第143話 東宮様に天下大元帥になっていただきおおよその統治形態を固めたよ

 さて、正月の宮中行事への参加と資金提供はとりあえずはなんとかなったが、やはり公武の取りまとめの兼任は辛いものがある。


 とりあえずそろそろ室町殿に代わり、鷹司の統治機構を明確にする必要があるが、それには鎌倉幕府・徳川幕府及び明治政府がやったことを参考にするのがいいのだろう。


 室町幕府は正直欠点のほうが多い気がするからこの際はのぞいておく。


 もしくは奈良時代初期の律令制の復活と言ってもいいがそれをそのまま復活させようとすれば後醍醐天皇の建武の新政時のように時代に合わないものになるのも目に見えてるしな。


 まずはじめに俺は鎌倉殿のやり方を引き継ぐために公儀の最高位には東宮様に”天下大元帥てんかだいげんすい”として軍の将(長)、文の宰(長)の上の文武の長たる地位についていただき、俺たち島津がその下の天下大将軍として、まずは軍事的に補佐することを朝廷へ奏上するために近衛前久などの公家などに根回しをすることにする。


 また武家と公家で官位を分けて与えることもいっしょに提案する


「ふむ、東宮様に公武の長たる地位についていただくのか。

 そして武家と公家で官位は別々に与えるものとすると」


 近衛前久などの公家の反応は悪くない。


「はい、我々は大公儀だいこうぎ大都督府だいととくふとして日ノ本を統治してゆきたいと考えておりますが、それは当然ながら天子様の下においてのことでございます。

 故に天子様のご子息様である東宮様に公武の長たる地位についていただくのがよろしいかと考えました。

 また武家が官位を多く得ると宮廷行事の開催などにも差し障りがございますので、名目上公家と武家で官位を分けて与えるようにしていただければと」


「ふむ、なるほどわかったこちらでも検討してみよう」


 結果とすればその提案は通り、将軍の上の存在として東宮様が今後は天下大元帥としてたつことになった。


 本來は”大宰帥だいさいそつ”と言う名称のほうが正しい気がするが、そちらは九州の大宰府の官職名としてもまだ残ってるし、日本ではすでに威光もあんまりないしな。


 鎌倉幕府においても宮将軍が擁立されて以降は、皇族が最上位にたつことにより鎌倉幕府の法的な正当性が常時保たれ、親王将軍ともなればその命令書は朝廷からの令旨として立派に法的な効果を有するものであった。


 鎌倉殿たる源頼朝を支援していたとは言え、もともとは伊豆の一介の小豪族に過ぎない北条氏が執権として安定した政治を行えたのも、宮将軍が鎌倉幕府と朝廷を結びつける役割を果たし、鎌倉幕府の存在を公儀として正当化させる上で非常に大きな意義を持ったのだな。


 それと共に新たな統治機関においては、守護を廃止して国司制度を復活させ、鷹司の直轄地には公家や武家からふさわしいと思われるものを派遣するものとした。


 大名に対しては一国一城令を出して居城及び政務に必要な一つの城以外のすべての城や砦の破却を命じた。


「これで争いも起こりにくくなるであろうかな」


 あとは鎌倉から室町期の地方行政は守護と国司が並立していたが先に国司が有名無実な存在となったあとで応仁の乱で守護も有名無実な存在となった。


 徳川幕府はどちらも消滅させてしまって、幕藩体制と呼ばれる体制では将軍が大名に対して統治権限を与える朱印状を発行し名目上はその知行を保障し、大名は与えられた知行地内において独自に統治を行う権限を有したが、そのかわりに名目上の知行地の石高に応じた軍備を常に備え、軍役としての参勤交代を行ったり、築城・治水工事などの普請などの義務が課せられた。


 要するに大名は税金を江戸の幕府に納めないでいい代わりに軍備を常に整えることを命じられ、更には公共の工事もやらされていたというわけだ。


 俺は元は守護やそれに近い一国に影響がある大名国人には当面は税を納める必要がないかわりに軍事や普請を行うようにさせ、そうでない少大名や国人などには最低限の治安維持要員を持つだけでよいが、代わりに指示されただけの税を納めるように指示をした。


 なお少大名や国人の元にいた武士などは、鷹司直轄での海軍及び陸軍を設立し、そこへ配属させつつ伴天連の脅威を取り除くために南方に対して軍を向かわせることも明言した。


 平和な状況になると武士やその武具や馬を国人レベルで維持するのは大変であるため、小規模な国人は地頭として税を徴収して国司へ収めることに戻るのをよしとする者も多いようだ。


 ちなみに江戸幕府の財源は基本的には直轄地の税収や鉱山から算出する金銀銅などから得ていたが、鎌倉幕府の場合も駿河、相模、武蔵、越後の4カ国を中心とした直轄地や全国の御家人が持つ彼らの所領内の公田に賦課した関東御公事かんとうみくうじなどから得ていて、これを使って将軍の御所、内裏、鎌倉八幡宮などの寺社の修繕費や幕府の行う諸行事の費用などに充てられていた。


 だが、最初は臨時だったものが後には恒常的なものとなっていき、それも御家人が鎌倉幕府に対して不満を持つもととなったらしい。


 室町幕府は名目上は足利を筆頭としていたが、実際にはその親族などや建武体制に反発した有力武家の連合からなっていた。


 そして室町幕府の直轄地である御料所が少なかったため、鎌倉幕府に比べて税収も少なく、その分は田畑の広さごとに銭を徴収する段銭たんせん、家屋1つごとに銭を徴収する棟別銭むなベつせん、豪商からは酒屋役さかややく倉役 くらやくとして銭を取り立て、日明勘合貿易に参加する商人からその上がりを取ったり、京都五山から献上品を受けとったり、守護から銭を納めさせたりもしていたが、それが途切れたり、見返りに政治に介入されやすかったりした不安定なものだった。


「ふむ財源の安定は最優先で行わなくてはいけないな」


 徳川幕府ではそれ以前に主に畿内周辺で室町幕府や織田信長などが、西国では島津を含む大名が私鋳銭を大量に制作したりしたことによる銭に対しての信用崩壊で貫高制をぶち壊して米による石高制を取ったことで、石高制を引き継いだが、石高制は米の供給が増えるとデフレになってしまうのは目に見えている。


 なので石高制は廃止して銭による貫高制に戻すことにする。


 当然ながらそれには必要なだけの金銀銅の貨幣の増産を行わないといけないが、東国の古河公方方などでは高品質な永楽銭の模造通貨が鋳造されていたのでそれをそのまま増産させる。


 越後や甲斐の金や石見の銀なども通貨にさせて、未だに市中に流通している悪銭鐚銭は回収し、正規の永楽銭に準拠する銭に鋳造しなおして市場に戻す。


 遠距離では銭などを持ち歩くのは大変なので、両替商を通じて割符を用いての商いが出来るように段取りも組まねばならない。


「まったくもって経済というのは頭の痛いことだ」


 経済を政治的に統制することは、実質的には不可能なのであるが、ある程度は安定を図ることは出来る。


 結局の所は信頼性の高い通貨を十分な量市場に流通させ、通貨の信頼度をあげるというのが政治機構が行える最大限のことではないかと俺は思う。


 そのためにも度量衡や量り枡や俵などの規格の全国的な統一も必要なのでそういったことも厳格に守るようにそれを発布したよ。

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