第99話 番外編・その頃の東国
さて越後で反乱を起こした北条高広(きたじょうたかひろ)は毛利元就と同じ家系、つまり大江氏の一族であり、鎌倉幕府の創始者である源頼朝から鎌倉幕府の政所初代別当を任じられた大江広元を祖先となす。
そして、大江一族は闘戦経という兵法をまとめた一族でもあり、楠木正成の師匠の一人は大江氏の一族であったということも有って、政治や軍事に優れた人物であり、長尾景虎の父である長尾為景からその息子晴景更にはその弟長尾景虎と三代に渡って仕え武勲を積んできた。
しかし彼は長尾氏に敵対する
だがこれは武田から降った真田幸隆による調略とその後の攻撃により反乱はあっさり鎮圧された。
降伏した北条高広は長尾景虎に許されたことで再び仕えた。
この時代の大名の統治というのは支配下に入れた地域のすべての武士を家臣化して独立性を排除するというのは難しく、結局家臣の家臣としてまとめさせるのが精一杯なのだ。
大内や大友のような有力守護ですら家人団の統制に苦労してるし、尼子や毛利といった国人出身の領主であればなおさらだった。
大名は結局地侍・地頭・国人といった武力を持つ存在を間接的に支配することしかできなかったし、それは織田信長も豊臣秀吉も徳川家康もそうだった。
豊臣秀吉は地侍という存在を消滅させ侍と庄屋に分けたが、封建制というのはそういう制度なのだ。
結局大名などはそういった武力集団の上に立って、争いの際には両者の調停を行うという武力により既得権益を保護することで地侍や国人などを従えていくわけである。
だが、長尾景虎は越後北部や信濃北部・上野や越中などを関東管領としての権威で従わせたのは良いものの、例えば後北条の攻撃から従った国人などを守ることが出来なければ長尾の配下に入った国人・豪族・地侍などはすぐに北条へなびいたりもする。
それは血族でもない限りは上の者に滅んでまでも従うなどということはしないこの時代ではむしろごく当然の行為であった。
そんな長尾ではあるが、そもそも彼の父親である長尾為景は越後守護上杉房能を自刃に追い込み、その実兄である関東管領上杉顕定も敗死させるという下克上を行っており、主君殺しの長尾は非常に評判が悪かった。
しかも本来は寺に入れられた景虎が家を継ぐことはないはずであったり、長尾自体が上田長尾家、古志長尾家、府中長尾家に分かれて争っていたりもしたのだから越後は争いが収まらぬ地域であったわけだ。
野戦の天才長尾景虎の下に調略を得意とする真田幸隆がついたことは、長尾家の勢力伸長や越後防衛の助けになったであろう。
その頃の甲斐の国であるが今川の軍を率いていた太原雪斎の死により今川の侵攻に対しての抵抗が強まっていた。
彼等は武田信繁の長男で信濃の名族である望月氏の血を引く武田義勝を引っ張り出して武田の旗頭としてかつぎあげ実働部隊としては、武田滅亡の際に討ち死にした飯富虎昌の弟である飯富源四郎、のちに山県昌景と呼ばれるはずだった男や馬場信春の嫡男である馬場昌房(ばばまさふさ)などの武田重臣であった国人の弟や子供達である。
武田の重臣であっても国人も根切してしまってはそれこそ甲斐の統治が出来ないとはいえ、今川から見れば甲斐の国人は予想以上に敵愾心が高すぎた。
とは言え甲斐の統一過程で今川がちょっかいを出していたことを考えればむしろ当然ではあるのだが。
更には太原雪斎に次ぐ軍の要でもある朝比奈泰能も病に倒れ、今川の軍を彼等の代わりに取りまとめられる人物は今川義元本人しかいなくなり今川義元本人は嫡男氏真に家督を譲り名目上隠居した。
駿河・遠江・三河・尾張などの領国の統治は氏真が行い三河の統治には松平元康が助力することになる。
一方、義元は甲斐の反乱の鎮圧および金山などの経営に集中することになるのだった。
本来足利一門でも上位の今川家は室町幕府方の関東と畿内の間のおさえの要として、鎌倉公方などが謀反を起こすたびに、室町幕府軍の主力となって信濃の小笠原氏などとともに関東の戦乱に介入して反乱を鎮圧してきた。
そして、細川政元や足利義澄、伊勢貞宗などの意向で、派遣されてきた伊勢新九郎を後援し関東に中央に背かずに従う勢力を築くつもりだった。
だが、その伊勢新九郎の子孫が堀越公方や関東管領を排除することが将軍から中央への叛意とみられるようになるのは皮肉な話でもあるし、今川が中央から独立を指向するようになるとは考えられなかったことであったのだろう。
そのころ後北条氏は、常陸の古河公方がいる古河城へ侵攻し、古河公方の足利義氏を平伏させ、関東管領・上杉憲政のいる上野国を攻撃し、上杉憲政は居城の平井城を棄て、長尾景虎を頼り越後国へ逃亡した。
これにより長尾景虎と北条氏康の対決はほぼ確定された。
しかしながら後北条は諏訪勝頼を島津義久のもとへ送りこむことで、島津の意識を甲斐や信濃へ向けさせることに成功していた。
北方からの長尾や上杉の連合軍だけであれば北条は十分対処可能と考えていたのだ。
一方美濃の一色義龍は治部大輔に任官し足利幕府相伴衆にも列せられ、将軍の臣下としての大義名分を得た。
そして長島一向一揆により疲弊させられている国力の回復の最中であった。
だが美濃は父斎藤道三が日蓮宗を保護してきていたりなど宗教勢力の影響の強すぎる地域でも有った。
義龍は将軍に願い出て菩提寺の開創を発願し、京都妙心寺の長老である亀年禅愉に相談した。
これによって亀年禅愉の弟子の別伝は美濃へ赴いて、稲葉山城下の一角に少林山伝灯寺が創建された。
しかし、これが妙心寺の分派の勢力争いを引き起こした。
義龍は美濃国の禅宗寺院の寺統権を伝灯寺が行うこととするように布告したがそれまでこの地方の寺統権を有していた瑞龍寺がそれに反発したのだ。
色々ごたごたがあって義龍は朝廷や幕府に働きかけ、伝灯寺を天皇の勅願寺となし、紫衣勅許の寺として京都南禅寺と同格になすとされ将軍・足利義輝からもそれを指示する御内書が出された。
しかしながら事態はその後もこじれて最終的に本山の妙心寺が存亡の危機に立たされることになったのである。
そしてそれが一色義龍に対しての大きなストレスとなって、もとから持病を持つ彼の寿命を大きく縮めることになるのであった。
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