永禄元年(1558年)
第104話 六角が三好宗家と手を組んだり、畠山が阿波三好にボコられたりなかなか状況は混乱してるな
さて1557年の暮れに後奈良天皇が崩御されて、第一皇子が践祚し新たな今上帝となった。
それに伴い元号が弘治から永禄に改元された。
六角義賢は覚慶とその供回りを連れて山城に戻り、年が変わったところで覚慶は二条御所に入り還俗して足利義秋と名乗った。
それとともに彼は従五位下・左馬頭に叙位・任官されたが、征夷大将軍には任官されなかった。
先帝の葬式や今上帝の即位の儀式に十分な金を出せなかったからだ。
そんななか畠山高政は実弟の畠山昭高を義秋の側近として二条御所に残して自分は紀伊へ戻っていった。
そして俺の執事として長年仕えてくれた、伊集院忠朗は老齢を理由に息子の伊集院忠倉(いじゅういんただあお)に執事職を譲ることになった。
「今までよく仕えてくれた。
この後はゆるりと過ごすがよかろう」
「は、息子のことをよろしく頼みます」
「うむ、忠倉はこれからよろしく頼むぞ」
「は、身命にかけまして」
一方阿波では三好実休の戦死後は息子の千鶴丸は幼すぎたため三好康長と篠原長房が実権を握っていたが、彼等はもとは堺公方と呼ばれ従五位下、左馬頭の官位を持つ足利義冬の息子義栄を将軍として担ぎ上げようとしており彼も従五位下・左馬頭に叙位・任官された。
朝廷は近江公方と阿波公方は交互に将軍職につくのが慣例なので、こんどは順番として足利義栄が将軍となるのが先例から正しいはずであると名目では言っていたが、六角の献金額では大いに不足であるというのが実情だった。
応仁の乱の後の細川が幕府を支えられたのは、明との貿易を行っていたり堺の上納金を持っていたり、そもそも阿波・讃岐・伊予東部・播磨・摂津・丹波・山城などを有する事もあって経済的に幕政を支えることが出来たからで、三好はその殆どを引き継いでいたが、近江と山城をおさえたからと言って六角がそれに成り代わる程の経済力を持っていないのは間違いなかった。
一方、三好実休のかたきを取るべく三好康長と篠原長房・安宅冬康は軍を再編成して2万の兵を集め和泉に再上陸を行った。
畠山高政は六角義賢に救援を要請したが、六角義賢は京の治安維持などに銭や兵糧を吸い取られて動けるような状況でなかった。
和泉には摂津の国人衆を取りまとめる三好政康の1万の兵も加わり、畠山高政の2万の兵と最終的に河内高安郡教興寺村付近にて両軍は激突した。
畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃4000丁は三好方の大きな脅威であったが、三好方が雨天を待って攻撃を仕掛けたことにより火縄銃が使用できず雑賀・根来衆は早々に崩されて敗走し、畠山の重臣である湯川直光(ゆかわなおみつ)も討ち死にすると畠山は総崩れとなり紀伊の国へ撤退していった。
野戦の防御側の軍においては、火縄銃を上手く利用できない場合があるということが大きく知られた戦いでもあったわけだ。
一方の六角は阿波を中心とする三好により畠山軍が壊滅したのを知ると長慶の嫡男・三好義興や家老の松永久秀や今村慶満(いまむらよしみつ)などと講和を結び、京の治安維持任務や幕府の財政担当を再び三好へ行わせることにして、六角やそれに率いられた浅井などは山城から撤退していった。
そして三好義興は細川晴元や足利義秋とも和解して、細川晴元は自領を回復するべく松永久秀とともに丹波へと攻撃を仕掛けてきた。
「赤井直正や波多野晴通などと協力して撃退するぞ」
「かしこまりました」
まあ、松永久秀から見れば俺は弟の敵でもあるし、細川晴元から見ればもともとは自分の領地であったというのはわからないでもないんだがな。
松永久秀も武将として一流だが、赤井直正は超一流と言って差し支えない。
侵入してきた松永久秀と細川晴元の嫡男である細川昭元の軍を俺とともに、赤井直正の軍は蹴散らして細川昭元は戦死・松永久秀は敗走した。
何しろ彼が生きている間は丹波は織田信長の軍も落とせなかったぐらいだしな。
「赤井直正殿の戦ぶりは流石ですな」
「いやいや、島津内府に比べれば私など」
この戦の敗北で細川家の没落はほぼ決定づけられたが、それにより六角と三好宗家とそれに仕える松永久秀が敵に回ったのは間違いなくなっただろう。
一方の三好康長・篠原長房・安宅冬康ら阿波の三好勢は、六角と手を組んだ三好義興や松永久秀に反発し、足利義冬および三好実休の遺児である三好千鶴丸を三好の当主として擁立し三好宗家と対立することを表明した。
もともと三好長慶は義輝という近江公方の支持を生前から表明していたが、対立する義冬や義栄などの阿波公方の擁立を阿波や讃岐などの四国の三好勢の多くは支持していた。
三好実休という存在がそれを押しとどめてはいたが長慶と実休の死で三好内部の対立が明らかになってしまったわけだ。
そして篠原長房らが島津の勢力下に下る条件として、既に戦死している三好実休の側室であった未亡人の小少将を俺が側室として迎え、その前夫たちの遺児を保護することという条件を出してきたらしい。
小少将と言うのは通称で同じ名の女性は同じ時代にも何名かいるようなよく使われる名で、もとは三好実休の家臣である岡本牧西の娘が、阿波守護である細川持隆の側室になった後、彼が三好実休に殺害された後は三好実休の側室になった女性だ。
本来であればこのあとは篠原長房の弟の篠原自遁(しのはらじとん)の妻になったはずだが?
とは言え彼女は細川真之、鶴千代(三好長治)、孫六(十河存保)の母親でもあり、実質的には細川や四国の三好の子どもたちの後見役でもある。
毛利元就がいう。
「島津内府が後見役になってくれれば心強いと思っているのでしょう」
「まあ、正当性では三好宗家のほうが上だからな。
まあよかろう、一人の女性の面倒を見ることで四国を争わずに島津の勢力下におけるなら安いものだ……たぶんな」
こうして俺は小少将とその前夫の遺児である細川真之、鶴千代(三好長治)、孫六(十河存保)たちの面倒を見る代わりに、四国の阿波・讃岐と淡路を無血で島津の勢力下に置いたのだ。
さらに摂津はこちら側についた三好宗渭がおさえている。
しかし畠山高政も三好宗家側につくと和泉は松浦信輝(まつらのぶてる)がそれに呼応し河内でも安見宗房(やすみむねふさ)が三好宗家側につくことで、摂津の三好宗渭が孤立気味となるが島津は彼を支援することを表明して摂津も島津の勢力下に入った。
いままで布告してきた島津法度だが、摂津に置いては宗教に対しての統制は行わないことにする。
石山本願寺がある場所では一向宗禁止をすれば最終的に本願寺と戦争になるだろうし、山城・近江などでも同じように対処するつもりだ。
もっとも北陸や東海の本願寺勢力は叩き潰すことになるとは思うけどな。
「そろそろ陸路の輸送網や通信網も整備せねばな」
伊集院忠倉はうなずく。
「そうですな、支配する地域も広くなっておりますしそれは必要でしょう」
島津法度の布告と並行しつつ俺は山陽道の整備を行わせ、そこに木道竹馬車を走らせることと手旗信号及び狼煙台を設置して輸送や通信の整備も開始した。
重たいものは基本的には船で輸送するとは言え、必ずしも船の輸送のほうが早いとも限らぬしな。
また姫路は当分の間の本拠地とする予定なので、島津軍学校を城下に設置し、人質として送られてきたものなどをまとめて洗脳……では無く教育していずれは俺や俺の兄弟の息子達と共に戦う武将に育て上げることにしたのだった。
「そして今上陛下のためにもそろそろ上洛をせねばな」
上洛後の馬揃えなどの準備もしておいたほうが良いか。
その前に先帝の葬儀や今上帝の即位にかかる費用を出さねばならんだろうけど。
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