらに真田や村上経由でそれを知った長尾景虎は、日本海側に抜ける千曲川や釜無川ルートの塩の往来を止めはしなかった。
塩の値段が上がって確かに甲斐の領民は苦しんだが、越中越後の長尾からすれば甲斐に塩を高く売れるチャンスであったわけだから喜んで売りつけたわけだな。
それが武田は滅び上杉は生き残ったことで、上杉は困ってる武田に塩を送ったのだという美談になったわけだ。
「まあ、相手の国や城に塩を入れないとか、食い物を入れないなんてことが簡単に出来るならそもそも兵糧攻めに苦労しないわけだ。
商人が儲けにならないようなことに対して約束を守る理由もない」
伊集院忠倉がうなずく。
「まこと商人とは厄介なものでございますな」
もともと室町幕府に対する対応で今川と長尾は正反対であったから、同盟を結んでいてもその歩調があうはずもないが。
さらには今川と武田が長い間争っており、甲斐の民衆は武田晴信のおかげでようやくいい生活が出来るようになってきたところで、今川の攻撃を受けて乱妨取りをうけてその生活を奪い取られたわけだから甲斐の領民は今川に簡単に従わなかったのも当然ではある。
今川が略奪を行うのが悪いとも言えないのがこの時代の常識が現代と違うところでもあるのだが、食料の支給ぐらいはするとして土地をもらえる可能性がある足軽地侍ならばともかく雑兵にとっては戦場での略奪くらいしか富を得られる機会がない。
桶狭間においても先行していた部隊が乱妨取りに夢中になっている時に本隊が偶然襲われて今川義元は討ち取られているという話もある。
もっとも武田残党としても戦いを続けるために必要な軍資金でこまったが、もともと山岳信仰というものは古くからあったが富士山は女人禁制の神聖な霊山として全国から参拝者が集まってきていた。
小山田氏は関所を設置して自領を通過する富士山詣での登山者から役銭を徴収して軍資金を得て、堅牢な岩殿城や人馬が通ると思われぬ裏道を駆使しての奇襲などで今川の侵攻に抵抗を続けていたらしい、結果として今川義元は焦っていたのだろう。
総大将が戦場で討ち取られる例はかなり珍しいからな。
最も日向の伊東との争いでは島津もさんざん苦労しているから、甲斐がそうなる理由もわからないでもない。
そして今川氏真は弘治3年(1557年)正月の20歳の時に、ようやく父の義元から家督を譲られたが、氏真の発給文書は現状では駿河国に限定されており、遠江・三河・東尾張・甲斐への発給文書は父・義元がだしていた。
義元は氏真を寿桂尼と共に時間をかけて育てるつもりだったのかもしれない。
もう少ししたら遠江も任されていた可能性は高いけどな。
現状での氏真は駿河の領国経営を任されていたが、まだ今川の全権を渡されたわけではなかったのだな。
今川家は室町幕府の足利・新田一門の細川・斯波・畠山・山名や足利尊氏に従って功績を上げた大内・佐々木・京極・六角らと違い統治国に守護代を置かなかった。
これは「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」とされ、将軍の系譜の人物が絶えた場合にその地位を引き継ぐ可能性があったことで、京の将軍の側で幕府の政務を行う必要がある他の者達と違い、京に行かずに駿河の領地経営に専任できたからではある。
遠江を斯波が抑えたときには甲斐氏が守護代に指定されたが義元の父である今川氏親が遠江を奪った後は守護代は置かれなかった。
三河は一色と細川が応仁の乱で争った時にそれぞれ西郷氏と東条氏が守護代として存在していたが一色・細川の双方が三河を放棄すると守護代も置かれず伊勢の被官である松平が勢力を伸ばした。
尾張には今川氏豊を派遣し甲斐には義元自らが攻めかかったがすなわち結局義元が生きているうちは氏真に任せられたのは駿河一国だけでその他の国を全て今川義元が直轄支配していたわけだ。
結果としてそれが駿河以外の国において今川義元に代わって誰が国の頭になるかわからぬということで騒乱が起き、三河では一度は三河の統一も果たした松平が西吉良と組んで独立して行動し西三河に勢力を拡張したが、遠江ではこれと言った大きな勢力もなく、今川義元というリーダーを失ったことで少勢力同士がお互いに潰し合う内紛を引き起こした。
史実において同じような状況は細川が撤退した後の土佐、大友が衰退した後の肥後、龍造寺が滅亡した後の肥前、朝倉が滅亡した後の越前、羽柴秀吉が攻撃する直前の播磨や備前・織田信長が本能寺で死んだ後の信濃や上野なども同じような状況に陥ったな。
そして氏真は父が討ち死にしたあと父の遺した今川領をそのまま継承しようとしたが、駿河はともかくその他の国に対しての差配の権利を与えられないまま義元が死んだことで、駿河の国人以外の支持を必ずしも受けられなかったというのが実情なわけだな。
当然だが軍の指揮系統の引き継ぎもなかったからすぐに軍事行動を取るのも難しかった。
彼に兄弟がおらずお家騒動が起こらなかったのはむしろ幸いだがな。
三河や遠江の国人は尾張の攻略のために軍役をたびたび課せられたが、その出兵の回数に比べて得られた土地が少なかったために今川氏の統治に対する不満が燻り、かって遠江を斯波が統治していた時に斯波よりの国人と今川よりの国人に分かれたのもあり、義元の死をきっかけに三河や遠江では紛争が広がってしまったわけだ。
通常ならこれを幸いと寺社勢力などがその争いを煽る可能性もあったりする。
「美濃と尾張については天台宗山門派と真宗本願寺派の寺について当面は破却などは行わん。
しかし保護もせぬし揉め事を起こしたらその時は取り潰すものとせよ」
伊集院忠倉がうなずく。
「は、かしこまりました」
美濃・尾張・西三河は天台宗の影響が比較的大きいままだから流石に禁止は難しい。
とはいえむしろ一向宗による圧迫で苦境にあるくらいなのでそこまで厳しくする必要もなかろう。
とりあえずいつものように調略を行ない戦わずに下ってくるものはそのまま領地を安堵して置くことにする。
「よし、知多半島の水野信元は我らの下に下ったか」
「はい、流石にわれらと正面から戦うほど愚かではなかったようです」
「うむ、松平と吉良はどうなのだ?」
「三河の争いを止めるは我らの役目ゆえ手出し無用とのことです」
「いや、争いになった元はお前らだろうよ」
元々吉良氏は足利義氏の長男の長氏が三河国幡豆郡吉良荘を本貫の所領として吉良氏を称したことに始まり、当時の吉良荘は古矢作川の東西にも広がっていたため、川の東西をそれぞれ「東条」と「西条」)と区分して呼んでいたのだが、長氏が拠ったのは、この西条の方。
そして承久の乱以降、足利氏は三河国内に多くの所領を得たが、長氏の吉良氏は頭領的な立場にあった。
しかし南北朝時代から室町時代において観応の擾乱で足利直義に味方し、その後信濃に勢力を伸ばした南朝にも一時帰順した後に最終的に室町幕府に降ることになった。
吉良氏の当主は京都にあって将軍家一門としての格式は有するものの、管領や守護に任じられることはなく、地方においては僅かな小領主としての武力しか持たなかった。
やがて東条と西条に分かれて後は、互いに正統性を主張しあって譲らず、応仁の乱においても西条家が東軍、東条家が西軍にそれぞれ属して戦っている。
そしてその後、庶流である駿河守護今川氏から侵攻を受け、遠江国の荘園を奪われ、今川氏への対抗上、尾張国の織田氏と共に今川と争うが最終的には捕らえられた吉良義安の身柄は駿河に抑留され今川の下に隷属させられた。
そんな吉良義安(きらよしやす)は同じ人質仲間である竹千代と仲良くなったことで三河での独立のために松平元康と共に戦っているが、その弟である吉良義昭(きらよしあき)は今川を支持しており、争いになっていた。
史実においても松平元康は永禄3年(1560年)の5月に今川義元が桶狭間で戦死したのち5月20日には岡崎城に戻り、今川氏の支配下から独立すると翌6月には早くも額田郡、碧海郡の吉良氏などを攻め、織田方であった水野信元とも石ヶ瀬川にて合戦をしている。
彼が氏真に仇討ちを進言したというのは主君に対しての忠は尽くしたが主君が受け入れなかったということにしないとまずいからで嘘なのだな。
俺は軍師である角隈石宗や諜報謀略担当である毛利元就と相談をすることにした。
「三河でいまでも今川を支持しているのは鵜殿長照と吉良義昭くらいなものか」
「そのようで」
「松平は我々に勝てると思っているのかな?」
「あちらには吉良義安殿を擁しているという名目がございますゆえにうかつに手を出せぬと思われているのかもしれませんな」
「ではこちらは今川の支持をうけている吉良義昭殿を吉良の正統な当主として掲げて松平を討つか」
「それがよろしいかと」
兵を動かすのには大義名分が必要なのは面倒なことだがとりあえずは三河では今川より支持されてるであろう吉良義昭をこちらに引き込んで大義名分を立てる。
「後は戦場にて討ち取るのみか」
松平元康は討ち滅ぼすべきであろうな。
天正壬午の乱の後に真田氏が独立できたのは信濃が山がちで大軍を展開しづらく真田が少数でも上田城を守りきることが出来たからだが、三河ではそうもいかぬはずだ。
俺は今川氏豊と吉良義昭を旗頭に立ててその下に下っていた柴田勝家や一色に下っていた丹羽長秀・森可成などと共に末弟の家久にも伊那の直轄の一軍を任せることにした。
「戦果を期待しておるぞ」
「はい、任せてください兄上」
松平元康が吉良義昭の東条城の攻撃を行っている背後をつき吉良義昭の配下の富永忠元と共に善明堤にて挟撃を行う。
それにより松平元康に協力していた松平好景(まつだいらよしかげ)などをその場にて討ちとり、大久保・鳥居・本多といった側近が殿を受け持ち主人である松平元康を逃がそうとするがそれらも討ち取ってゆき、最終的には松平元康と吉良義安は降伏した。
松平元康が三河に勢力を大きく伸ばす前に叩けたのは幸いだったな。
そして東三河の頭には吉良義昭を掲げ吉良家は統一させ、西三河は松平元康に、知多半島は水野信元へ任せることにした。
同じく内乱中の遠江と地獄のような甲斐をなんとかしないといけないわけだが、この後の三河の統治にも苦労はしそうだな。
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