第40話 番外編・その頃の九州南部と木崎原の戦い( きざきばるのたたかい)

 天文19年(1550年)に行われた、薩摩の新たな島津家当主である又三郎忠良の京への上洛は成功した。


 そして朝廷や幕府に対する外交成果は当人の帰還よりも先に薩摩へ戻された町資将により、祖父であり現状の政務を代行している島津日新斎に伝えられた。


「なるほど朝廷よりは従四位下相当の修理大夫兼薩摩守兼大隅守の官位に、今上陛下から直々の肥後及び日向の追討の綸旨をいただいたと」


 島津日新斎の言葉に町資将はうなずく。


「うむ、琉球及び明への交易の許可も頂いたし、御剣と天盃と宸筆(天子の直筆)の書も下賜して頂いたのであるぞ」


「それから幕府の実質的権力を握った三好長慶殿から九州探題及び薩摩大隅守護の役職と四国西部の制圧許可、瀬戸内から北九州の海賊討伐の権限を頂いたと」


 島津日新斎の言葉に町資将は再びうなずく。


「うむ、その通りである」


 島津日新斎は少し考えてから言う。


「うむ、町資将殿、我が孫を補佐していただきありがたく思いますぞ。

 あとはゆっくり休まれるがよろしいでしょう」


 町資将は満足げに頷いた。


「うむ、そうさせていただこうか」


 町資将が島津日新斎のもとを退出した後、島津日新斎は孫である島津又四郎忠平と又六郎歳久を呼んだ。


「お呼びでございますか、お祖父様」


「なにかございましたのでしょうか?」


「うむ、又三郎は正式に薩摩・大隅守並びに薩摩・大隅守護となった」


 二人の孫はそれを聞いて破顔した。


「おお、それは良いことですな」


「うむ、兄上を祝ってやらねば」


 しかし日新斎は厳しい表情となる


「うむ、たしかにそれ自体はめでたいことではあるが飫肥おびを巡って我々とずっと争ってる伊東義祐いとうよしすけが黙っておらんであろう。


 肥後の相良晴広さがらはるひろとの関係は今のところ悪くないが。この時勢ではいきなりの裏切りもありえぬわけではない。


 大隅の肝付兼続きもつきかねつぐも同様。


 こちらが大隅守の大隅守護を名乗ってもあちらは認めぬかもしれぬ。


 それに肝付は豊州家の島津忠親しまづ ただちかへ戦を仕掛けておるしな」


「では、我々に戦の準備をせよと」


「そうだ、又四郎は兵1000を持って真幸院まさきいんへゆき伊東への備えを。

 又六郎は兵1000を持って出水へゆき相良への備えをするのだ。

 大隅へは加治木の肝付兼盛に任せておけばよかろう」


 二人はすぐさま答えた


「かしこまりました、真幸院についてはおまかせください」


「出水の守りは任せてください」


「うむ、頼んだぞ」


 こうして日向の国境には島津又四郎忠平が、肥後の国境には又六郎歳久が、大隅への備えには島津四天王の一人である肝付兼盛が当てられた。


 しかし島津宗家の兵は総勢3000、これには国人である肝付兼盛は含まれていないが彼のもとにいる兵も同じようなものだ。


 そして本拠である清水城へ1000を残し残りは1000ずつわけられたためそれぞれは大軍とはいえない状況であった。


 それに対して肝付兼続は兵2000、伊東義祐は兵3000をもって軍事同盟を締結しまずは日向南部の飫肥城の島津忠親を共同して攻撃し、島津忠親の兵は1000では到底抗いきれず、彼は城から出て本拠地である都之城へと後退した。


 そして飫肥南部の地を手に入れた伊東義祐は、日向国西南部の肥沃な土地である真幸院の奪取に全力を注ぎ込む。


 それを迎え撃つべく島津又四郎忠平は真幸院の中心にある加久藤城と飯野城を制圧し、これに対して伊東義祐は三之山の三之山城を手に入れ、加久藤城と飯野城攻略を目指した。


 しかし島津又四郎忠平は伊東家の城の女中として送り込んである女間諜より、伊東の動きを連絡されており、更には修験者を伊東領内に遣わして、領民から合戦に関する噂などを収集させていた。


 このころ伊東義祐は事前に人吉の相良晴広のもとに密使を送り共に攻め込もうと打診をしたが、肥後はこれより前に肥後守護の菊池家の菊池義武が二階崩れの変に乗じて菊池家再興の旗印を挙げて隈本城に入り、相良晴広がこれを支援したが、それに対して大友義鎮は家臣の小原鑑元と佐伯惟教に兵を与え大軍を持って攻撃させ菊池義武は敗れて隈本城から追い出されていた。


 そして菊池義武は菊池家復興のために島津氏を頼ろうと薩摩出水へ向かっていたが、そんな情勢下でもあり相良晴広は薩摩に攻撃をかけるような余力はなかった。


 伊東祐安率いる3000の伊東軍は、真幸院へ到着すると半数の1500を飯野城への抑えとして陣をかまえ残りの1500を加久藤城へ向かわせた。


 しかし、城への攻め手を出迎えたのは暴虐的な速度で降り注ぐ石礫の雨あられであった。


「砲撃てい!」


「砲発射!」


 ”どおん”


「ぐわああ!」


「ぎゃあああ!」


 加久藤城を攻撃した伊東の兵は搦手より攻め上るが、狭い道故にいっぺんには進めない所にファルコネット砲により放たれたぶどう弾が雨あられと降り注いだのだから堪ったものではない。


 そして砲10門を砲弾を発射した後に後方に下げて砲の内部を掃除し、火薬を詰め、弾丸を詰めるという砲の置き換え作戦によって連続で発射される散弾に攻撃側は被害が大きくなるばかりであった。


「くそ、これでは近づけぬ」


「おのれ卑怯な!」


「こ、これ以上は無理です」


「くそ……引くぞ」


 しかし、逃げ出した先々には伏兵があちこちに配置されていた。


「騎馬武者をねらえよ、銃撃てい!」


「銃撃開始!」


 ”だぁん””だぁん”


「ぐわああ!」


「ぎゃあああ!」


 伊東軍を木崎原きざきばるの平地に誘い込むため、南の白鳥山麓へ伏せていた伏兵が近づいてきた伊東軍の騎馬武者に鉛玉を浴びせる。


「銃撃てい!」


「銃撃開始!」


 ”だぁん””だぁん”


「ぐわああ!」


「ぎゃあああ!」


 そして伊東軍が白鳥山の伏兵から逃げ出した先の黒木播磨に伏せていた伏兵が近づいてきた伊東軍の騎馬武者に鉛玉を浴びせる、城攻めと伏兵の攻撃により伊東軍は1000の損失と指揮官クラスの武士に多数の被害を出していた。


 しかし伊東勢は、飯野城の押さえとして残していた部隊と合流して2000となったことで反撃を開始する。


「本体と合流したか。

 ふむ、我らで突撃するぞ!」


「おお!」


 そこを島津又四郎忠平の本隊200が突撃をかける。


「島津めが!

 ようやくでてきたか!」


 とはいえ伊東勢は2000、相互の兵力差は歴然であって島津の兵は崩れて木原崎方面へと敗走したように見えた。


「追え、追えい!少数の島津など蹴散らしてしまうのだ」


 だがしかし、島津又四郎忠平の敗走は疑似敗走であり、木原崎には鉄砲をかまえた兵が整然と横列にならんでいたのである。


「銃撃てい!」


「銃撃開始!」


 ”だぁん””だぁん”


「ぐわああ!」


「ぎゃあああ!」


「ば、馬鹿な?こんな早く陣を展開できるはずが?!」


 更に伊東軍の背後より響き渡るは銅鑼の音であった。


 ”ジャーンジャーン”


 ”うわぁぁぁぁぁぁ!”


 五人一組で槍をかまえた島津の兵が背後より襲い掛かってきた。


 白鳥山の伏兵が押し迫って来たのだ。


「馬鹿な一体どうなっているのだ?」


 ”ブオーーーーーーーーーーーーーーーー!”


 更に加久藤城より打って出た兵により横からの攻撃が加えられ、逃げられる方向は東の三之山城方面だけとなってしまった。


 島津の兵により半包囲された伊東勢は大混乱に陥り、伊東勢は東に向かって敗走した。


「よし、追撃せよ、可能な限り敵をうち減らすのだ!」


「おおー!」


 島津軍は逃げる伊東軍を背後から追撃した。


 逃げ道が残されていたことで伊東の損害はむしろ増えたのだ。


 この木崎原の戦いにおいて伊東軍の損害は全兵力の三分の二になる2000人に上り、更には伊東家の日向国統一を支えてきた伊東一門や国人の長などを含めた指揮官となる武士300人のなかの280余人を失い、伊東軍は指揮統率能力と兵の動員能力の双方を失った。


 一方島津の損害は士分50人、雑兵100人という伊東側に比べれば軽微なものであった。


 もっとも1割以上の損害は通常であれば敗北側の数値であるのだが。


 これにより日向の伊東家は滅亡の道を歩むことになった。


 そして、肝付兼盛は本家である肝付兼続の軍勢を追い払うことに成功した。


 大隅の肝付本家は孤立した状態での島津宗家との絶望的な戦いの道を強いられることになったのである。

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