第144話 天下大将軍の正式な宣旨を受け関白に関しては近衛に戻したよ
さて、新しく東宮様に”天下大元帥”の位についていただき、公武双方の長として朝廷があるのだと明確にした上で、俺は正式に”天下大将軍”を拝命した。
それにより鷹司は武家の頂点としてよってたち、軍事の長であることを天下に知らしめた。
弟たちは畠山義弘が鎮西将軍として九州に土佐伊予と周防長門を加えた地域を。
上杉家久が鎮東将軍として関八州の相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野にくわえて伊豆・甲斐をあわせた10の国を。
一条歳久が鎮守府将軍として陸奥・出羽・蝦夷地(北海道)・樺太・カムチャッカ・千島列島などを担当するが、彼らはあくまでも天下大将軍の下として扱う。
それにより俺の持っていた関白の位は返上し、近衛前久についてもらうことになった。
「これで肩の荷もおりましたよ、宮廷行事に全部参加せずとも良くなりましたし、鷹司が費用も出さないで良くなりましたからな」
「いやいや、いきなり全部出さなくなられては困るぞ」
「ええ、そのあたりはわかっておりますよ」
なお、奈良時代の律令制に立ち返って、荘園制度は消滅させる代わりに、公家には官位に応じた広さの、家族で住める役宅を用意し、上位のものほど内裏に近い場所で広い邸宅とし、官製食堂にて朝食と夕食を食べられるようにしているし、官位に応じての月給を遅滞せずに支払うこともしている。
日本各地に国衙などが復活したことにより、税金関係の中央諸官庁の仕事も増えてるから、公家も遊んでる余裕はあんまりないがちゃんと働くのはむしろ当然のことだ。
室町時代の公家は鎌倉時代の承久の乱と建武の新政とで権威を地の底まで落とした皇室から離れて、花の御所と呼ばれる足利将軍家の政務を行う場所を兼任する邸宅が作られたが、多くの公家は朝廷の御所に出仕せずに、花の御所に出仕してそちらで政務を行っていたりもした。
室町の将軍は征夷大将軍でありつつ大臣の官位も持っているのが普通であったから、朝廷の宮廷内の席次も高く、在京していることもあって、公家としても宮廷派閥の長でもあったわけだ。
日野家の日野資康など足利義満に非常に気に入られていて、代々将軍家の正室となっていったくらいだな。
なので室町の将軍はある意味では今清盛であったわけでもあり、なおかつ直轄地を殆ど持っていなかったから実質的な幕政の権限を失っていってしまう。
だが、それでも地頭や守護がある程度は税を朝廷に納めている間はまだ影響力を残せていたから、公家に対する影響力も残っていて、「
まので、朝廷の大臣である室町幕府の将軍にそのまま仕えて将軍側近として、武士と同様に戦う生活を送り、時には将軍と命運も共にするものもいた。
室町殿は応仁の乱までは大臣にまで昇進可能である摂家・清華家級の家格であったので公家社会の有力な一員でもあったのだ。
このあたりにも将軍に権威がなくても存続できた理由があったのだろう。
しかし応仁の乱で京が焼け野原になり、後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所に避難すると、足利義政は急遽御所を改装して仮の内裏とし、天皇家と足利将軍家の同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、義政と富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いたりしていた。
だが、結局守護に対する後に幕府の影響力が完全に失われ、守護が地元に戻りその衰退が明らかになったうえで、明応の政変で将軍家が事実上分裂し、足利将軍家の義稙系(足利義稙―足利義維―足利義栄)と義澄系(足利義澄―足利義晴―足利義輝・義昭兄弟)への分裂と共に近衛家が娘を義晴・義輝の正室として連携を深めたことで、「近江・義澄系将軍家と近衛家・鷹司家同盟」と「阿波・義稙系将軍家・九条家・二条家・一条家」という公家での政治対立の構図が成立し、近江義澄系将軍家が力を持っている時は、九条家・二条家・一条家が大内などを頼って地方への下向を余儀なくされ、反対に義澄系将軍家が京都を追われた時には、近衛流が力を失い朝倉や今川などを頼ることになったりもしたわけだ。
さらに朝廷はどちらの陣営からでも正式な申請と御訪(必要な経費の寄進)があればその金額に応じた任官申請を認めるようにしたわけだが、島津が近衛と四国の土佐一条・伊予西園寺などの支援をし始めたことでまた風向きが変わった。
つまり近衛も九条も島津に接近してきたが、その結果としては鷹司を引き継がせた近衛の優勢勝ちと言う感じでもあった、
だが、近衛は足利義輝や長尾景虎を支持していたこともあって、現状では必ずし近衛の一人勝ちとは言えない状況というわけだな。
まあそれはともかく現在の公家は朝廷に出仕して仕事をすればそちらでも昼食が出て、仕事が夜間に及ぶ場合には夕食もでるようにしてるから割と真面目に働いている。
また京の街の治安維持には検非違使が動く様になっている。
江戸幕府のやり方だと治安維持は儒学的道徳と刑罰の連座制度によっておこなって、厳罰ではあるが治安維持要員の人数はかなり少なかった。
これが幕末に水戸藩氏や維新志士によるテロを防げなかった理由でもあるので、そういった要員は多めにしておくことにもした。
なお徳川幕府の禁中並公家諸法度では、宮家は摂家より下とされていたが、俺はとうぜん宮家は摂家や武家の高家より上とした。
しかしながら皇室や宮家はあくまでも上にはたつが直接的な統治は行わないことには変わらないようにもしておいた。
明治維新の原因になったのは江戸時代後半には歴史や国学を学ぶ物も増えて徳川が朝廷にないがしろにしているのはおかしいといいはじめたのもあるので、朝廷を蔑ろにするつもりはないことは態度として示しつつ権力を握らせるつもりもないことも態度としては示しておく。
中央集権を徹底してしまうと腐敗のもとになるので大名による封建制も残しつつも、海防や外交・交易についてはやはりある程度権力を中央に集めるべきでもあるのでそのあたりは適当なバランスを保ちたいものだと思うがな。
こういったことを行いながらフィリピンの防衛とスペインとの交渉の上での戦闘も想定して海軍の運用がスムーズに進むように組織を作りつつ、外洋航海や砲撃訓練なども行わせている。
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