第117話 そろそろ惣無事令や喧嘩停止令を出して、大名の上洛を促そうか

 さて、近江の六角は室町幕府の有力守護大名であり、細川晴元や足利義晴・義輝親子などが京より追放された時に坂本にて比叡山と共に保護し三好の権威を否定してきた。


 故に三好長慶は天下人としての権力は持っていたが、上洛した大名に挨拶もされずに無視され、将軍や管領に変わっての権威を手に入れることはできなかった。


「三好長慶は天下人と庶民などには思われていたが、幕府の中枢や朝廷にには認められなかった。

 だからこそ最後は将軍に殺されることになったのかもな。

 俺は三好長慶とはいろいろ違うけどな」


 外交官としてあちこちを行き来している臼杵鑑続が頷いて答えた。


「元は細川の被官の三好と鎌倉よりの三州守護であり、近衛の家令である島津であり、近衛より嫁を娶って鷹司の名をつぎ関白太政大臣となった貴方様ではそれは違いますな」


「関白太政大臣なんてのは一部の人間がありがたがってるに過ぎないけどな。

 最もその一部の人間が武力や権威権力を持ってるから厄介なわけだが」


「そうですな」


 畿内の民衆にとっては実質的な統治者は三好長慶であるという認識はあっただろうが、室町の有力武家である足利・細川・畠山・六角などが三好の権威を否定したというのもあるだろうし、朝廷に対しての献金が十分であると思われなかったのも、三好に権威が与えられなかった理由としてあるのだろう。


 先帝の後奈良天皇陛下は清廉な方であるという理由も有ったかもしれないが、大内などは従二位兵部卿という官位を手に入れたりもしているのだから、三好長慶にもそのチャンスは有ったと思う。


 しかし、幕府の運営や京の治安維持を優先して行ったことで朝廷に対して多額の献金をする余裕はなかっただろう、明との貿易も公的には停止しており財源も十分ではなかったのだろうしな。


 現状の俺は朝廷の運営に必要な金を十分に寄進しているし、俺自ら朝廷が行う宮廷祭祀が可能な限り再開できるようにもしている。


 言っておくが俺は天皇家を廃立して易姓革命のようなことや、天皇家を乗っ取るようなことをおこなうつもりはまったくない。


 新年の始まりに”我が身にて全ての日本に起こる災厄を受け止める”などということを行える陛下になり代わるなどおそらく誰もいないであろう。


 今は亡き後土御門天皇陛下は「もう、朕は天皇を辞めたい」と何度もおっしゃられたそうだが、応仁の乱により宮廷祭祀が行えなくなり、公家は地方に下向して離散し、戦乱や天災を収めることが出来なかった悲しさは如何ほどのことであったろうか。


 その後の後柏原天皇陛下や先帝後奈良天皇陛下も我が身の徳のなさを嘆いておられたそうだがそれでも天皇をやめることは出来なかった。


 天皇が退位し新たな天皇が即位するためには莫大な金が必要だがそれを集めることが非常に難しかったからだな。


 無論、俺は先帝陛下の葬儀と今上陛下の即位式を着実に行えるように寄進を行ないどちらもつつがなく執り行われている。


「そろそろ東国に向けても惣無事令などを出しても良い頃か」


「はい、それもよいかと」


 惣無事令すなわち武力抗争の禁止令は豊臣秀吉が出したというわけでもなく足利義輝なども何度も出しているものだが実際に効果があったかというのはまた別だ。


 被官のもの同士で私戦をおこすなというのは大名は自分の統治領域では皆に言い聞かせているはずである。


 はずであるというのは必ずしもそれが守られてるわけでもないからだが。


 豊臣秀吉は関白という地位を利用し天皇陛下の勅命として大名の私闘を禁ずる私戦停止令や惣村における田畑の境界を巡る争い、山争いや水争いなど、村どうしの武力による闘争やそれに対しての報復行為の禁止である喧嘩停止令、海上での海賊行為の禁止である海賊停止令を天皇陛下の勅命という形で全国へ発布したが同じように行うとしようか。


 まずは上洛して左右の大臣や大納言などと共に私戦の停止命令を発給することを合議して賛成多数で可決した後に今上陛下へ許可の奏上を行う。


「今上陛下、天下を太平にするために陛下の御名において争いをやめさせるように勅命をはっしていただきたく願います」


 近衛前久が大きくうなずいて答える。


「うむ、今上陛下はその方の行いを良しとされておる。

 速やかに各地へ勅命を届けるがよかろう」


「は、まことにありがたきことにございます」


 それから大坂城に戻って楠木正虎に書をしたためさせる。


 俺が朱印を押して完成。


「では、これを各地に発給してくれ」


「かしこまりました」


 まずは大名国人の私戦停止令から。


 ”この度帝の命に決定したことについて伝える。

 各々の家の持つ国や郡の境界は協議を行うべし。

 双方の言い分は帝に聞き届けられ、追って沙汰があるだろうから、まず敵味方双方ともに剣槍弓鉄砲をおさめることこそ、帝の思し召しである。

 その御意志に沿うことは臣民として当然のことであるゆえ、この旨に従わぬ者は朝敵とされ必ずや御成敗されるであろう。

 この命に対する返答は各々方には一大事であるから、十分に分別をもって帝に言上なされるが良い”


 次は村同士の闘いの停止命令。


 ”惣村において田畑の境・山の境・水の境をめぐり刀剣鉄砲を持って互いに喧嘩いたし候者あらば、その郷を双方を成敗する。

 また他郷よりその争いに荷担せしめば、本村よりその科を重くする

 訴えは国の問注所にて決済すべし”


 最後は海賊停止令だな。


 ”各水軍や交易商は運上金を払わぬ私貿易を行うことを固く禁ずる。

 船頭・水主は今後日本国内においていっさいの略奪行為を働くことを固く禁ずる。

 船に対しての警固料の徴収を禁止し警固の依頼や料金を徴収するための警固関を廃止すること。

 土地の領主に浦ごとの海民調査をおこなうこと”


 というか本来これは幕府がやっていた事を応仁の乱の時に放棄してしまったのでもとに戻すだけなんだけど。


 鎌倉幕府は元々関東の平氏たちは開拓して収穫したコメを朝廷と平家に税を二重に取られて苦しんでいたので、源頼朝を担ぎ上げてそれらを行えないように反逆したわけだ。


 だが、頼朝という人はどちらかと言えば公家よりの京武者であったから、まずは関東や中部北陸などで、謀反人の認定を取り下げて貰う代わりに東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証し源頼朝を頂点とする東国武士団による東国支配権を公認させた。


 その後、諸国への守護・地頭職の設置・任免の許可を得て治安維持の任務を担うことで実質的な権力を朝廷から奪って自分たちが実力行使を行うことに対して正当性認定権をえたわけだ。


 もっとも鎌倉幕府の時代においては国司の権限もまだまだ強くその権限はまだ限定的であったが、室町幕府にいたり守護の権限が強大化することで武家の権限が強くなっていった・


 しかし次第に幕府内での権力争いによる内輪もめがひどくなって、幕府は守護などに対する領地の裁定の権利を放り投げてしまい、実力のあるものが自力救済に走りすぎて現状に至るわけだが。


 問題解決を暴力ではなく法と司法で行ない、教育・医療・十分な食料供給と最低限の不満を解消できる娯楽を用意していく必要はあるだろう。


 同時に以前九州で行っていた刀狩りを近江や河内などでも行いつつ、それを農具に打ち替えて農業の発展を促すことをすすめて各地の諸勢力の対応や行動を待ったのだ。

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