第55話 さて薩摩に戻る途中で土佐に立ち寄ろう

 さて、近衛・九条・一条・西園寺から俺たち四兄弟の嫁を取ることで決まったのはいいが、肝心の副将軍の件はどうなったのかというと……しばらく時間がかかったが将軍からの呼び出しで結果はわかった。


「すまんな、御上に君の征夷副将軍の奏上はしたのだが、征西大将軍に征夷大将軍の副官たる征夷副将軍の称号を同時に与えることはその勤め上、許可できぬとのことであった」


 うん、まあ普通はそう考えるよな。


 九州に派遣される将軍に関東に派遣される将軍の副官もやれとか。


 とは言え征夷大将軍と右近衛大将とかの兼任とかはしてるわけだし藤原家の言い訳っぽいけど。


「いえ、今上陛下のご判断であれば仕方のないことかと」


 俺も将軍もお互いに利用価値があるからこそ利用し合う間柄でしかないが、それは公家たちも同じだ。


 島津はそれなりに伝統もあるし守護や国司としての権威もあるが、所詮はその程度で朝廷や足利家ほどの権威はない。


 だから俺はその権威を利用するし、その見返りに公家や将軍は俺に銭を出してもらうという形だな。


 将軍はもっと直接的に力になって欲しいんだろうけど現状では無理だ。


 名目上は頼朝の落胤である源氏を名乗っても周りには信用はされないだろうし、家系図的にはっきりしない島津より家系図を遡ればはっきり源氏の血筋だという家はまだゴロゴロしてるからな。


「その代わりと言っては何だが島津は守護であるゆえもともと白傘袋、毛氈鞍覆、塗輿、朱の采配の使用の免許がなされるがそれとは別に屋形号及び裏書御免を免許しよう」


「は、ありがとうございます」


 屋形号は基本的に室町幕府における斯波、細川、山名、一色、今川のような足利や新田の清和源氏一門や武田や富樫のような有力守護、もしくは土岐、六角や京極(佐々木道誉)、赤松や大内のように室町幕府の成立に大きく関わった一族のみが与えられる称号だな。


 その他には謀叛の鎮圧などで功績をあげて守護相当になった国人などに与えられることもある。


 御屋形様としてよばれる人物としては武田信玄が有名だが、武田氏はれっきとした源氏の出で鎌倉からの守護の家系だからこれは正当なもの。


 また今川や大内が輿に乗ってるのを馬にも乗れぬと馬鹿にする場合があるが、戦国期では輿に乗ることをきちんと許された人間は実は少ないのだ。


 とは言え戦国期には官位と同じで大名は勝手に御屋形様とよばせていたこともあったようだが、武家にとっては大変名誉な称号であるのは間違いない。


 将軍が家臣に与えるに当たって別に将軍側には金もかからないしな。


「それでは失礼致します」


「うむ」


 話が終わった俺は二条御所を退出した。


 とりあえず上洛してやるべきことはやったし急いで薩摩に帰るべきだろう。


 前回と違って尾張に関わる必要もないし。


 さて、前回の天文19年(1550年)に続いておこなった上洛だが、今回の結果もまずまず上手く行ったと思う。


 朝廷よりはまず予定どおり弟の島津又四郎忠平へ従五位下、修理亮及び日向守の位をもらえた。


 俺の方は正四位下・参議・近衛中将並びに薩摩守・大隅守・肥後守・伊予権守・土佐権守ならびに ”征西大将軍”の称号をうけた。


 これで九州北部や中国四国の平定にも大義名分ができたわけだ。


 戦国時代だからといって大義名分もなく勝手に他国を攻めることは基本的にはできない。


 とはいえ大義名分なしに他国に略奪を働く連中も多いけどな。


 また俺が近衛家と婚姻関係を結んでおくのは京や畿内における近衛・鷹司系の情報網を利用できることにも成る。


 弟の九条との婚姻も九条・一条・二条系との繋がりができるので悪くはないとは思うけどな。


 一条・西園寺については土佐の一条家や西園寺家とのつながりも含めた措置だ。


 もっとも近衛系と九条系で派閥ができる可能性もあるからいいことばかりでもないし、九州の荘園からの近衛家などへの米の供出をこれからはいっそうちゃんとやっていかないといけないけどな。


 そして今回は将軍である足利義輝からも色々もらった。


 前回三好長慶に九州探題及び薩摩大隅守護の役職と四国西部の制圧許可、瀬戸内から北九州の海賊討伐の権限をもらってあるがさらに将軍の”義”の文字を偏諱され義久と名乗ることになった。


 その他五七の桐花紋の使用許可に加え従来の薩摩・大隅に加えて日向・肥後・豊後・筑後・土佐・伊予の守護職を貰った。


 と言うか豊後と筑後はまだ大友領なんだが大内に敵対して大内上洛の障害になった大友を将軍様はことのほかお嫌いらしい。


 内談衆は断ったし征夷副将軍は朝廷が許可しなかったのであるが、将軍が京の都を追放されたらば薩摩に下向したいという件については大和の興福寺か紀伊の根来寺を経由で受け入れると言っておいた。


 実際坂本や朽木を頼るのと薩摩を頼るのがどちらが良いかはわからないけどな。


 薩摩は京には遠すぎるし。


 そして屋形号及び裏書御免(文書を包む封紙の裏に書くべき名字と官途名を省略して相手に書状を出す特権)を与えられたのだが、裏書御免は本来は三管領と将軍家の一族に準ずる者にだけ許された特権で、本来なら非常に名誉なことなのだが、逆を言えば権威の安売りをせざるを得ないほど将軍は追い詰められているとも言えるしこの時期には管領すら実権はないしな。


 そして京から薩摩に戻る日になり近衛前久と九条稙通が羽林家、名家、半家などの貧乏公家の若い男をそれぞれ50人ほど、さらに女性も10名ずつほど引き連れてにこにこ顔で立っていた。


 というか羽林家や名家といえばそれなりに格が高い家のはずなんだが……。


 そして公家の家というのはどこの家の生まれだと、どこの家に仕えるべきと言うのは生まれた瞬間から決まっている。


 なので本来であれば九条・一条・二条系の公家は薩摩に来ることはできないわけなのだが……。


 ここぞと声をかけまくって九条の権威を取り戻したいらしい。


 まあ、その下の公家も食い扶持を稼げるとなれば話に乗るものもいるだろうな。


「うむ、薩摩では読み書きのできる人手が沢山必要と聞いて集めておいた、上手く使ってほしい」


 そういう九条稙通が上から目線で感謝しろと言ってくるのはどうなのかと思うが、下級貴族は衣装も使い古した感じに見えるしきっと生活も大変なのだろう。


 しかし、俺の指示をちゃんと言うことは聞いてほしいものだ。


「心配するな、官位において君より上のものはおらぬゆえ君の言うことには皆従う」


 おやそういったことはちゃんと考えてあるのか。


 それなら助かるが、言われてみれば正四位参議って結構高い官位では有ったよな。


「お二人に聞きますが、問注所のみならず羽林家の方々は侍所に使ってもよろしいでしょうか?」


 羽林家と言うのは武官系の貴族だが室町から戦国にかけては羽林家の公家は真面目に将軍に仕えて鷹狩をしたり馬に乗ったり弓を射たり戦いに加わったりしているものも少なくなかったのだ。


 山科言継(やましなときつぐ)なんかも羽林家だな。


 二人は俺の言葉に頷く。


「うむ、全く構わん」


「もちろんだとも」


「では、名家の方々には問注所を、羽林家の方がたには侍所を。

 それぞれ担当していただき皆様を使わせていただきましょう。

 女性には家の女性の教養や舞踊の指導でもしてもらいましょうか」


 近衛前久と九条稙通はニコニコとして頷く。


「うむ、そうしてくれたまえ」


「良い嫁ぎ先があれば紹介してやってくれ」


 大内の周防、朝倉の越前、今川の遠江など公家が有力と見られた大名を頼った例は他にもある。


 戦国時代だと公家と武家の間の垣根は意外と低いのだな。


「では薩摩に帰りますが、その前に土佐に立ち寄りましょうか」


 一条兼定が聞いてくる。


「ふむ、補給かね?」


 俺は首を振る。


「いえ、国人たちを集めて臣従を迫ります」


「大丈夫なのかね?」


「朝廷と幕府に土佐の国司と守護に任命され屋形号も持ってる俺に国人では逆らえないはずです」


「そんなものか」


 俺達は船で川を下って堺へ向かいジャンク船へ乗り換えて、堺から雑賀に一度立ち寄って、新たに雑賀から水軍付きで千ほどの兵を雇い入れ土佐へ向かう。


 この頃の土佐は七雄とよばれた中の土佐吉良は滅亡、津野は一条に臣従し大平も同様、本山・安芸・長宗我部・香宗我部が残っていたが香宗我部は衰退しており、ほぼ一条(四万石ほど)・本山(三万石ほど)・長宗我部(一万五千石ほど)・安芸(一万石程)の四勢力での闘いになっていた。


 そして俺は一条房通、兼定と相談し土佐の国人衆を呼んで従わせることにした。


 具体的には有力国人である本山茂宗(もとやましげむね)・長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)・安芸国虎(あきくにとら)・香宗我部親秀(こうそかべちかひで)ら、それに加え一条に臣従した津野基高(つのもとたか)一条より小領を安堵されていたが大平国興(おおひらくにおき)も土佐に招集して俺が土佐守護並びに土佐権守に就任し、一条家を支援して土佐を運営する旨を告げることにした。


 国人達の前で一条房通がまずは言う。


「さて、皆さんよく集まってくれた。

 本日は私一条房通の子である一条兼定の正式な従三位土佐守就任と一条家に家令として仕えてくれる島津征西将軍のお披露目と成る。

 今後君たちは島津征西将軍に従って働いてほしい」


 集まった者の中にはなぜだと思ってるものもいるだろうが、朝廷と幕府の双方に与えられた権威を覆すことができるほどの戦力も権威も持っている者はいないし、守護や守護代としての家格も官位も持つものもいないしな。


「……かしこまりてございます」


 本山茂宗などはかなり不満そうだが権威と権力と武力と格式をすべて備えた島津に単独で逆らったところであちらに勝ち目はないのはわかっているのだろう。


 大友が島津に破れたという情報も入っているだろうしな。


「かしこまりてございます」


「かしこまりてございます」


 長宗我部国親・安芸国虎はまだ割りと受け入れられているらしい。


「何卒所領安堵のほどを」


 香宗我部親秀はそういう。


「ああ、わかっている。

 今後土佐の中での許可なき戦は禁止とする。

 破ったものは謀反を起こしたものと扱う」


 ムッとしたものもいればホッとしたものもいる。


 とりあえず土佐に関しては平和裏に表向きは土佐一条、実質は島津への国人たちの臣従は成功したのだ。


「では将軍に仕えるものとして君たちには正式に官位を奏上しようと思う、望む官位があれば伝えるように。

 無論相応と思われるものしか受けることはできぬがね」


 相応というと正六位の弾正忠や近衛将監とか従六位の衛門大尉や兵衛大尉あたりかね。


 それでも朝廷から正式な官位を得られるというのは国人にとっては魅力的なもののはずだ。


 本山茂宗なども朝廷からの正式な官位がもらえると聞いて表情が変わったからな。


「は、それでは後ほど文にて奏上させていただきます」


 本山茂宗は左近大夫、左近衛将監で官位が五位を僭称している。


 だが従五位下は土佐を統一した長宗我部元親がそのくらいであったから五位は無理かな。


 それでも正六位上なら多分大丈夫だろう。


 本来五位と六位の間では越えられない壁があるんだけど。


 朝廷からの正式な官位を得るというのは公家などの伝手と十分な銭があれば難しくないがそれがないとかなり難しい。


 実際この時代の人間の官位は自称であって正式なものでないものが多い。


 それを考えれば国人たちにはまたとない機会だし、俺は彼等に便宜を図って朝廷に銭を寄進すればいいのだから戦で打ち破って従えさせるのに比べれば安上がりなものだ。


 とは言え土佐の国人勢力が小さいからできたことであるが、この方法は伊予の宇都宮や河野にも使えるだろう。


 そして村上水軍は河野の家臣だから河野を支配下に入れて村上水軍も引き入れたいものだ。


 毛利に河野が臣従してしまう前にな。

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