第63話 俺の本拠地を大宰府・博多に移したぜ、そして壱岐・対馬に関連して李氏朝鮮に対しての対処を考えようか

 さて、二条晴良が連れてきた貧乏公家たちの中で羽林家に属するものは博多や大宰府の侍所に所属させての治安維持任務、名家に属するものは問注所に所属させての訴訟案件などの処理にあたってもらった上で、半家などの下級官司は太宰府での行政処理に回ってもらった。


 これにより俺は本拠地を鹿児島から大宰府に移動させることにした。


「ふむ、公家だからと案外馬鹿にはできぬものだ」


 この時代における日本人の識字率はさほど高いものではなく、読み書きができる人材というのは案外貴重であるが、京ではろくに仕事がなかった彼等は懸命に働いた。


 そして能力の高いと思われるものは順に出世していくことになる。


 また、大友家家臣を俺の直属家臣としての取り込みも行った。


「吉弘鑑理殿、戸次鑑連殿、臼杵鑑速殿。

 今後とも宜しくお願いしますぞ」


「は、我らの一命にかけて任務を全うさせていただきます」


 九州探題副官としては吉弘鑑理にその任務に当たってもらい、征西大将軍副官に任命した戸次鑑連とともに国人との交渉や細かい反乱の対処を起こってもらった。


 太宰大弐副官としては臼杵鑑速には朝廷や三好や尼子、毛利などとの外交の任務にあたってもらうことにした。


「ではあとのことは頼むぞ」


「うむ、よきにはからえ」


 そういって二条晴良と方仁親王殿下は京へ戻っていった。


「は、九州はおまかせください」


 護衛に臼杵鑑速と佐伯水軍を伴って、俺の朝廷用の寄進用の銭五千貫文や米やら何やらを一緒に持ってな、普通であれば官位をもらうための工作に寄進を先に行うわけなんだがな……。


 今回は博多の密輸を行っていた商人たちから矢銭として銭を徴収したものを、そのまま献金の資金としたが大宰府直轄で朝廷の資金や食料などを出させる場所を創出したほうが余計な手間がかからぬきもするな。


 ちなみの現在の俺は”従三位、征西大将軍・右近衛大将、大宰大弐・薩摩守・大隅守・肥後守・伊予権守・土佐権守・豊前守・豊後守・筑前守・筑後守・肥前守・壱岐守・対馬守だ。


 多すぎだろう。


 公家たちは一体、俺に何人分働かせるつもりだ。


 島津又四郎忠平は従五位下・修理亮及び日向守だな。


 島津又六郎歳久にも従五位下・兵部少輔が与えられている。


 さらには弟たちには征西将軍の称号を朝廷より正式にもらっている。


 弟たちも大友の重臣たちも俺の下という意味では同じだが弟たちには征西大将軍の下の将軍として南九州や西四国の軍事に合わせて統治の権限もあるのに対して、大友の重臣には俺の直属の奉行的な立場として専門的な任務を与えているのが違う。


 筑前の博多や大宰府は北九州の中心として、薩摩の坊津や鹿児島は南九州の中心としてそれぞれ政治や経済の中心となっているのであるがやはり経済の規模などでは北九州に軍配が上がるがその統治には大友の重臣や大内に支配下に有った国人の協力は欠かせない。


 俺は俺が差配するための本拠地を筑前の大宰府に移動し奥方も移動してくることになった。


「あなたお久しぶりでございます」


「うむ、お平よ。

 そなたが健やかな様子で安心したぞ」


「こちらは賑やかな様子でございますね」


「うむ、坊津や鹿児島以上に栄えておるな。

 そなたも健康的になってきているようで安心だ」


 お平と近衛の娘さんはどちらも元気な様子であった。


 大友義鎮の治世時に北九州が安定していなかったのは、彼が女好き酒好き好き宴会大好きな浪費家であるという個人的資質の問題もあるが、それ以前に大友家が室町幕府と同じ構造的欠陥を抱えていたからだ。


 すなわち大友宗家の直轄地が少ないため大友義鎮直属の兵力が少なく、配下のものが功績を上げても恩賞をろくに出せなかったり、大きな勢力を持ったら意図的に内紛につながるような措置をとったりしていたからだな。


 家督継承の際に二階崩れの変を経ていたということもそれに拍車をかけた。


 つまり彼は家臣を信用できなかったし、だからといってそれを力で押さえ込めるだけの軍事力も有していなかった、だからこそ彼の領地では度々反乱が起こったわけだ。


 しかしながら俺は薩摩の半分を、弟の又四郎忠平は日向の半分を、又六郎歳久は土佐の三分の一ほどを直轄支配しており、支配下の土地の大都市や港、さらには高山国も島津の直轄支配地であることを考えれば大友の家臣の持つ土地だけで島津に立ち向かえる家臣や国人はいない。


 それでも反乱をこす馬鹿はいるんだが、すぐさま鎮圧して場合によっては直轄領にしたり、反乱鎮圧の功績を上げたものに与えたりしているし、大友義鎮の最後があんまりにもあれだったのでその後の当主として迎えた大友兼定はよほどましに見えたのもあったのだろう。


 また100年以上の長き間において島津との戦いを続けていた伊東氏とは異なり、鎌倉時代からの御家人守護として大友と島津は比較的仲がよく、豊前や筑前を大内に奪われたあとの海上交易には伊東とも島津とも仲良くしておく必要があったが家格の下の伊東よりも島津を優先していた大友とは比較的早く融和できたようだ。


 筑前や豊前の状況が少し落ちいたところで壱岐と対馬の処理に取り掛かるとしよう。


 壱岐は文明4年(1472年)に上松浦の波多泰はたやすしが、今まで壱岐を分冶していた5つの松浦氏族である志佐氏しさし佐志氏さしし呼子氏よぶこし鴨打氏かもちし塩津留氏しおつるしを覩城の戦いで滅ぼして、新しく壱岐を支配し亀丘城を修築しそこに城代を置いて支配の拠点とし現在まで代々の支配者として君臨してきた。


 しかし、天文16年(1547年)に波多氏の当主であった波多盛はたさこうが死にその実子がいなかったことからお家騒動が発生しており、壱岐の城代である波多盛の弟、波多隆はたたかしを跡継ぎに据えようとする家臣と盛の娘と有馬義貞の間に生まれた次男の藤堂丸とうどうまる(後の波多親はたちかしを)養子に迎えて跡継ぎにしようとする奥方の間で深刻な対立が発生していたのだった。


 そして、波多盛の弟ので壱岐の在住していた、波多隆とその弟である、しげしまさしらが俺に仲裁を求めてきた。


「どうぞ我らに助力ください」


「うむ、わかった、波多は我らに従うと考えて良いな」


「はい」


 これに対して、奥方の真芳は少弐や龍造寺、千葉に支援を求めつつ、壱岐代官である牧山善右衛門、牧山舎人、下条将監、立石三河、下条掃部、松本左近らをそそのかして攻撃を加えさせたとの報告があった。


「ほう、島津の保護を求めてきたものの城を攻撃するとはな」


 俺は若林鎮興を呼んで壱岐の征伐を命じた。


「そのほうは水軍を率いて壱岐の反乱を沈めよ」


「かしこまりました」


「少弐や龍造、千葉への牽制と上松浦の乱の鎮圧は俺自ら出る」


「しかし……」


 波多が心配げにいう。


「心配するな、逆らわなければ鏖殺はせぬ。

 逆らうものは皆殺しにするがな」


「かしこまりました」


 俺は蒲池・筑紫・原田ら肥前に接している国人に守りを固めるように告げた後に上松浦へと兵をすすめた。


 日高資や鶴田直などこちらに従うものは兵に加え、抵抗するものは根切にしながら鬼子岳城を攻めると波多母子は有馬の領へと逃げ出した。


 龍造寺・少弐・千葉などは波多母子を見捨てて兵を動かさなかったがまあいいだろう。


 この機会に彼等の臣従を取り付けておいたしな。


「うむ、所領回復めでたい。

 波多隆殿らは我が島津に従うということで、先ずは鬼子岳城にはいられるがよろしかろう。

 壱岐及び唐津については私の直轄とさせて頂く」


「……かしこまりました」


 彼等に不満はあるかもしれないが唐津は博多の商人たちが逃げ出している先であるし、ここをおさえなければ密輸も収まるまい。


 逆に肥前の唐津と博多・壱岐を抑えるというのは朝鮮との交易の動脈を抑えるということでもあるのだ。


 もちろん平戸や五島列島からは対馬に直接行けるから完全ではないけどな。


「では戻るか」


 俺は上松浦の波多を支配下にして唐津などを手に入れた。


 これは龍造寺や少弐・千葉といった連中のおさえにもなる。


 そんなところで臼杵鑑速が京より戻ってきた。


「三好長慶殿より御屋形様の肥前・筑前・豊前・壱岐・対馬守護の任を預かってまいりました」


「うむ、よくぞ目的を果たしてくれたな。

 助かるぞ、働き詰めで申し訳ないが長門の杉重輔すぎしげすけ内藤隆春ないとうたかはる石見の吉見正頼よしみまさよりなどにこちらにつくよう調略を行ってほしい」


「かしこまりました」


 長門や石見には陶に従わないものは多い。


 流石に長門は陶がもともと守護代であったからそこには手をのばすのは難しいが。


 唐津と壱岐を制圧下においた俺は対馬へ手をのばすことにした。


 現在対馬を支配している宗氏そうしは島津と同じ惟宗氏の出身のはずだが、島津が源頼朝の落胤の子孫を名乗っているのに対してあちらは平家の落人もしくは安徳天皇の落胤の血筋を名乗っている。


 元寇の際には、対馬は真っ先に元や南宋・高麗の侵攻をうけたが鎌倉幕府は壱岐対馬を放棄して博多での決戦を選んだため、当時の当主宗助国が討ち死にするが、宗氏はその後も対馬国内に影響力を保った。


 本来対馬は少弐氏が守護であったが少弐氏が在島したことはなく、九州探題として今川了俊が九州に下向してくると、彼と敵対した少弐氏にかわり今川氏が対馬守護になったのち、宗氏が守護代から守護に昇格し以後は、宗氏が少弐氏に代って代々対馬守護職に就任したらしい。


 その後、応永25年(1418年)に数千名の倭寇が朝鮮の庇仁県を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生したために李氏朝鮮は応永26年(1419年)倭寇の根拠地と考えられる対馬を征伐することとし兵を出したが、その時の対馬守護である宗貞盛は山の中に伏兵を置くことで反撃し朝鮮軍は多くの戦死者を出し、対馬から撤退した。


 翌年の応永27年(1420年)年に李氏朝鮮は足利幕府へ回礼使を送り、これが最初の朝鮮通信使であると広義には言われているが、同時に宗貞盛は威嚇の書を突きつけられ、朝鮮側は「対馬はもともと慶尚道に属する朝鮮領土であり、宗氏は朝鮮に降るか日本に帰るかの、どちらかを選択せよ。対馬にとどまるならば再度兵を出して討つ」と対馬から宗氏の追いだしを図っていたがそれがうまくいかないことを知ると朝鮮は宗氏を取り込みに図った。


 応永28年(1421年)宗貞盛の使者である仇里安は李氏朝鮮より印信を受領し朝鮮王朝の外臣に任ぜられたことになるがこれは朝鮮からの圧力に対しなんの手助けもしない室町幕府を見限ったともいえる。


 その後、嘉吉三年(1443年)宗貞盛は李氏朝鮮との間に「嘉吉条約」を結び、対馬は朝鮮の東藩であることを表明することで対馬は朝鮮の属州となり、宗氏は足利将軍家の家臣である少弐氏の陪臣でありつつ、朝鮮王朝の外臣と双方の政府に両属したのだ。


 李氏朝鮮は宗氏に官位と朝鮮との通好証を与え、宗氏から朝鮮に対して緊急に報告しなければならないことがおきたときは報告することができる権利を与え、対馬海域での漁業権も与え、来航者の詐称を防止するため、銅印を授け、また室町幕府に対しては、象牙を用いて円形の勘合符を製し、左半を朝鮮にとどめ、右半を幕府に贈った。


 これは将軍、管領、大内のような大名などごく限られたものだけが有した。


 そのほかのものは、毎年渡航する航数を限定し、宗氏への歳賜米は200石までと決められた。


 嘉吉条約を結んだ後に版籍奉還によって宗氏が対馬の主権を放棄するまでの間、嘉吉三年~明治二年までは対馬は日本と李氏朝鮮のどちらの領土でも有ったわけだ。


 宗氏は日本・朝鮮の政府の双方から、都合のよい書付をもらっており日本にたいして李氏朝鮮からの歳賜米は朝貢品であると説明していた。


 こんなことをすれば21世紀現代であれば大問題になるところではあるのだがこの時代から江戸時代にかけては遠洋漁業も発達しておらず、山がちで米がほとんど作れず佐渡のような金山があるわけでもない対馬には海禁政策を取っていた李氏朝鮮にはそこまで価値はなく、室町・鎌倉の両幕府もあまり価値を見出していなかったのだろう。


「とは言えそのままにしておくことはできぬな」


 俺は大友が持っていた象牙の勘合符は持っているので朝鮮と交易を引き継ぐことは可能だが、この頃の日本と朝鮮の交易は通交使節によるもの、朝鮮国による公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つであるのだが、朝鮮にとって公貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていたため、交易の制限を図るようになったのだが朝鮮にとっては後進国で野蛮人が住むばかり日本の宗主国である以上、日本より遣わされた通交者の滞在費や交易品の輸送も朝鮮側が担っており日本との公的な朝貢貿易は望むものではなく、日本との関係を断交したいというのが本音であった。


 だが、交易で利益を上げている商人、日本では博多や唐津、朝鮮では富山浦(釜山)、塩浦(蔚山)、乃而浦(昌原郡能川面)の三浦などの商人は交易の継続を望んでいた。


 その後永正7年(1510年)に三浦のさんぽのらんが起きる。


 そのころ対馬では食えないため日本と交易を行っている港町には多くの日本人が居住し倭館の関限を超えて田地を購入しての耕作や朝鮮半島沿岸での漁業、密貿易など様々な活動を行った。


 そして永正3年(1506年)に朝鮮は三浦や日本の貿易船に対する統制を強化し、これに対して三浦居住の日本人は不満を抱いており、金・朱紅・銅の交易を朝鮮側が拒否し、朝鮮の役人が日本人を殺害するに及んで不満が爆発、三浦の日本人は暴動を起こしたがこの背後には宗氏十二代の当主である宗義盛がいたとされる。


 この暴動は朝鮮側によって鎮圧され、この事件により日朝の国交は断絶状態となった。


 しかしながら、交易で生計を立てている対馬の宗氏と、胡椒や銅などの輸入を対馬に全面的に依存していた朝鮮の双方は、完全な断交を維持できず、永正9年(1512年)に壬申約条が結ばれて宗と李氏朝鮮の間で和解が成立した。


 しかし、入港地や入港できる船の数を減らされたり、日本人の駐留の禁止など通交は以前よりかなり制限されたものになったため、この頃から日本国王の偽書を偽造したり偽使の派遣を行ったりするようになったのである。


 博多の密貿易商人とともに宗氏をほおっておくわけには行かない。


 俺は宗義調そうよししげを九州探題へと呼びつけ、彼は後ほどやってきた。


「さて、宗義調殿、俺がお前さんをここへ呼んだ理由はわかるか?」


 宗義調は平伏していたが顔を上げて俺をみながら言った。


「はっ、対馬守護に任じられたとのことご挨拶が遅れ誠に申し訳ありません」


「ああ、そういうことで対馬は俺が直接統治することになったんだ。

 お前さんは解任されたわけだから行くところがないというのであれば高山国に移住し開墾を好きなだけ行っていいぞ」


 宗義調は震えながら応える。


「し、しかしなれど対馬は代々我家にておさめてきた場所でございます」


「ああ、今までご苦労さんだった。

 だがもうそれは不要だと言っているのがわからないか?

 そして俺がなぜこうするか」


「わ、わかりませぬ」


「うむ、ならばはっきり言おうか。

 朝鮮は宗氏に従属していると聞くが実はその方らが朝鮮に従属しておりそれどころか日本国王も朝鮮へ従属していることになっておるな?」


 宗義調の身体が強張り顔が青ざめた。


「さらには我が家臣である伊集院の名義で朝鮮への貢物を捧げその見返りとして木綿を下賜されておると聞く」


「俺はお前に2つの選択肢を与えよう。

 日の本の臣民として癸亥約定の破棄を朝鮮へ明言した後に高山国に移動して生きながらえるか、

 朝鮮に義理立てして一族郎党根切にされるか」


「……我らが対馬を守らんとした時に国王は何の支援もなかったと聞きます。

 そして対馬は山ばかりなれば米は作れませぬ。

 故に朝鮮との交易によって生計を立てるしかなかったのであります」


「ふむ、で?。

 日本臣民として生きるか朝鮮臣民として死ぬかどちらを選ぶのだ?」


「島の民すべてをつれていってもよいとの仰せであれば高山国に参りましょう」


「うむ、その前に朝鮮へ条約の破棄と対馬在住のものすべての印信の返却をおこなうようにせよ」


「かしこまりました」


「ああ、一時朝鮮との関係は断絶するが2年とたたぬうちに向こうより交易を望む使者が来よう。

 その際には俺の奉行として働いてもらうかもしれん」


「は、勿論そのときはお役に立つべく働く所存でございます」


「うむ、二言はなしであるぞ。

 その時には日の本のために尽くすようにせよ」


「ははっ」


 明や李氏朝鮮は基本的に農業国で交易にも名分や形式に拘る。


 私的な貿易においてはもちろんそのようなことはないが。


 それはともかく李氏朝鮮に関しては条約を破棄した後、しばらく放置しよう。


 無論、対馬や壱岐、博多や唐津の防備体勢は整えておき、朝鮮の商人が密貿易や海賊行為に走ったら捕らえるなり殺すなりする。


 仮に李氏朝鮮が宗は朝鮮の被官であり対馬は朝鮮領であると言って来ても無視して、対馬防衛拠点として強化、そしてこちらから交易をお願いするのではなく朝鮮から交易を持ち掛ける様に仕向けいままでの条約のような朝鮮側が有利な条件はすべて撤廃させたうえで、対馬は日本の領土であり宗氏は日本の臣である事を李氏朝鮮に認めさせる。


 その後は日本は銅や胡椒や丁字と言った香辛料を輸出し、造船に必要な木材や日本では貴重な鉄を適正なレートで交換するべきだろう。


 そうしたら朝鮮では鉄の鉱山を探す山師が動き回るアイアンラッシュが起こるかもな。

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