第125話 能登越中の始末
さて、能登越中の始末だ。
まず能登は、天文20年(1551年)に起こった大寧寺の変の影響もあり、畠山義続が隠居することで畠山七人衆筆頭として一時は権力を握った温井総貞は(ぬくいふささだ)は弘治元年(1555年)に畠山義綱によって暗殺されたが、その息子の
しかしながらその息子の
俺は弘治の内乱に加わっていた温井景隆やその実弟である
「この者らの処分はそちらに任せよう」
こいつらは能登の民衆から見れば、加賀の一向一揆を引き連れて能登の全域の土地を荒らし回った連中だから、許されることはないだろうけどな。
結果として連中は磔で石打にされたらしい。
「まあ、こういった刑罰はこの時代の民衆の不満解消の意味もあるからな」
一方能登守護代の一族である
もともと長家は室町幕府将軍直属の奉公衆の家柄で、能登に在住はしていても能登畠山家に仕えていたわけではなかったようだが、将軍の権威が地に落ち、能登畠山が畠山義総によって能登の領国支配を強めていったことで戦国大名となっていき、長家は畠山に属する国人となった。
畠山家中では外様であるが長家はかなりの軍事力持っており、温井、遊佐に匹敵する軍事力を持っていた。
もっとも彼は畠山義綱を追放してるので、あまり信頼できるとも言い難いが飯川光誠は誠実な人物であるようだし多分大丈夫だろう、奥能登と加賀の鷹司に挟まれた状態で謀反を起こすほど馬鹿でもないだろうしな。
そうしてある程度能登に平穏が戻ったところで畠山義綱への対処を俺は伝えた。
「奥能登については鷹司の直轄地とする。
畠山家に対しては南能登半国の安堵を行う。
これよりは上手く治めてほしい」
「か、かしこまりました」
能登一国の安堵を得られるものと思ったかもしれないが、奥能登は日本海側の交易路としても重要であるし、今後は女真族との交易の拠点としても重要になるはずだ。
そして上杉との戦いの際の水軍の運用の拠点としても重要な場所になる。
俺は淡路の安宅冬康を能登へ水軍ごと国替させることにした。
「後に行うであろう越後・佐渡・出羽への水軍の拠点として大事な場所になる。
それゆえ奥能登の半国を任せてもよいであろうか?」
「は、必ずやご期待に沿う活躍をご覧に入れてみせます」
「うむ、あと志摩の地頭で水軍を持っていた九鬼の一族である九鬼嘉隆を与力としてつけるゆえ上手く使ってみせよ」
「かしこまりました」
九鬼嘉隆もそろそろ経験を積ませないとな。
「よ、よろしくおねがいします」
まあ能登についてはこれでいいだろう。
越中の神保長職は今まで親密であった一向一揆と決別をする決断を突きつけられたことで家中が分裂し内戦状態となっていた。
神保の家臣の
そして今までは一向一揆の戦力に頼っていた神保長職は形勢不利となっていた。
更にはそこをついて椎名康胤も攻め込んできたことで俺に救援を求めてきたのだ。
「やはり越中の一向一揆ーは力で叩き潰さねばならぬか」
俺は手勢2万を持って越中へ兵を進め、越中一向一揆と因縁の深い
勝興寺や瑞泉寺の坊主が、善徳寺に逃れたあとは、これも攻め落とし抵抗したものは全て鏖殺した。
続いて寺島職定とそれに従う者たちを討ち取りその後、椎名康胤が奪った富山城を陥落させ居城である金山城を攻撃してこれを落とし椎名康胤は自刃した。
「結局越中は俺が平定したようなものか」
その結果として富山城を含む越中における椎名康胤や一向一揆に加わった寺の寺領、寺島職定とそれに加わった神保の家臣たちの領地は俺の直轄領とし神保長職には射水郡の郡守護としてのみ地位を残すことにし、当然ながら神通川河口の岩瀬湊などは当然直轄にした。
そして坊主や一向一揆などの遺体はやはり銭や米で兵士や民衆を動員して埋葬し、天台宗や真宗高田派、時宗などの僧侶に供養してもらい怒りの矛先は真宗本願寺派に向かうようにし北陸においては薩摩法度にて真宗本願寺派は禁教とした。
「結果として越中の道路や湊などの整備がしやすくなってよかったかもな」
もっとも越後と越中の往来が大変であることには変わらないわけではあるが。
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