第16話 ポルトガルに侵略されたマラッカは悲惨の一言だ、西洋人しか持っていないものを買い付けるチャンスを活かそうか
さてルソンで水と食料を得て出立した俺たちはマラッカを目指している。
「とうとう白人どもの侵略拠点を拝めるわけですな」
叔父上は頷く。
「うむ、日の本にいてはわからぬであろうが、奴らは弱いものを殺すのを快楽としておる。
あんな連中を日の本に入れるべきではないと私も思うぞ」
全くだ、アメリカのインディオ、オーストラリアのアボリジニなどやアメリカのリョコウバトやバイソンなど白人のせいで殺されまくったものは少なくない。
日本の狼などが絶滅したのもおんなじような理由からだな。
さて、マラッカはマレー半島とスマトラ島の間を通る、マラッカ海峡を抑えるために重要な場所にあり1400年頃にマラッカ王国成立が成立したのち、マラッカ王国はマレー半島南部とスマトラ島の東部を支配した、そして都市としてのマラッカはマレー半島の南西部の港湾都市としてインド洋と南シナ海を結ぶ海上交易の要衝であったし、マラッカ王国はその成立とほぼ時を同じくしてイスラム教に改宗し、国王はスルタンとして国家を統治した。
そしてマラッカ国王は明に対しての朝貢を行い、永楽帝による鄭和のインド洋への派遣においてその艦隊はマラッカに寄港し、マラッカ王国は鄭和の来航を機会に交易商人の寄港地としても急成長しインド洋と南シナ海の中継貿易を行う東南アジア最大の貿易拠点として繁栄していた。
インドからは綿糸や綿織物や象牙が、中国からは陶磁器や生糸や絹織物などが持ち込まれ、東南アジアからは香辛料・香料・金・錫・銅・硫黄・真珠・鼈甲・珊瑚・宝石などが集まってきてインドや中国に輸出された。
そんな有益な場所だからこそ1511年にポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカ王国を追い出して占領し、インド洋と太平洋方面の間をおさえたわけだ。
彼は紅海の入り口に存在するソコトラ島やペルシア湾のオルムズ島、インドのゴア島なども占領しているが、基本的にポルトガルは海上の要衝を点としておさえ、それを航路という線でつなぐことで、利益を上げていたのだな。
実際インドのゴアはポルトガルやキリスト教のインドの拠点となってポルトガルのインド総督の駐在地となったし。
そしてマラッカは東南アジアにおけるポルトガル海上交易の重要拠点として要塞やキリスト教会が建設され西洋的な町並みができていたりするわけで、マラッカからポルトガルの火縄銃が日本に伝来したり、ザビエルなど日本へ来た宣教師たちも、ここを拠点にしていたりするからポルトガルの東アジア侵略の最前線基地というわけでもある。
そしてポルトガルは占領したマラッカから南シナ海に進出して後にマカオを奪い取り、中国や日本にも進出していった。
そしてマラッカ海峡がポルトガルに抑えられるとイスラム商人は、その南のスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通るようになったわけだ。
さて、俺がここでなんとしてでも手に入れたい物は先ずは薩摩芋だ。
まあ現状では甘藷のほうが正しいかもしれないがな。
そして薩摩芋は現状では明や琉球にはまだはいっていない。
明に薩摩芋が入るのは1570年に陳振竜という中国人交易商人がフィリピンのルソン島で栽培されていた薩摩芋のつるを船の舳綱に巻いて、ひそかに中国大陸へ持ち出したんだが、現状フィリピンでは薩摩芋は栽培されていないはずだし、栽培されていてもやはり国外持ち出し禁止だろう。
ただしこれはフィリピンのスペイン経由の薩摩芋の場合はだな。
ポルトガルが植民地にしているマダガスカルやゴア、マラッカなどでは割とおおっぴらに薩摩芋は市場で売られているようで、マダガスカルなんかでは薩摩芋は後々まで主食として食べられるくらいに普及したんだな。
だから、マラッカから薩摩芋をなんとかして手に入れていきたいのさ。
可能なら乳量が多く妊娠中以外の子供の授乳期以外でも乳が出るように品種改良された乳山羊や乳牛も欲しい。
中国の山羊や牛はそういう方面ではあまり改良されていないのだ、基本的に中国の特に南方の広州などでは牛乳などを飲む習慣そのものが少ないから、それに合わせた品種改良というのも行われていないのだな。
さて、薩摩芋入手計画がうまくいくといいんだがなと考えていたら、ようやくマラッカに到着したようだ、どでかい十字架が掲げられた教会らしいでっかい建物が見えるな。
「あれがキリスト教の教会ですか」
叔父上が頷く。
「ああ、そうだ」
遠目でもはっきり見えるが、この地域には明らかに浮いた建築物が並んでいるな、最初に見えたでかい教会とか、大砲の設置された要塞とか。
平戸や長崎といったキリスト教の拠点となった都市などもこんな感じであったあろうか。
そして広場にはおそらくポルトガルに歯向かったとされるだろうイスラムっぽい服装をしたマレー系の住民が首に縄を引っ掛けられてでかい木の枝に沢山吊るされている。
ポルトガル人やスペイン人が大好きな見せしめ処刑だな。
彼らは単純に自分より弱い立場のものを殺すことに愉悦を感じているのだろう。
自分より強い場合は言葉巧みに取り入って反乱をそそのかし、反乱を起こせばそこへ鉄砲などの武器を供給して傀儡とし、傀儡にできなければ法律をでっち上げて殺す。
そして彼らは現地民への約束を反故にするのは当然と考えている。
「ち、まったくもって胸糞悪いですな」
叔父上も同じ考えのようだ。
「まったくだな」
白人以外は神の失敗作であるのでいくら殺してもよいなどと考えてる白人どものほうがよほど失敗作だろうよ、可能なら今この場で白人どもを皆殺しにしてやりたいが、できるほどの戦力はない。
そして現地人の首に縄を付けて奴隷として引き連れている姿も目につく。
まあ、”人売”これに関しては島津もこいつらのことを悪くはいえんがな。
「まあそれはともかく、生糸を売って南蛮人だけが売っている珍しいものを買うとしましょうか」
「ああ、そうしよう」
ちなみに叔父上もポルトガルやスペインの言葉はわからんがマレーの言葉はわかるので通訳を交えて取引をしている。
俺はポルトガル語もマレー語も広東語も台湾やフィリピンで使われてるタガログ語のようなオーストロネシア語も全部わからんから、そのあたりを学んだほうがいいのかもしれぬ。
ぶっちゃけて言えば学校の英語の授業とかは嫌いだったが、こうして外国の人間と交易をするのに言葉が通じないのはつまらんしな。
さて、戦国時代から江戸時代に日本にはいってきた野菜や果物、芋や豆などは意外と多い。
ほうれん草・カボチャ・壬生菜・京菜・鉈豆・いんげん豆・緑豆・えんどう豆・空豆・金時人参・パセリ・薩摩芋・ジャガ芋・唐辛子・西瓜・ゴーヤ・
ちなみに和食の鍋とかに使う白菜や玉ねぎは明治時代にようやくはいってきた。
オクラや食用のホウズキ・食用キャベツ・ピーマン・レタスなんかもそうなんで戦国時代初期の日本の野菜は蕪、大根、ニラ、ネギ、ゴボウ、ナス、きゅうりくらいで結構少ないのだ。
だから色々買い付けて薩摩で育てられるものは薩摩に持ち帰り薩摩では栽培が難しいものは台湾へ持ち込んで栽培を試してみる。
ただ寒冷な気候でないと育たないようなものは薩摩での栽培は難しくはあるがトウモロコシ辺りは台湾の水田には向かないが、そこそこ畑には向く場所で育てるのがいいのではないかと思う。
叔父上は生糸や絹織物を売り払って象牙や水牛の角・鼈甲といった細工物の原材料や瑠璃・玻璃・瑪瑙・真珠・珊瑚などの宝石、胡椒・丁字・唐辛子などの香辛料、砂糖などの調味料とともに西洋野菜やジャガ芋薩摩芋、豆などの種、種芋、乳山羊などを買い付けている。
「ほほう、なかなか良いものが買えましたなぁ」
叔父上はニヤッと笑って頷く。
「安く仕入れて高く売るが商いの基本だからな」
まさしくそのとおりだな。
そして薩摩芋や乳山羊などが手に入ったのはものすごくありがたい。
これで薩摩のシラス台地も有用に活用できるだろう。
豚や鶏などは帰りに広州によって買えばいいだろうからここでは買わない。
乳牛も欲しいが現状では後回しでいいだろう。
そして砂糖や胡椒などはここであればかなり安いがルソンなどでは結構高かった。
船を進めてわざわざ来たかいがあるというものだ。
薩摩や台湾に持ち帰って薩摩芋の栽培が成功し普及すればポルトガルやスペインなどにもう用はないというものだ。
「次はアユタヤですかな」
「そうだな」
戦国時代の日本が黒色火薬の輸入先としていた東南アジアは、高床式住居の床下で飼育されていた鶏や豚の鶏糞、豚糞などを床下に積んで発酵、熟成させ、ここから硝石を抽出してきたり、洞穴に大群をなして生息するコウモリの糞からも硝石は抽出が行われてきた。
硝石は別に火薬の原料としてだけ使われていたわけではなく肉の長期保存を行えるようにするための保存料として使われてきたからな。
倭寇が所持し利用している銃の硝石などもここから手に入れていたりするし、鉛なども安く買えるはずだからな。
流石にマラッカでは堂々と硝石は売ってくれないので、それに関しては手に入れやすい場所に行くってわけさ。
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