第112話 遠江も甲斐も面倒な地域だがなんとか争いをおさめたよ

 さて、三河は水野・松平・吉良の分割統治でとりあえず一旦騒乱は収まった。


 血筋的には吉良が一番上だが、西三河や知多半島を抑えつけることは守護としての地位を持ったことがない吉良では無理だろうしな。


 最悪松平は四国での本山と同じように反抗的勢力のあぶり出しに使うとしよう。


 最も降伏直後に松平元康がやってきて改名の願いを俺に告げたのは意外と言えば意外だったが。


「鷹司執柄相国にお願いしたき儀がございます。

 もはや亡くなられた方である義元公からの偏諱である「元」の字は縁起もわるきゆえに返上し、このたびは元康から家康と名を改めたくございます、どうか許可願えませぬでしょうか」


「ふむ、亡くなられた方の諱をそのままにしておくのは縁起が悪いというのはわかるし、改名したいというのはわかるがなぜ家康なのだ?」


 ようは俺から諱をもらいたいという話ではないのはなぜなのかと聞いてみた。


「は、領内に住む伊東法師に「家用平康」とするのが良いと勧められたのでございます」


 徳川家康は竹千代と名乗っていた幼少時から元服後はまず元信と名乗った。


 元信の「元」は今川義元からで「信」は松平家の通字だと言われてるがそれほど使われている感じもしないのが不思議なとこではあるがこれは家系図を相当弄っているからともいわれるな。


 その後「元康」に変えたのは信長の「信」に通じるから信を捨て、祖父の清康の名からとったともいわれているがそれならもともと信を付けたのがおかしいと言えるので結局はこれも謎だ。


 そして今川義元が死んだ後、元という字を捨てて家康と名乗るわけだがこれは「家用平康」という書経の句から選んだとされている。


「ふむ、わかった、そなたの改名を認めよう」


「はは、ありがたくございます」


 この時代は縁起が悪いからと改名することは珍しくないからな。


 ただ、織田信長は幕府の権威を信じていたらしいのに将軍からの偏諱はされなかったし、家康もその後名前を変えることはなかった。


 将軍の権威を信じてなかっただろう家康はわかるが、将軍の権威を十分立てていた信長が偏諱をされなかったのはなぜなのか良くわからないのではあるんだよな。


 多分義輝から見れば信長は偏諱を与えるほどの家格でなかったからなのだろうけど。


 史実に置いてはその後に松平家康は独立の名目を整えるためにも早急に三河守になりたかったようで三河守の官位を望むんだが、正親町天皇より「清和源氏が三河守を任官した前例はない」と拒否され、家康は近衛前久に相談しかって得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることと主張して家康個人のみが徳川に復姓し「本姓」を「藤原氏」とすることで家康は従五位下三河守に叙任されたというがなにかおかしな話だ。


 実際には源範頼や世良田頼氏が三河守に任官されてることを考えると本当の理由は松平という家系が本当は源平藤橘に含まれていない賀茂氏だったからではないだろうかとおもう。


 つまり世良田という理由つけ自体が後付ということではなかろうか。


 そして世良田の家系の得川(徳川)というのは本来信長の傅役であった平手政秀の家系であったようで、松平家康は何らかのきっかけでそれを知り世良田という家系を利用したのではないだろうか。


 平手のいう世良田という家は美濃の斎藤道三との交渉や、織田信広と竹千代の人質交換などを単独でできる程度には有用だったらしく、平手政秀が自害したのは、信長が政秀の発言力の強さを嫌っていたからという説もある。


 まあ、そもそも俺は松平元康を三河守にするつもりはないがな。


 結局のところは近衛が松平元康に金を出させるための方便であったようにも思えるんだけど。


 更に言えば家康の後年の公家に対する塩対応はこれが原因じゃないかという気もする。


「三河が落ち着いたならば、遠江と甲斐の争いを沈静化しなければな」


 伊集院忠倉がうなずく。


「左様ですな」


 今川の領国でその国人達に対して強い統制下にあったのは、本来の領国である駿河と遠江東部であって遠江西部や三河・尾張の国人はもともと今川に素直に従っていたわけではなく、人質を取られて仕方なくという面が強かったらしい。


 甲斐については言うまでもないだろう。


 史実では武田勝頼が信望を失ってから一度は織田が支配して後に徳川が手に入れたせいかそこまで統治に苦労しているイメージはないけど、史実における織田信長は武田方の武将の首を差し出してきた農民に対して黄金を下したため、農民達は武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上し武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆に対しては厳しく追及し、徳川家康は逆に自分の領内に逃げてきた武田家臣達をかくまったとされるが、駿河や甲斐の統治には必要だったんだろうな。


 旧武田の領地の統治はかなり難しかったようで信長が本能寺の変で死ぬと甲斐国人衆が一揆を起こして甲斐を統治していた河尻秀隆は甲斐から脱出を図るが殺害されているしな。


 彼は特に悪政を行ったわけではなく税などをむやみに取り立てないようにと指示しているが甲斐の民衆にとって武田を滅ぼしたものへの恨みはやはり強かったらしい。


 そして遠江には平安末期から井伊氏などの有力な国人はすでにいたらしい。


 鎌倉時代は北条氏がほとんど直接統治し、その後の室町時代はおおよそ12世紀と14世紀は今川、13世紀は斯波が守護として統治したが関東と畿内を結ぶ場所として重要視されていたのは事実なようだ。


 そして、応仁の乱での今川義忠は東軍の細川勝元に与し西軍の斯波義廉の遠江を攻めたが、守護が同じ東軍の斯波義良に代わってしまったものの、東軍の三河守護・細川成之支援のため、義忠が遠江国掛革荘の代官職に補任されたことで東軍である遠江守護・斯波義良との確執に発展、遠江守護代・狩野宮内少輔かのうくないのしょうと戦い東軍から排除され、遠江幕府奉公衆だった横地氏と勝間田氏が今川軍と戦うことになり横地氏と勝間田氏は滅ぼされたが、その凱旋途中で横地・勝間田の残党に襲われ、今川義忠が討たれるというまさかの出来事が起こった。


 最終的には北条早雲こと伊勢宗瑞がその後の今川のお家騒動に介入し、今川氏親が遠江を武力制圧するとそれまで斯波が守護だった時に幅を利かせていた主に西部の国人は、今川に守護が移ると逼塞を余儀なくされた。


 会社に置き換えて見るなら駿河部をおさえてる今川副社長と尾張部をおさえてる斯波専務が遠江部の主導権をどちらが握るかで争ってきたという感じで一時期は斯波のほうが優勢だったが、その後今川に取って代わられたという感じだな。


 で現状は今川副社長と共に上の連中が大量に死んで、家の後継で揉め、斯波と今川の長年の因縁でもめて、甲斐に影響を伸ばすために借金をしていて、なおかつ遠江は今川副社長が息子に権限を渡してなかったからさあ大変というわけだ。


 残ってる国人が係長クラスだとして皆同じ立場のものに命令などうけたくないし、お家騒動につきものの粛清や暗殺も起こったり家臣によるお家乗っ取りなども起こったからから互いに疑心暗鬼となり無駄に戦乱が広がったわけだ。


「これより遠江は鷹司の差配下となる。

 即時争いをやめ深志城へ来るように。

 来ぬ者は鷹司に叛意ありとして討伐する」


 俺は遠江の国人たちを深志城に呼び出して鷹司による領土安堵を保証し、戦費による借金がどうにもならぬというものは一度だけ借金を肩代わりする代わりに、兵役があったときには必ず参上することを取り付けて、それでも参上しないものは武力で叩き潰してとりあえずは遠江の争いを納めた。


 史実における遠江の国人は南北朝時代に存在していた家の中で応仁の乱で1割、遠江錯乱で6割、武田の遠江侵攻で2割が消し飛んで最終的には1割ほどしか生き残れなかったらしい。


 今回はそこまで被害は出なかったろうが、それでもいくつかの家は消し飛んだだろうな。


 遠江錯乱で被害が拡大したのは武田や徳川が後ろで糸を引いていたのも有ったらしいけど。


「とりあえず遠江は落ち着いたか」


 俺は弟である一条歳久と島津四天王の一人である川上久朗を呼び寄せ俺に代わって遠江を含めた東海や信濃を統治するように指示を出した。


 四国はだいぶ安定してきたしそろそろ抑えとして一条歳久を土佐に置いておく必要もなくなってきただろう。


 俺の連れ子に細川と三好の子供もいるわけだし。


「東国の統治は難しいと思うが頼むぞ」


「は、我が身命に変えましてその大任つとめてめてみせましょう」


「かしこまりてございます」


 甲斐についてはもともと今川よりであった穴山氏の穴山信友あなやまのぶともによる救援の要請があり、諏訪勝頼らを甲斐に送ることで小山田信茂ら北条方に対抗して北条の勢力が甲斐に浸透するのを防いだ。


 穴山氏は武田を名乗ることも許された家柄だが支配している地域が今川の駿河に大きく食い込んでいることも有って、もともとは今川よりの立場であって、今川侵攻時も名目上一番最初に降伏したから現状では立場はあまり強いとは言えない。


 無論素直に今川に従ったとも言えないがな。


 結局、盲目が故に今川に殺されずに住んだ武田信玄の次男である武田信親を名目上の甲斐の当主として担ぎ上げて武田による統治を復活させ、穴山信友は鷹司が、小山田信茂は後北条が支持しつつ甲斐に対してはこれ以上お互いに軍事的に強く介入しないということで落ち着いた。


 現状、長尾と長尾に従う国人たちによる攻撃で大きく領地を失っている後北条としても鷹司まで敵に回したくないのだろうし、俺としても近江の六角と浅井・越前の朝倉などといった山城の喉元で火種がくすぶってる状態ではこれ以上東での面倒事に巻き込まれたくなかった。


 武田と鷹司と後北条で不戦同盟を結んで、今川と後北条も不戦同盟を結んだ。


 甲斐の復活した武田と今川の間でも不戦同盟が名目上はむすばれた。


 武田が今川に喧嘩を売ってきたらそれは鷹司に喧嘩を売るようなものではあるが、国人レベルでは明確にしておかんと勝手に動くやつもいるかも知れないからな。


「やれやれやっと帰れるか」


 こうして俺は姫路城への帰途についたのだ。

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