第59話 丹生島城攻略戦
さて、冬の間に肥前の平戸や豊後の府内、丹生島城城下で流行った病が有った。
一つは唐瘡つまり梅毒、もう一つは痘瘡つまり天然痘であった。
赤い目立つ発疹が手足の裏から全身に広がりそれが顔面にも現れる梅毒と全身に膿疱を生ずる天然痘は恐怖の的となりいつしか噂がたった。
”住吉大明神様の祟じゃ”
”いや万寿寺を焼いたことに対する仏罰だ”
”英彦山神宮の神様がお怒りなのだ”
などと豊後ではあちこちでヒソヒソ噂されるようになり、それは国人衆の耳にもはいるところであった。
その噂の発生源は一番最初は俺が広めさせたのではあるが、奈多夫人や奈多鑑基、田原親賢といった奈多八幡系の者はその噂の拡散に一役買っている。
奈多夫人は大友義鎮が丹生島城に移った時に府内において行かれ、宣教師たちは奈多夫人のことを、「怒れる牝獅子」や預言者エリアを追放した異教徒の女性である「イザベル」と呼んでキリスト教の迫害者として彼女と対立しており奈多夫人が心労のあまり病に倒れたときに宣教師からはその病は天罰であると言われたことを悔しく思っていたのだ。
もっとも平戸、府内、丹生島城城下でこれらの病が発生したことと渡航してきているポルトガル人や中国人は当然無関係ではない。
ペスト、天然痘、麻疹、チフス、赤痢、コレラなどの風土病はインドが原発地であって、インドのゴアを拠点としている以上ポルトガル人がそれらを持ち込んできている可能性が高い。
もっともペストやチフス、コレラはもう少し時代が下るまでは日本には入ってこなかったし、天然痘と麻疹はすでに奈良時代に仏教渡来とともに日本へに入り込んできているが。
そして梅毒はコロンブスが西インド諸島から持ち帰ってきた性病ですでに琉球や明、朝鮮ではかなり蔓延しており日本でのはじめての梅毒の流行は1512に京で大流行している。
これは細川の遣明船により明から持ち帰られたものであろう。
「ポルトガル人や中国人は不衛生だからな。
梅毒や天然痘を持ち込んでるのはあいつらだろうさ」
もちろんこれによって大友の家臣たちは激しく動揺した。
大友義鎮は家臣へのキリスト教への改宗は強制しなかったが、そして親類縁者にはなるべく洗礼を受けさせるようにしていたからだ。
「このままあの方についていっても大丈夫なのか?」
「やはり塩市丸様が当主になるべきであったのではないか?」
二階崩れの変からまださほど時がたっていないこともあり斎藤鎮実(さいとうしげざね)や戸次鑑連、臼杵鑑速ら忠臣と呼ばれる者は兎も角、それ以外の国人衆は大友庶家の者であっても動揺が隠せずにあった。
そんなところへ大友義鑑の孫である一条兼定から大友兼定へ名を改めた彼を担ぎ上げて、我が弟たる島津日向守又四郎忠平が一万の兵と1万の小荷駄隊や人夫達を率いて日向から北上を開始した。
出陣の前に俺は弟へ言っておくことにした。
「豊後の国人たちはなるべく降伏させ新たな大友の主君のもとで働くようにさせてくれよ」
俺がそういうと弟は苦笑した。
「日向では殺しすぎて今困っておるからな。
なるべくはそうするさ」
俺は薩摩・大隅の水軍六千に加えて雑賀水軍二千を率いて日向灘を北上中。
大友の若林鎮興率いる大友水軍はせいぜい二千程度のはずだから普通にやりあえば負けることはない。
四国は一条となった弟の歳久が抑えておるからそちらから横槍を入れられる心配もあるまい。
さて、そうすると先ずは浪人となっていた入田義実(にゅうたよしざね)が島津に帰順した。
「どうぞ私に先導はおまかせください」
「うむ」
かれの父親である入田親誠(にゅうたちかざね)は二階崩れの変での塩市丸派の筆頭であったが戸次鑑連に討伐された過去を持つ。
そして彼とともに志賀親度(しがちかのり)・志賀鑑隆(しがあきたか)・一萬田鑑相・高橋鑑種らが島津に帰順した。
志賀親度の父親は志賀親守であり五ヶ瀬川の戦いにて戦死しているのだが……。
「寺を焼き僧を殺すようなものを我が主君と認めるわけには参りませぬ」
「そうか、では大友兼定殿に仕えてくれるか?」
「無論であります」
もともと仏教や八幡信仰の盛んな豊後で、キリスト教を広めるということに無理があり、宣教師どもがそそのかしたのだろうが寺院などの焼き討ちを行ったのがまずかったな。
それとともに豊後で田原親宏(たわらちかひろ)や田原親賢(たわらちかかた)、立花鑑載(たちばなあきとし)、田北紹鉄(たきたしょうてつ)、一萬田鑑相、高橋鑑種ら、豊前や筑前では筑紫惟門、秋月文種、宗像氏貞、原田隆種らが、肥前では蒲池鑑盛による助力を得て肥前にて挙兵した龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が大友義鎮に対して反旗を翻し、実質的に豊後・筑前・肥前・筑後・豊前にまたがっていた大友の支配地域では一斉に反乱が起こったのだ。
田原、志賀、一萬田などは大友の有力支族であるのだが、大友本家から危険視され冷遇され続けていた恨みがあった。
大友義鎮は単独での島津への対抗は不可能と陶の助力を頼んだが陶は未だ家中をまとめることができておらず、畿内の最大勢力である三好は島津との同盟を結んでいるため大友は頼ることができなかった。
戸次鑑連は一族を率いて豊前筑前方面の反乱を鎮圧しようとしたが、流石に多勢に無勢であり自領へ戻っての籠城を余儀なくされた。
蒲池鑑盛も龍造寺隆信を討とうとしたが、肥後の菊池が筑後へ侵攻するとの報をうけてそちらにも備えるべく撤退せざるを得なかった。
一方大友水軍を率いた若林鎮興二千の水軍も海上より田原氏の所領であった国東半島を封鎖しようとしたが、島津軍主力が豊後国へ侵入し、島津の水軍が日向灘を北上すると防衛のため臼杵近海へと移動を余儀なくされ、また吉弘鑑理や臼杵鑑速、斎藤鎮実、角隈石宗(つのくませきそう)、朽網鑑康(くたみあきやす)らが城にこもって島津の兵を迎え撃つ事になった。
豊後に侵攻した忠平はファルコネット砲を活用して豊後南部の城を次々に降伏へと追い込んみ、山野城にこもる朽網鑑康を攻めた。
朽網鑑康は果敢に立ち向かったが落城し自刃、その息子朽網鎮則(くたみしげのり)が降伏して開城した、穴囲砦と呼ばれる洞穴にこもった在地の百姓に対しては猛火油櫃つまり火炎放射器でこもるものを皆焼き殺し、鶴賀城の利光宗魚(としみつそうぎょ)は降伏し、府内へ進軍し府内を占拠した。
そして府内のキリスト教の関係する建物をすべて焼き払った。
もっとも宣教師たちは丹生島城へととっくに逃げ出していたのだが。
一方俺の率いる水軍は若林鎮興の大友水軍を鎧袖一触で撃破、若林鎮興は丹生島城へ逃げ帰り籠城の構えを取った。
丹生島城は臼杵川の河口、臼杵湾に浮かぶ東西約四百二十メートル、南北約百メートルの丹生島に築かれた、東南北の三方を海に囲まれ、西は干潮時にのみ陸とつながるという周囲を岩盤によって囲まれた堅固な独立島で、本丸は海面からの高さは15mほどもある難攻不落の天然の要害である。
東南側には港があり軍船がつけるようになっているが本丸の周辺には、8基もの櫓が配置されそちらからの侵入も容易ではなかった。
吉弘鑑理や臼杵鑑速、斎藤鎮実、角隈石宗、若林鎮興らはここにこもっての徹底抗戦を考えていたが肝心の大友義鎮は礼拝堂へこもって神への祈りを捧げるだけであった。
「よし、カルバリン砲、本丸にむけて一斉射撃!」
「砲撃用意!撃てい!」
”どおん””どおん”
砲撃の音とともに10隻の大型改造ジャンク船に搭載された20門ずつのカルバリン砲が火を吹いた。
カルバリン砲は弾丸重量18ポンドクラスの中口径前装式大砲で18ポンドはおおよそ8kg。
しかしながらその有効射程距離は1800メートル、最大射程距離6300メートルとながい。
そして打ち上げられた200個の鉄の玉が本丸の上空に到達した後に本丸のあちこちを突き破った。
「うわぁぁー!」
「ぐわぁ!」
そして何より砲声は五ヶ瀬川の戦いに参加していたものへの恐怖を誘った。
轟音とともに人馬が肉塊となるさまをみた者にとってはそれは恐怖の記憶であった。
「む、無理だ、あれには勝てねえ」
西の城下町である三の丸方面から攻め寄せてくる島津を撃退すればなんとかなると考えていた者たちもこれでは籠城する意味が無いと今更に気がついた。
「もはやこれまでか」
「否、そもそもは大殿を惑わした元凶がこの城に居る」
「伴天連共か」
「そうだ、そしてもはや神頼みしかせぬ大殿にも大友の棟梁たる資格はない」
「ならば伴天連共を捕らえて島津に差し出すべきか」
「そうだそして大友兼定殿に従おう」
「うむ」
こうして府内から来たものも含めて二の丸に集まっていた宣教師やその関係者などは籠城していた大友家臣により捕らえられたり抵抗して殺されることとなった。
そして丹生島城にこもっていた大友の家臣は捕らえた大友義鎮や宣教師やその従者など島津に差し出し、家臣たちは降伏しその報を聞いた戸次一族や蒲池鑑盛も島津に降伏することとなったのであった。
そいて俺達はゆうゆうと丹生島城へと入場したのだった。
「ふむ、伴天連共の日記や手紙、記録などが残っておれば彼等が日ノ本でやろうとしたことも明白になるであろうな」
寺社の破壊をそそのかしたのもおそらくは宣教師共であろう。
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