第64話 肥前の平戸を攻略したぜ

 さて、唐津周辺の波多が実質上島津の軍門に下り、壱岐と対馬、唐津港は当面の間、島津の直轄地として扱うことにした。


 同時に肥前北東部に勢力を持つ少弐・龍造寺・千葉も島津の下にはいることになった。


 これにより商人共の朝鮮との密貿易はかなり困難になったはずだ。


 密貿易そのものを行うのある程度仕方ないとしても、対馬を李氏朝鮮の領土とする条約は早めに撤廃するべきであるし、そうなった原因の一つは宗と手を組んだ博多や唐津の商人共に責任があると俺は思う。


 そして宗に関しては元寇の後に鎌倉幕府も室町幕府も対馬の復旧に何ら手を貸さなかったことに原因が有ったとしても、博多や唐津の商人に関しては自分の儲けだけを追求した結果だからな。


 無論、そういった問題がなくなり対馬を日本領と認めさせた上でお互いに問題がない範囲での公的貿易や私的貿易が再開されるならそれも良し、関係が断絶するならばそれもまた良しだ。


 朝鮮半島の港町に居住し朝鮮に帰化しない日本人を朝鮮では恒居倭とよんでいたわけだが、現在でも残っていた富山浦倭館の日本人もすべて退去させ高山国に向かわせている。


 対馬からは四千人ほどが、倭館からは千人ほどが高山国に向かい、一部は薩摩水軍の直属に加わった。


「まあ、農業や漁業、明との交易で食えるなら、

 わざわざ揉め事の多い半島に残る必要もないですからな」


 半島や対馬から移住を行わせている宗義調の言葉に俺は頷く。


「うむ、土地を巡っての争いは根が深いからな」


 李氏朝鮮側としてもかってに住み着いて漁業や農業を行ったり、密貿易を行ったり、倭寇化したりする対馬から渡ってくる倭人には徴税権や検断権もなかったため頭を痛めていたわけで、当然トラブルも多かったからそれらがいなくなったことを喜んだようだ。


 そもそも室町期の日朝貿易は外交使節往来の形式をとったがあくまでも李氏朝鮮は明の直参国家であって、日本より立場が上とされていたし室町幕府も明や李氏朝鮮に従うことで名より実を取ったから、日本から派遣される使者は三浦に入港した後で朝鮮側の役人による検察をうけたのちは、倭館に入宿し、使節の格に応じて朝鮮側の接待をうけ、王宮に向かう道中でも接待を受けつつ王宮で朝鮮国王の謁見をうけたがあくまでもそれは家来が主人に対して行うもの。


 だから宿泊費や輸送費を李氏朝鮮は持ったわけだが別にそんなことはしてもらわなくてもいいのだ。


 江戸時代に朝鮮通信使を日本は手厚くもてなしたけどそれと同じことだな。


 無駄な負担を増やす必要はない。


 最終的には李氏朝鮮は日本との交易関係について明に仲介を頼むかもしれないが、李氏朝鮮より日本が格下であり今後も朝貢すべしという条件は一切飲むつもりはない。


 もっともこの頃の李氏朝鮮は両班の腐敗がひどく、内部で分裂しているから国家としての対処は遅くなるだろうが、商人や胡椒や丁字と言った香料を必要とする上流階級連中には日本との交易の完全な途絶は生死に関わる可能性がある。


 対馬・壱岐・唐津・博多は今までどうりの密貿易や海賊行為を行おうとする半島側の海上勢力を叩き潰すために島津直轄の水軍を貼り付けて海防に務めさせた。


「密輸を企むものの船から積荷を奪っても構わぬ。

 人は捕らえるなり殺すなりせよ」


「はっ」


 博多や唐津の朝鮮との密貿易を行っていたものは家財没収などの処置をしているが、明の密貿易は別に禁止していない。


「それから王直の本拠地である烈港が明の官軍の攻撃を受けて、王直やポルトガル人が平戸に逃げ出してきたようです」


「そうか、ならば王直を捕らえキリスト教の危険を明に伝える機会であるな」


 王直は既に天文9年(1540年)には日本の五島に来住し、天文11年(1542年)に松浦隆信に招かれて平戸に移って屋敷を作らせたという。


 王直は五島や平戸から博多を通じて山口にも足を伸ばすことで石見銀山の銀を大量に手に入れていたようだ。


 そして今年の天文22年(1553年)兪大猷と湯克寛率いる明軍は王直が密貿易の拠点としていた烈港を攻撃し命からがらそこから逃げ出した王直は活動拠点を平戸に移した。


 そしてこの年から倭寇の活動が激しくなったことから倭寇の本拠地は日本で有るとされ、明が海禁政策を緩め東南アジア諸国や台湾に対しての港の開港を許可した後も日本との交易は公的には行われなかった。


 平戸では王直はその配下の者二千人とともに豪邸に住み徽王や老大王などと呼ばれながら暮らし、平戸はポルトガルやスペインの船のガレオン船や明船のジャンク船などで大いに賑わったのだが当然そうなれば平戸も豊前の府内などと同じように天然痘や梅毒が持ちこまれて小規模な流行がおこっていた。


「これは祟りだ」


「いや仏罰じゃ」


 豊前での寺社焼き討ちとその後の疫病流行の話は肥前にも聞き及んでいた。


 もちろん原因はポルトガル人と中国人なのであるが。


 しかしながら既に洗礼を受け、木村、籠手田、一部などの治める地域は揺れていた。


 平戸島の信徒は1000名近くなっていたのである。


「まずは平戸からキリスト教徒共の追放を迫ろうか」


 俺はまずは平戸松浦の松浦隆信(まつらたかのぶ)に対し肥前でのキリスト教の布教禁止を突きつけキリスト教徒を追放するように迫った。


 しかし、ポルトガルより鉄砲や黒色火薬を援助されていた松浦隆信はそれを渋った。


「まあ、金づるで武器も与えてくれる相手を簡単には捨てられんよな」


 俺は平戸松浦の松浦隆信と敵対関係にある松浦氏の嫡流であり佐世保を支配する相神浦松浦の現当主である松浦親(まつらちかし)及び五島列島の宇久純定(うくすみさだ)に文を送って平戸の松浦を討つために島津に助力すれば松浦隆信の領地を一部割譲することを盟約にして平戸へ兵を送り出した。


 彼等は早速俺のもとに馳せ参じた。


「どうぞ道の先導は我々相神浦松浦におまかせを」


 松浦親がそういうと宇久純定も言う。


「水軍の水先案内は我々におまかせください」


「うむ、二人ともよろしく頼みますぞ」


 道案内は大事だからな。


 このあたりは道が狭く大軍で移動するには向いていない。


 その途中で後藤貴明(ごとうたかあきら)・多久宗時(たくむねとき)・平井経治(ひらいつねはる)ら肥前中部の国人も島津に従わせている。


「よし、では東西より挟撃し北松浦半島及び平戸を制圧するぞ!」


「はっ」


  籠手田城を包囲して城門は抱え筒で破壊させ攻め落とし、平戸の勝尾獄城へと兵を進める。


 この城は別名白狐山城と呼ばれる城でもあるが特に防御にすぐれた城ではない。


 一方、港町の方の平戸から富裕な商人が陣を訪ねてきた。


「どうかどうか街に被害が出ぬように願います」


 そう言って彼らは銭を差し出してきた。


 兵士に対して略奪行為を禁止する書状である禁制札を発行してもらおうということなのであろうな。


「俺は街を焼いたりするつもりはないが、松浦がどうするかまではわからぬぞ」


「かしこまりてございます」


 平戸も博多や唐津、堺などのように商人たちが自らの高い経済力を背景に自治都市としての性格をもっているらしい。


 同時に籠手田安経(こてだやすつね)と一部勘解由(いちぶかげゆ)兄弟の治める生月島(いきつきしま)を薩摩水軍と宇久純定の軍で共同して落とす。


 数日後に勝尾獄城は落城して松浦隆信を捕らえることができた。


 そして平戸の教会や王直の屋敷を襲撃して宣教師や栗毛人商人、王直やその部下などを捕らえさせ、手紙や日記などを確保させた。


 その中でキリスト教の宣教師の本国への手紙に書かれていたことがこれだ。


 ”私は閣下に対し霊魂の改宗に関して、日本布教は神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言する事が出来ます。

 何故なら日本国民は非常に高貴且つ有能にして理性に良く従います。

 尤も日本は何らかの征服事業を企てる対象には不向きでもございます。

 何故なら私がこれまで見て来た中で、最も国土が不毛で且つ貧しい故に、私共が求めるべきものは何も無く、又国民は非常に勇敢で、絶えず軍事訓練を積み征服が可能な国土では無いからです。

 しかしながらシナにおいて、閣下が行いたいと望んでいる事の為、日本は時と共に非常に益することとなると思われます。

 それ故に日本の地を重視する必要があると思います。

 第1にシナ全体をキリスト教徒に改宗させる事は主への大きな奉仕であり、第2にそれにより陛下の名誉は世界に向けて高揚され、第3にシナとの自由な交易は国王に多大な利益がもたらされ、第4にその関税によって王室は莫大な収入が上げられ、第5にシナの膨大な財宝を手にする事が出来、第6にそれを用いて全ての敵を破り短期間で世界の王になる事が出来るでしょう。

 日本に駐在するイエズス会の神父達は、容易に二千から三千の日本のキリスト教信徒をシナの戦場に送り出す事が出来るでしょう”


 ”日本とシナを協力させてはいけません。

 日本人に見せかけてシナを襲わせるのです。

 そうすればシナと日本はお互いに争いあうでしょうさらには日本の海賊にマカオを襲わせて

 われわれがそれを撃退すればわれわれは明に感謝されるでしょう”


「なるほどな、そういうことか」


 史実での嘉靖大倭寇の中国沿岸襲撃にもいくつかおかしな点がある。


 まず、王直が平戸に逃げたあとに起こった一番最初の倭寇の襲撃と見られる事件だが、こいつらは月代(さかやき)を剃り、刀をさし中国人には全く意味不明の言葉をしゃべる異国人が大きな船に乗ってやってきたあと、箱に入った書面を官司に渡したが、そこには、


 ”私は日本人です。

 我が地より来たが舵を失ってしまいました。

 食料を貸して舵を修理してくださればただちに帰りましょう。

 幸い私に攻撃をかけるようなことは無かったですが、もし攻撃したら私とあなたの生死はどうなるかわかったものではありません”


 という意味を漢文で書かれたものだったらしい。


 倭寇側から自らを「日本人」と呼ぶ書類を意図的に渡す必要性があったのか?


 まるで都合よくテロの現場に身分証を落としてしていくテロリストみたいじゃないか。


 結局その船の乗組員は近づいてきた明の官軍兵士を攻撃して上陸し周囲の村からの食料の掠奪や人の殺傷を繰り返し最終的には海上へ脱出してしまったらしい。


 さらには彼等を指揮していたのは二大王とか八大王とか名乗っているんだが王直の戦闘集団の集団は一大王から八大王と名乗っており王直自身は老大王と呼ばれているとされたらしい。


 ここに白人の得意な分断作戦の影が見える気がするのだな。


 つまり日本と明を相争わせたうえで不法占拠したマカオの居住権を正式に得たいというポルトガルの影が。


「ふん、この手紙を漢文に意訳して王直とポルトガル人共を明の官司に引き渡すか」


 もともと中国に初めてポルトガル艦隊が到達したのは1517年でポルトガル国王の使者としてポルトガル出身の薬種商であり、同国のインド・東南アジアの商館員でもあり、ポルトガル初の中国使節の大使でもあったトメ・ピレスが乗り込んでいた。


 そして彼等は広州に入港し、明に対して国交を求めたのだが滅ぼされたマラッカ王国の使節がちょうど北京にやってきてポルトガルの無法を訴えたことで、ポルトガル艦隊が広東沿海に武力による示威行動を開始したがポルトガル艦隊は明軍に撃退され、ピレスは広州で投獄され、ポルトガルは明との交易を許されず、土地の不法占拠や密貿易を行っていくわけだ。


 そもそもヨーロッパ人には朝貢貿易という概念は無いしな。


 そこに明に対して日本の倭寇という敵を作ってそれから明を守るという姿勢を見せることでマカオという足がかりをポルトガルは手に入れ、そこから更に日本を宗教的に侵略して明に対する尖兵にしようとするわけであるのだがそうはさせるものか。


「とはいえ現在日本と明の国交は途切れちまってるし琉球に仲介を頼むか」


 日本が明に使節を派遣できるのは10年に一度とされているのだが、琉球は1年に一度送ることができるからな。


 それとともに俺は松浦水軍を勢力に入れたといっていい状況になったぜ。

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