永禄9年(1566年)

第160話 義弘のセイロン島攻撃準備

 鷹司義久が日ノ本をまとめ上げた後は南方征伐へ自ら赴いていった。


 そのあいだ畠山義弘は九州にて朝鮮や琉球等の動向を見守り、もし朝鮮から兵を出してきたらそれを迎え撃つ役割を与えられていたが、結局何も起こらなかった。


 かっての日ノ本のごとく朝鮮は内部でいくつかに分かれて未だに相争っており、日ノ本にせめてくるどころではないようだ。


「戦続きよりは平和な方が良いのであろうが、つまらんことではあるな」


 そして義弘は義久が日ノ本に戻り政治をおこなうために代わって南海で戦えるようにするべく、外洋船で戦うために準備せよとの連絡があった。


 そして彼は外洋船へ乗って戦いの指揮を執ることができるようになるために、その訓練を始めたのだが……。


「ぐむ、気持ちが悪い……」


 最初はなかなかなれずに船に酔ってしまって戦うどころではなかった。


 だが、それもだんだんと慣れてくるのであるから不思議なものだ。


「兄上は平気な顔をしておったが外洋船に乗って戦うというのはなかなか大変なものだ」


 戦国時代の日ノ本では大多数は帆のある船ではなく櫓をこいで船を進めるのが普通である。


 だから船を進める時には漕手に指示を出せばよかった。


 だが、帆を使った船だと帆の上げ下ろしや方向を変えたりしな蹴らばならず勝手が違ったりもしたが、なんとかそういったことにもなれてきた頃に義久が日ノ本へ帰ってきた。


 そして義弘が大坂に向うと高山国から忠将も呼ばれていた。


 そして義弘は義久から南海の征伐任務を引き継ぐように指示された。


「義弘には今まで俺が行っておった南海方面での南蛮との戦いを引き継いでもらう。

 九州の統治は忠将叔父上にお願いしたい」


 義弘は義久の言葉にうなずく。


「うむ、任せておけ、南蛮共は皆殺しにしてくれる」


 しかし、その言葉に義久は苦笑していた。


「いや、実際に皆殺しは無理だ。

 それに日向の伊藤の地侍を殺しすぎてその後苦労したであろう。

 だからこそ、お前さんにやってほしいのは印度の南端の島であるセイロンを制圧し、そこを自由商業地域にする代わりに伴天連がそれ以上東に入ってこないように見張ることだ。

 出来れば伴天連の拠点になっている印度のゴアからは奴らを追い出したいところではあるがな」


「ふむ、セイロン島とやらを制圧して伴天連が来ないようにすればよいのか。

 つまらんのう、だがやるべきことはわかったぞ」


「うむ、よろしく頼むぞ」


 義弘が行っていた九州の統治は叔父忠将が引き継ぐことになった。


 その後、いろいろな準備を行いながら冬になり北風が吹き始めたら義久が乗っていた船を使って義弘は南方へ船を進めた。


「うむ、帆船とは便利なものであるな」


 帆船も帆や舵を操ったりするためにやはり人では必要ではあるが、安宅船のような大型の船を漕手を使って動かすよりはずっと少ない人数で済む。


「なるほどこれであれば紅毛人共が遠くから来られるのも納得ではあるな」


 義弘は琉球沿いを南下し、高山国・ルソン・マラッカなどを経由して、そういった場所で食料や水を十分に補給し、セイロン島へ向かった。


 この前後のセイロン島の状況はといえば、15世紀にはライガマ王国と言う国が大きな勢力を持っていたが、東からやって来た明の鄭和の大船団と戦い、その結果ライガマ王国は敗れ当時の王であったアラカイスワラ王が明に連れ去られて、形式上では明の朝貢国となった。


 そのために残ったものは王国の首都を西海岸のコーッテに移し、国名がコーッテ王国となりその頃北方で勢力を持っていたジャフナ王国を屈服させて統一をした。


 しかし、セイロンの統一王となったパラクラマバーフ6世が死ぬとジャフナ王国は再び独立を回復し、キャンディ王国も島の中央にある都市キャンデイに成立した後に東部に独立した勢力を確立していった。


 そして1505年にはコロンボの地にポルトガルが上陸しコロンボに商館を建設し植民地化を開始した

 が、当初ポルトガルは安全な交易を求めていただけだった。


 1521年コーッテ王国のダルマ・パラークラマ王が死去しウィジャヤバーフ七世が後を継ぐ。


 そしてウィジャヤバーフ七世は最初の妻との間に三人の子をもうけた。


 ブワネカバーフ、ライガム・バンダーラ、マヤ・ドゥンナイがその三人だった。


 しかし、ウィジャヤバーフ七世はその3人ではなく後妻の子に王位継承をしようとしたため、先妻の子らは父王にするどく反目した。


 1536年にウィジャヤバーフ七世は3人の王子らの殺害を決めたが、その計画を知った先妻の王子は父の下を去って殺害を逃れ、逆に軍を集めて父の居城コッーテを攻撃し、父王は殺された。


 その後コーッテ王国は長男のブワネカバーフ王子が即位し王となった。


 しかし兄弟の間での争いによりコーッテ王国は3つに分裂し、コーッテ王国の南部でライガム・バンダーラが独立宣言、中央部ではマヤ・ドゥンナイのシーターワカ王国が成立し、コーッテ王国とシーターワカ王国は激しく対立した。

 ブワネカバーフ王はポルトガルに軍事援助を求め、クリスチャン名ドン・ジュアンと改名した。


 マヤ・ドゥンナイは兄ライガム・バンダーラと共にコーッテ王国に攻め込んだが、ポルトガル軍の支援を受けたブワネカバーフ王は二人の弟の軍を撃破した。


 しかし、その後ブワネカバーフ王はポルトガル人によって射殺された。


 1542年、ブワネカバーフ王を継いで息子のダルマパーラがポルトガル王から戴冠を受け、彼とその臣下が洗礼を受けドン・ジュアンとなる。


 そして、コーッテ王国の支配地域である西海岸に暮らす多くの者が同様に洗礼を受けカトリックの信者となった。

 ポルトガルはキリスト教への改宗を進めるため、改修した者に食料を与え、官職へ登用し、ヒンズー教徒や仏教徒は迫害され、北方のジャフナ王国でも多くの民がキリスト教へ改宗してしまった。


 1563年、マヤ・ドゥンナイはコーッテ王国を攻め、コロンボ要塞が一時陥落しポルトガルは植民としゴールへ一時撤退 、さらに1565年には首都コーッテを攻撃するとドン・ジュアンはコーッテを放棄、ポルトガルが奪還した守るコロンボへと逃れ 、シーターワカ王国が西部をほぼ制圧した。


「まずはバテレン共のいるコロンボとやらを攻撃すべきかの」


 義弘がそういうと同乗していた一向宗の下間頼廉、下間頼旦ら一向宗の坊官はそれに強くうなずく。


「うむ、それがよろしいでしょう」


 セイロン島の寄港地を得るべく義弘は東側のキャンディ王国に彼らを使節として送り、占領地はキャンディ王国に譲渡し、セイロン島の統一王朝とさせるかわり、日本を宗主国とする藩王国として自主的外交権を一部制限しつつと、一向宗布教を許可させた。


「まあ、嫌だと言うなら我らが敵となるだけであるが」


 ポルトガルとキャンディ王国は同盟していたこともあったが、すでにそれは過去のものとなっており、ポルトガル人の横暴に辟易していたキャンディ王国はこれを受諾したのだった。


「よし、これで後は敵をうつだけじゃな」


 コロンボはポルトガル人の住む要塞地域と商業地域から構成されていた。


「マラッカと同じような状況と兄上は言っておったか。

 ならば干し殺しと行くかのう」


 おそらく力攻めでも落とせぬことはないが、防御が固い場合は拠点を孤立させ兵糧攻めにするのが一番であると義弘は日本の統一過程で理解していた。

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