第89話 番外編:このころの畿内や東国、朝鮮の動向
さて、山城・摂津・和泉・丹波・東播磨・淡路・阿波・讃岐をおさえ細川の権力をほぼ完全に奪い取り事実上の天下人になった三好長慶であったが、彼の人生の目的は親の敵討ちであった。
そして天文18年(1549年)に三好政長を討ちとって、天文22年(1553年)に管領の細川晴元と将軍足利義輝を近江に追放し、阿波の細川氏を滅亡させ丹波をおさえて細川晴元から実権をほぼ完全に失わせたことで彼の人生の目標は達成されてしまったのだった。
「我が復讐はなった、だがなんだろうかこの虚しさは」
それまでの人生最大の目標を達成してしまったことで、すでにこれ以上やるべきことを見つけられなかった三好長慶はこの頃から精神を病んで鬱病を患っていたという。
だからといって政治を放り出したりはしなかったのは彼が根っからの実務家だったからであろう。
むしろ将軍に政治権力をぶん投げてしまったほうが彼の精神には良かったのかもしれないが。
実際、史実において永禄元年(1558年)に帰京したあと三好長慶は山城からはなれたことにより、足利義輝は案外自由に振る舞っていたりする。
その将軍足利義輝は近江で逼塞していたが阿波の細川氏が滅亡し細川晴元が丹波を失ったことや三好長慶が将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したため大したことはできない状態だった。
「こんなはずではなかったのだが……。
どうしてこうなってしまったのだ」
一方、父が細川晴元と組むことで六角の最盛期をもたらした近江の六角義賢も天文22年(1553年)の三好との戦いの敗北で、細川晴元が実質的戦力を失ったことと近江や長島の一向一揆などにより、北伊勢や伊賀・甲賀などへの影響力を失っており、北近江の浅井氏も、三好相手に苦戦を続ける六角氏から独立する動きが顕著となりつつ有った。
美濃と尾張西部を有した一色は長島と津島という交通と商業の要衝をおさえられ、数頼みの他の一向一揆とは違い、伏兵を用いて一色の討伐軍を大いに苦しめていた長島一向一揆との戦いに苦しんでいた。
しかし史実と違い桑名からの海路を使って人員や兵糧・鉄砲武器弾薬の補充ができず一向一揆側の方も苦しんではいた。
だが、伊勢湾や長島周辺の制海権は一向一揆が握っており長島攻略には制海権を取る必要があったのであるが不幸なことにもともと美濃が本拠地である一色は水軍を持っていなかったこともあって戦況は泥沼化していた。
一方今川の支配地域の三河の一向一揆は元服した松平次郎三郎元信が朝比奈泰能の力を借りて一揆衆を力で打ち破り、その上で帰参するものは罪に問わぬと一向一揆に加わった土侍や土豪に呼びかけることで懐柔し、坊主と武士を離間させて最終的に一揆は鎮圧された。
その結果として今川の支配下である東尾張・三河・遠江・駿河・甲斐などでは本願寺派は禁制とされた。
「成り上がり者が一色の名を名乗るなどやはり公方や前管領にはもはや力はないようであるな」
今川は一色の力が弱まるならばこれ幸いとばかりに長島の一向一揆には手を出さず甲斐の武田旧臣の反乱を抑えようとしたが甲斐においては反今川の気風はまだまだ強かった。
後北条との対決を考えている今川には長島一向一揆に関われるほどの余裕が無いのも事実だが一色との仲は冷え込んでいったのもまた事実であった。
少なくとも今川が水軍を出せば一色の苦労も多少は減ったであろうから。
その頃越後の長尾は越中東部に兵を出し一向一揆を力で打ち破り、越中西部の
「うむようやくこれで美濃を通じて上洛ができるな」
飛騨を通じて同盟相手である一色の美濃を通過できれば南近江にたどり着ける。
そうすれば将軍を助けて山城を占拠している三好を打ち払うことができるはずであった。
関東では北条氏康が下総北部や下野南部などの小勢力を順調に配下にしたがえていっている。
「長尾が上野に入ってくればまた風向きは変わろうが、今は関八州を従えることを優先させるのみだな」
明では嘉靖29年(1550年)に
明は万里の長城を強化することになるがそれがまた国庫を破綻させる原因となるのである。
一方李氏朝鮮の国王は明宗であったが実質的には母親の文定王后やその弟の尹元衡らが実権を握っていた。
そして尹元衡の妻となった元は奴隷階級である妓生出身の鄭蘭貞が反対派を粛清しまくっており、この三人は粛清したものの資産を奪うことで巨万の富を築き上げていた。
「東夷ごときに敗れるとは恥を知れ。
敗戦の責任を取らせこやつは死刑にせよ!」
「そ、そんな!」
「連れてゆけ!」
尹元衡が対馬から逃げ帰った将軍を敗戦の責任により処刑し、さらなる対馬侵攻を行わせようとしていた。
「各県より倭寇対策にあたっていた水軍をあつめよ。
そして東夷共に思い知らせてやれ。
我が国が東夷ごときに負けてはならんのだ」
「かしこまりました」
しかし、ろくに倭寇に対応できない程度の水軍しか保持していない李氏朝鮮の実情はといえば、朝鮮軍は文官が統制しており武官の声が聞き届けられることもなく20万と称する軍の給料の大半は文官たちの懐に入れられており誠に脆弱であった。
そもそも李氏朝鮮の人口が500万人程度であったことを考えれば常時抱えられる兵数は5万がいいところであって20万の兵を抱えること自体無理なことだったのだ。
さらに尹元衡は現実が見えていなかった。
この頃の李氏朝鮮の民衆の苦しみは頂点に達していたのだ。
それでも自分のメンツを優先するとは愚かとしか言いようがない。
民衆の間では反乱をおこすものもで始めていた。
「林巨正、本当にやるのか?」
「ああ、このままじゃ俺達は殺されるだけだ」
京畿道生まれの白丁(江戸時代の日本で言う穢多・非人、屠殺業者や流浪の芸人など)である林巨正は同じような身分の白丁や手工業者、零細商人、農民など被差別民を率いて両班つまり朝鮮における貴族階級を襲い反乱を起こしたのだった。
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