第116話 近江の六角が内部から崩壊しそうだし近江をとっとと制圧しようか、その頃の関東では長尾景虎が上杉政虎に名前を変えて関東管領を引き継いだそうだ

 さて、石山本願寺を洛外に移動させて、その土地を押さえた俺は門前の鍛冶屋や商人などはそのまま商売を続けさせ城下町を発展させつつ、湊の整備も行い瀬戸内海と淀川の水運をよりスムーズに行えるようにさせている。


 そんな中で俺のもとに届いた報告の中に重大な事件があった。


 現在の六角の当主である六角義治が、六角氏の宿老であり、智勇に優れた後藤賢豊とその嫡男を観音寺に呼び寄せて誅殺したというのだ。


「ふむ、どうやら六角の権威は完全に地に落ちたらしいな」


 にやりと笑い毛利元就がいう。


「はい、そのようでございます」


 六角義治が後藤賢豊親子を殺害した理由は諸説あるが、後藤賢豊は先々代の六角定頼時代からの六角家中における筆頭家老でもあり、その他者からの人望も厚い人物で普通であれば誅殺されるような理由はない。


 六角の家中においては、進藤貞治と共に「六角氏の両藤」と称され大きな権限も持っていたくらいだからな。


 だが、だからこそ六角義治は彼を排除したかったのだろう。


 もしかしたら”山城に兵を出しても何も得るものがなくては不満はおさまりませんぞと”でも言わせたか。


 織田信長が上洛して以降の彼の下の武将に課された軍役などはかなり厳しいものだったようで荒木村重の謀反などにはそういったことも理由があったようだが、結局幕府の管領代として動かざるをえなかった六角は、山城に上洛した後に家臣たちに大きな負担を強いることになったがそれに対して得た利益はあまりにも少なかった。


 六角氏が持っていた管領代という権力は細川が盤石な時は良かったが三好が細川を追うとその矛盾が増大していったわけだが、だからといって六角が最初から三好と和をむすぶということも六角と三好の家格などを考えれば出来なかっただろう。


 結局のところ細川晴元が近江に追い出された時点で、六角も衰退するしかなかったのだろうとはおもうがね。


「もはや六角に近江の統治を行う能力はないと見たほうが良いか」


 宇喜多直家が答える。


「左様でございますな」


「では、近江の騒乱を収めねばならぬな」


 俺は将軍足利義栄に近江に出兵し六角のお家騒動を収めるように指示を出させることにした。


「近江が内乱で荒れてはせっかく摂津が収まってもまた荷の流れが滞るであろう。

 早急に争いを収めさせよ」


「かしこまりました、ただちに近江へ兵を出しましょう」


 実際、独断専行で余計なことばかりする六角義治が当主のままでは六角はいずれ滅びるだろう。


 今回の事件も六角義治が独断でこれを実行したため、後藤氏と縁戚にあった永田景弘・三上恒安・池田秀雄・平井定武・進藤賢盛など主要な国人が浅井を南近江に引き入れて六角に対して反旗を翻しているくらいだ。


「今頃行ってももう俺の出番はないかもしれないけどな」


 俺は1万ほどの手勢を率いて近江に兵を出しつつ、いつものように六角の家臣や国人などを調略でこちらの陣営に引き入れさせた。


 そして彼に従うものはごくわずかであった六角義治はとっくに観音寺城から逃げ出して日野城の蒲生定秀を頼って落ち延び、父の六角承禎も同様に日野城へ逃亡していた。


 俺が観音寺に到着する頃には浅井長政を引き入れた六角家臣や国人たちが俺を出迎えた。


「お待ちしておりました鷹司執柄相国様。

 どうぞ城へお入りください」


「うむ、出迎えご苦労である」


 一方の六角承禎・義治親子を保護した蒲生定秀はなんとかして六角の権威を保持しようとしていたようだが、浅井長政だけならばともかく将軍の命令で俺が直接近江へ乗り込んできたことで俺に膝を屈する事になった。


 そして、この騒動に対しての処理だが、まず無実である家臣を殺害したことで六角義治は切腹。


 六角承禎は寺院にて謹慎し今後は政治への関与を禁止、六角は義治の異母弟である義定を家督に据えるが彼はまだ幼いことを考慮し浅井長政に近江の統治を代行させることで近江の騒乱の収拾をつけた。


 ちなみに後藤賢豊の二男である高治の家督相続と所領安堵を認めさせて坂本などは鷹司の直轄とした。


 ちなみに史実において浅井が織田と敵対する理由になった京極の近江守護への復帰を俺は行うつもりはない。


 信長は尾張は斯波・美濃は土岐を掲げあげて名目を保とうとしたように近江は京極を掲げて統治を行おうとしたようだが、せっかく京極から独立した浅井にとっては織田のその行動は当然受け入れることは出来なかったわけだ。


 元々織田と浅井の同盟をむすぶために行わせた政略結婚も六角が足利義昭の上洛に備えて行わせたもので織田信長は浅井長政との同盟をさほど望んでいたわけでもないようだし。


「これで末期の室町幕府を支えてきた六角は事実上滅んだか」


 京に戻った細川晴元は嫡男の戦死によりほぼ廃人のような状態になり、政治に復帰する気力などとっくに失っており、最後の管領である細川氏綱にはもはや実権は無く室町幕府の要職を占めた三職七頭のなかでは斯波・土岐・京極・上杉はほぼ滅び、畠山・細川・山名・一色・赤松は鷹司の下についた。


 武田・小笠原も鷹司のほぼ影響下に押さえ、足利庶流の吉良や今川も鷹司の下についている。


 伊勢の本家も三好長慶と共に殺されたことでほぼ滅んだしな。


 あとは伊勢の支流である後北条・上杉の守護代である長尾・能登の守護である畠山・斯波の守護代であった朝倉くらいか。


 三好長慶と同様な状態にならないように、俺は朝廷や将軍などにひれ伏しつつ世間の様子を見てきたが、足利義栄が死んだ後、足利でない宮様や公家が将軍の座を受け継いでもおそらく現状ならば受け入れられるだろう。


 関東の長尾と後北条の争いについての経過だがまず上野や武蔵の国人が、旧主である上杉憲政を奉じて、長尾景虎のもとへ皆がこぞって参集し、更には反後北条の意識が強い常陸の佐竹や安房の里見などが加わり、下総守護である千葉胤富などが古河の後北条氏に援軍を送ったほかはほぼ長尾に味方し伊豆と相模以外の地域では圧倒的に不利な後北条は小田原での篭城策を選択し、古河公方の足利義氏、玉縄城の北条氏繁、滝山城の北条氏照や河越城の北条氏尭なども篭城に徹した。


 だが古河公方の在所である足利義氏の本拠地・古河御所は長尾によりあっさり制圧され、足利義氏は放逐され足利藤氏と足利藤政のどちらを後継者にするかでを揉めたが、最終的に足利藤氏が擁立されることになった。


 その後、鎌倉、藤沢、平塚を経由し小田原に上杉軍は攻め込んだ。


 その後小田原城をはじめとする諸城を包囲するものの、戦況は膠着し本拠地から遠く離れた場所へ合わせて10万とも言われる大軍が長期に布陣することで上杉軍は兵糧の欠乏が決定的になった。


 この間に長尾景虎は上杉憲政の要請をうけ鎌倉にて山内上杉家の家督と関東管領職を相続し名を上杉政虎うえすぎまさとらと改め統率力をあげようとしたが、兵糧の欠乏は深刻で佐竹義昭・小田氏治・宇都宮広綱などが上杉政虎へ撤兵を要求し、それがうけいらられぬと彼等は無断で陣を引き払い、それをみた他の大名国人たちも本拠地へ撤退していったことで小田原への攻撃は失敗に終わった。


 ちなみに関東管領の委譲については将軍足利義栄の許可はなく越前公方の足利義秋あらため義昭の許可によるものだ。


「かってに関東管領や古河公方を擁立されても困るんだがな」


 窮地を脱した後北条は武蔵や下総に逆侵攻してその地の国人を再び従えて上杉の再侵攻に備えつつ再度の勢力拡大を狙っているようだ。


「上杉と後北条は痛み分けというところか」


 最終的に武蔵の国人の多くは後北条に鞍替えしたが、三田綱秀だけは後北条への鞍替えを拒んで攻め滅ぼされたようだな。

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