第65話 平戸の制圧後の対処と九州統一

 さて、肥前の波多・宗・少弐・龍造寺・千葉も島津の下にはいり、松浦隆信に対し肥前でのキリスト教の布教禁止を突きつけそれを渋った事を出兵の大義名分として相神浦松浦や宇久を従え、後藤・多久・平井らも臣従させての平戸の制圧を無事完了した。


 平戸の港とその周辺は直轄地として支配し北松浦半島の一部を相神浦松浦、平戸の西部の一部を宇久に与えた。


 基本的に国人たちの既得の土地の権利はそのままにしておき、土地を移動させることはしない。


 それをやると色々面倒なことになる可能性のほうが大きいのでな。


 対馬の宗や壱岐に関しての扱いは特別なのだ。


 そして捕らえた松浦隆信・その名代でありキリシタンでもある籠手田安経と一部勘解由兄弟やポルトガル人宣教師、ポルトガル商人・王直とその配下の幹部などは牢屋にぶち込んである。


 王直の部下の下っ端中国人共は王直を見捨ててとっとと逃げ出したものも多かったが抵抗するものは斬り殺した。


 俺はまず松浦隆信と話をすることにした。


「松浦隆信よ。

 ポルトガル人や王直が明に対して日本の倭寇を装って攻撃をさせて日本と明の離間を図る作戦を計画していたことについてお前はどれだけ知っていた?」


 彼は驚いたように言った。


「わ、私はそんなことは知らない。

 平戸でのキリスト教の布教を認めたのは事実だが私は南蛮や明との交易の伝手が欲しかっただけだ」


「ふむ、そうか。

 何も知らされていなかったというわけか」


「そ、そうだ」


「そうか分かった、お前の処遇は後ほど決める」


 結局彼は出家の上で隠居させて、現在5歳の長男に名目上家督を相続させて島津が平戸松浦の実質的な支配権を握ることにした。


 その後俺は平戸家の筆頭家老である籠手田安経と一部勘解由に話を聞くことにした。


「さて、お前さんたちは宣教師共と結託して明を攻撃しようとしていたのか?」


 籠手田安経が目を見張った。


「馬鹿な、彼等は病にかかった民の面倒を見たり食えない民に食料を与えてくれた恩人ですし、そんなことは命令されていません」


 一部勘解由もいう。


「そうです、汝、殺すなかれという教えは素晴らしいものです」


 俺は首を横に振った。 


「ああ、そいつは奴らの手だな。

 奴らのいいとこだけ見ると痛い目にあうぜ」


 彼等はムキになったようにいう。


「そのようなことは!」


「ありませんぞ」


 どうやらこの二人は宣教師に洗脳されてしまったようだな。


 史実でもこの二人は信仰を捨てず弾圧されたときは長崎に領民のキリシタンと一緒に移動している。


 彼等は高潔勇武な性格であって貧しい領土の統治に心を痛めていたらしい。


「俺のもとでのキリスト教の信仰の継続は許さん。

 教えを捨てるか宣教師共と一緒に死ぬか選ぶがいい」


 二人はいう。


「教えを捨てることなどできぬ」


「そうとも」


 晴れ晴れとした顔でいう二人に俺はいう。


 こいつらは犠牲者に過ぎないのだが……キリスト教に汚染されている以上は殺すしかなかろう。


「ならば、神の教えに殉じて死ね」


 これだから狂信者は理解しがたいのだ。


 ちなみに木村某も同じだった。


 続いては王直と話す。


「な、なぜ私まで捕らえたのだ?

 私とは今までさんざん取引をしてきただろう」


 俺はうなずく。


「うむ、高山国や南九州のシラス台地の開墾、鉱山の採掘などに人手は必要だったからな、お前さんのおかげでそれが捗ったのは事実だが……。

 それ以上にポルトガル人と組んで色々やらかそうとした害のほうが大きいのだよ。

 これから日本の侍に見せかけて倭寇を襲撃させそれをお前さんやポルトガル人が撃退することで明の許しを得ようとしておったであろう。

 そんなに大陸に残した家族に会いたかったか」


「………」


「まあ、お前さんを殺すつもりはない。

 ただし、明の官憲に引き渡しはするがな。

 お前さんは調子に乗りすぎて敵を作りすぎた。

 結果追放されて焦ったお前さんはポルトガル人に付け込まれた。

 そういうことで、九州も制圧し終わった俺には

 もうお前さんに価値はないんだよ」


「くそっ」


 今まで持っていたものをほぼ全て失ってショックなのはわかるがね。


 平戸の宣教師共を許すつもりはないので宣教師共は豊後と同じ磔で処刑。


 籠手田安経と一部勘解由、木村某も磔刑で処刑した。


 宣教師共が神に対して何故見捨てたのかと叫んでたのに、対して籠手田安経と一部勘解由、木村某達はほほ笑みを浮かべて死んでいった。


 神に順じて死ねば天国へ行けると思ってるのだろうか?。


 一向宗なんかも同じだが現世が苦しいと死後に現実逃避してしまうのは恐ろしいとつくづく思う。


 後日本人で改宗したものに対しては豊後と同じ対処を行った。


「日ノ本人で一旦キリシタンになったがそれを捨てるというものは命を助けよう。

 捨てぬというものはあやつらと同様処刑せざるをえぬ」


 洗礼を受けたものはやはり顔を見合わせている。


「ああ、食い物や病気の心配はしなくて良い。

 病気を無料で治療する場所や捨て子をそだてる場所は今後も継続して用意するし、貧しくて食えぬものには高山国にある未開拓の土地の移住も認める」


 そういうとやはり彼らはロザリオなどを捨て始めた。


 あまり与えられることになれすぎられても困るが、キリスト教がやることと同じことをできるのだと示す必要はあるようだな。


 そしてやはり平戸ではやっていた病気を祟りや仏罰として受け止めていたものも多かったようだ。


 そして籠手田安経や一部勘解由といった重臣に従って改宗した日本人の中に時計やメガネ、望遠鏡やオルガンなどの作り方を教わった者がいた。


「ふむ、これらは高く売れるかもしれぬな」


 精密な歯車やネジ留め、ガラスの加工の技術は現在の日本にはないから結構重要だったりする。


 教会や修道院などは焼き払うとして時計や眼鏡は手元においておくことにした。


 平戸の対処についてはこんなところだ。


「ふむ残るは大村と有馬だな、島津に従うように使者を送れ」


「はっ」


 後藤と大村は仲が悪いとは言え、肥前の三分の二は島津に従っていることもあって大村と有馬は素直に従ってきた。


 幸いここは史実と違いキリスト教も入り込んでいなかったので素直に臣従を受け入れることもできる。


「大村純忠(おおむらすみただ)でございます。

 ご挨拶が遅れて申し訳ございませぬ」


「有馬義貞(ありまよしさだ)にございます。

 どうか遅参をお許しください」


 俺の前には二人がひれ伏していた。


「うむ、今回は許す。

 だが次回はないと思うがよい」


「はは」


「かしこまりてございます」


 その後肥後に属する天草諸島の長島氏・天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏ら国人衆も従えたことで下島、上島、長島などの制圧も終了した。


「やっと九州を統一できたか」


 やっとと言っても本来であれば俺の初陣は天文23年(1554年)の島津と蒲生・祁答院・入来院・菱刈などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで、薩摩統一は元亀元年(1570年)、大隅統一は天正元年(1573年)で、日向を含めた三州統一が達成されたのは天正4年(1576年)だったから20年近く前倒しできたわけでずいぶん早くはなったけどな。


 やはり戦いは銭と米と武装で勝っておればそうそう負けるものではないということなのであろう。


 高山国の首狩り族を味方にしたり栗毛人共のガレオン船の大筒などを奪えたのも大きいがな。


 これで本来であれば豊臣秀吉によって阻まれた九州統一もできたわけだが、王直や宣教師の手紙を用いての明との交渉をしつつ陶や毛利、尼子などがうごめいている中国地方にも足がかりを作らねばならぬし、九州の安定もさせなければならぬ。


「まだまだ先は長いか」


 だが九州を統一し西四国も押さえてあるのはかなりの強みになるだろう。

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