弘治2年(1556年)

第87話 年が明けて尼子がようやく降伏した、しかし李氏朝鮮は何を言ってるのやら

 さて、出雲と伯耆における島津の交通路遮断によって兵糧攻めをうけていた尼子晴久たちだったが、尼子十旗あまごじっきと呼ばれる熊野城くまのじょうなどの支城の幾つかは月山富田城とともに持ちこたえていた。


 この間に俺は隠岐の守護代の隠岐為清も降伏させている。


 そして尼子内部をよく知る新宮党が島津側にいるのは大きかった。


 白鹿城の松田満久・誠保が早期に降伏したことで海上封鎖も早期に行えたし、とっくに月山富田城への補給線はほぼ寸断されていた。


 更に俺は月山富田城の城下などでの高値での米や野菜の買い占めも行っている。


 いくら堅牢な山城で有っても食料備蓄もなく援軍もない状態では籠城は無意味で冬になり食料が尽きたことで尼子氏累代の重臣の亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏などが降伏してきて、尼子の降伏の使者も送られてきた。


 しかし降伏後の所領安堵などで時間を浪費している間に年号が弘治に代わり、年が変わって翌年弘治2年(1556年)の春にようやく尼子氏は正式に降伏した。


 俺は尼子晴久並びに嫡子の義久ら尼子一族の生命を保証し、彼らが月山富田城から出てくると晴久は頭を丸めて隠居させ、義久は出雲から伯耆の淀江城よどえじょうに移動して伯耆のみ所領を安堵することにした。


 その際に本田家吉・河副久盛・立原久綱・山中鹿介・三刀屋蔵人・森脇東市正らは義久に付き従って伯耆へ移動することになった。


「彼らは忠臣の鑑というべきかね」


 そして開城した月山富田城には島津四天王の一人鎌田政年を配置することにする。


「このような大役を仰せつかり誠に光栄にございます」


「うむ、尼子なり大内なりの復権を目指してこの城を奪おうとするものも出るかもしれぬ。

 ゆえにこの城を任すという役目はとても重要であることを忘れるなよ」


「ははっ」


 ちなみに冬の間の和睦条件の交渉をしている間も月山富田城からは逃亡兵が続出していたため、開城時の城兵は僅か100余名だった。


 尼子晴久は暗君でも暴君でも無くむしろ良い政治をした方では有ったはずだが現実は無情だな。


 また、熊野城など未だに抵抗を続けていた尼子方の支城も月山富田城陥落後に皆降伏して開城した。


 これにより俺は尼子が領有していた出雲・伯耆・隠岐・美作・備中を手に入れ備前も半分ほど領有するに至っていた。


 そして、備前で島津に下った浦上政宗と対立していた浦上宗景であったが、名目上はその下にいた宇喜多直家は天文18年(1549年)に浦上宗景の命により備中勢と内通した疑いのあった砥石山城主で親類ではあるが祖父の居城を奪った浮田国定うきたくにさだを討って、生まれ育った城を奪い返すと、その戦功により奈良部城を与えられたのだが、もともと宇喜多は浦上と同格で赤松の被官であったらしく島津に直接投降してきたのだった。


「どうぞ私に我が祖父の敵である島村盛実らを討ち恨みを晴らす機会をいただきたくお願い申し上げます」


「ふむ、よろしい、その機会は与えよう。

 こちらより兵を与えるゆえ島村盛実を討つが良い。

 しかし我が配下の者を暗殺した場合は即刻処断する事を忘れぬようにな」


「……はは」


 宇喜多直家が去った後で俺は考える。


「さて、宇喜多直家はどうしたものかね……」


 敵を討つというのならばまあそれはよかろう。


 だが、暗殺ばかりされては困るのだよな。


 彼は軍事的な能力も低くはないのだが。


 いっぽう紀伊や大和・伊勢などは本願寺教団と根来寺や興福寺との講和がむすばれたので、島津への根来寺や興福寺の防衛指示はとかれることになった。


 南九州から送った2万の兵のうち半分の1万は九州に帰還し、伊勢に対しては伊賀・甲賀・雑賀・根来などの傭兵や大和や紀伊の国人で補うことになった。


 補給に関してはある程度楽になったとも言えるが伊勢での戦いはまだ当分の間は終わりそうにない。


 ちなみに甲賀を調略した際に甲賀の有力者二十一家の甲賀の伴氏ともしである多喜家たきけ滝川一益たきがわかずますやその一族、近江和田氏の和田惟政わだこれまさなどが義弘に従うことになったようだ。


 彼らは伊賀だけでなく近江・大和・伊勢・尾張・美濃などの地形にも詳しいから今後の伊勢攻略やその先の一色や今川とのやり取りなどに役に立ちそうだな。


 ちなみに長島の一揆は相変わらず元気に暴れているようだが三河の一揆は今川が鎮圧したようだ。


 正確には松平がではあるようだがな。 


 太原雪斎は弘治元年(1555年)の末頃に死んでいるようで雪斎を失った今川のダメージはでかいだろう。


 それから李氏朝鮮に対しては現状こちらからの攻撃はできない状態だったから朝鮮の再度の対馬侵攻に備え対馬の砲台や設置する大砲、見張り櫓を増やしたり防塁の強化をしながら、紀伊半島から兵が戻って来たこともあり、対馬の守備兵を増やして、対馬の軍船も増やして対馬防衛には万全をきした。


 そしてやはり年を超えたくらいで李氏朝鮮からの返答が有った。


 その内容だが……


 ”日本は我が国土である対馬を不法に占拠し我々の統治を邪魔し我々が治安維持のために送った水軍を攻撃してきた。

 これに対しての謝罪と賠償を要求する”


 だそうだ。


「やれやれ流石にこれはどうなんだ?」


 宗義調と波多隆は苦笑している。


「あちらにとってはそういう認識なのだと思われます」


 ふむ、宗義調がかっては李氏朝鮮の被官だったから舐められてるのだろうか?


 そしておそらく李氏朝鮮は清に攻撃された丙子胡乱のように完全に負けた後で、朝鮮王の正装から平民の着る粗末な衣服に着替え、 受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼、ようするに頭を字面に9回打ち付ける土下座での許しを乞うたうえに大清皇帝功徳碑だいしんこうていこうとくひを作らされその石碑に、


 ”愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。

  清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。

  良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。

  我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする”


 と彫らされないと駄目らしいな。


「そろそろ本格的に李氏朝鮮は叩くか」


 高麗時代から旧百済の地域であった全羅道や北部の民衆は差別されているようだから、この際根来寺や興福寺と河内や大和の本願寺教団の手打ち条件として河内顕証寺や吉野本善寺からは退去して以降河内及び大和での布教は一切禁止する代わりに、大内氏を旗頭としての百済再興のための随員として布教を全羅道で許可して広めさせたらどうだろうか。


 もちろん百済は日本の領土には含めないぞ。


 朝鮮は半島の中で足を引っ張り合っていればいい。


 全羅道の農民が一向一揆をおこして李氏朝鮮の領主層を追放して自治を行っても別に構わんしな。


 その上で幕末の黒船のように仁川に対して艦砲射撃をくわえて恫喝したほうがいいかね。


 その上で北部の平安道や咸鏡道は女真族との交易にも重要だし何より金や鉄・石炭など多く取れるからも特別交易地区として租借もしくは領土割譲を迫ってもいいかもしれん。


 しかし領土割譲は明がいい顔はしないか?。


 とは言え1619年のサルフの戦いで朝鮮軍も加わって戦い明が大敗してるのを知ってるはずなのに1627年に後金が李氏朝鮮に侵入して朝鮮軍を叩きのめして、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んでるのに、その後1636年に清が臣従を求めたときに李氏朝鮮の政府内で主戦論が大勢を占めたため、李氏朝鮮は清と戦ってるんだよな。


 彼等は現実を把握できないようにしか見えんよな。


 しかも結局速攻で降伏することになってるが、軍事力の差はわかってるはずなのに馬鹿なんだろうか?

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