第43話 菊池と大友の争いに介入するか否かそれが問題だ
さて、南日向の伊東氏を根こそぎ滅ぼし薩摩・大隅・日向の三州を制圧したことで、島津代々の悲願である三州統一はなった。
「うむ、誠にめでたいことだ」
初代である島津忠久が鎌倉幕府の初代将軍源頼朝により、薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護職に任じられたものの、その後まもなく比企能員の変に連座することによって、北条氏は島津家の大隅・日向の守護職を剥奪する。
それ以来島津氏は薩摩1ヶ国の守護職であったのだが、それ故に三州を統一しその支配権をとりもどすのは長年の夢であった。
室町時代に大隅は取り戻せたものの、日向については南日向のごく一部を支配していたに過ぎなかったからな。
とはいえ、まだ日向北部は伊東の本来の主君である、土持氏などの日向北部の国人が大友に属しているから完全な島津の支配下ではないが。
それはさておき俺の目の前で平伏している二人をどうするかだ。
「相良晴広殿、菊池義武殿、面を上げられよ」
「はは」
「はは」
現在の南肥後の実質的な支配権を確立している相良晴広と肥後の守護を受け継いできた菊池家の最後の当主である菊池義武、この二人は肥後における影響力はかなり高い。
菊池義武は豊後国の戦国大名・大友義長の次男の大友重治でもあり、菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもあるが、兄である大友義鑑や甥に当たる大友義鎮とは仲が悪い。
菊池氏は、平安時代で藤原氏の絶頂期である藤原道長の時代の寛仁3年(1019年)に女真族が対馬、壱岐、筑前、肥前などを襲った
とは言え中央朝廷では完全に握りつぶされ歴史に馴染みがないような人間には殆ど知られていない外国勢力の日本本土への侵攻である刀伊の入寇があったころから、九州に菊池氏の先祖が存在していたのは間違いがなく、菊池氏はその後に力を持つ武士勢力の平家や鎌倉幕府、室町幕府とは一定の距離を保ち朝廷とのつながりを保ちながら肥後の土地で勢力を保って命脈を戦国時代まで保ってきた。
まずは平清盛が肥後守に就任すると菊池氏は平家の家人となったが、源頼朝が兵を挙げると、養和の乱を起こして平家に対して反乱を起こした。
しかし平貞能の率いる追討軍に敗北すると降伏し平家方として戦うが、壇ノ浦の戦いで源氏方に寝返り鎌倉幕府の御家人となるも度重なる裏切り行為に源頼朝からは菊池氏は信頼されなかったため少弐・大友・島津に比べて重用はされなかった。
その後、菊池氏は承久の乱において後鳥羽上皇方について、北条義時によって所領を減らされたりもしているが、菊池氏は後醍醐天皇の綸旨に応じて阿蘇・少弐・大友とともに倒幕の兵を挙げて鎮西探題を襲った。
しかし土壇場での少弐と大友の裏切りによって鎮西探題館内で菊池は戦死した。
しかし、建武の新政成立後、楠木正成の推薦もあって菊池氏は肥後守に任じられた。
その後九州に逃げてきた足利尊氏と多々良浜で戦ったが敗北し肥後へ逃げ延びた。
その後に南朝の後醍醐天皇の皇子である懐良親王が征西将軍として九州に下向し菊池氏に迎えられ宇都宮氏とともに南朝主力として戦うことになる。
このころ足利幕府の内部でも足利尊氏と弟の足利直義で闘いとなっており直義の養子で尊氏の庶子の足利直冬も九州に下向してきたため、九州は尊氏・直冬・南朝の三勢力による戦国時代にいち早く突入した。
しかし足利直義の失脚により足利直冬が九州を去ると、南朝方が勢力を伸ばし大宰府を攻略したが、室町幕府により今川貞世が九州探題に任じられて九州に赴任すると南朝方は水島の戦い、詫磨原の戦いと勝利を重ねたが、本拠地を奪われ、南北朝合一を機に菊池は阿蘇とともに今川了俊と和睦することになった。
菊池氏は室町幕府により肥後守護職を与えられたが阿蘇郡は阿蘇氏が球磨郡と芦北郡は相良氏が八代郡は名和氏が自立した存在であり菊池氏の支配できた地域はそれほど大きくはなかった。
だがそれでもそれなりの権威は有った。
しかし19代菊池持朝のころから菊池氏一族の間で家督をめぐる争いが度々起こるようになり22代の菊池能運は戦傷がもとで永正元年(1504年)にわずか23歳で死亡し菊池氏本流は絶えた。
その後、阿蘇氏の第17代当主の阿蘇惟長が菊池家を乗っ取り、菊池氏の第24代当主、菊池武経と名乗ったがやがて追放されて薩摩へ逃亡する。
永正10年(1513年)に島津氏の支援を受け名前を戻した阿蘇惟長は一度阿蘇を奪ったが再度追放されて天文6年(1537年)に死んでいる。
こういったことも有って現在の阿蘇家は反島津派なのだ。
そして現状としては大友義鑑が肥後国に多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、菊池武経の後を継いだ菊池武包の後に大友義鑑の弟である大友重治が成人したら菊池氏の家督を継がせる密約を結び永正17年(1520年)に大友重治は菊池武包から家督を譲られて菊池氏の当主となった。
この時は兄である大友義鑑に指示に従って今まで菊池家家中を牛耳っていた城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流の重臣を老中から外し大友氏の重臣などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる。
しかし、菊池義武は天文3年(1534年)に大内義隆や肥後の国人と同盟を結んで兄に反抗し独立した。
独立しようとした理由は不明だが多分兄の傀儡で居るのがいやだったのだろう。
しかし、大友義鑑と大内義隆が和平を結ぶと大内の支援を失った菊池義武は敗北した。
その後天文19年(1550年)に大友義鑑が二階崩れの変で死ぬと、菊池義武は再び肥後の国人の支援を得て隈本城を奪還し肥後全土の制圧を目指したが、大友義鎮が国内の混乱を速やかに鎮圧し大軍を派遣。
隈本城は落城して菊池義武は落ち延びた
大友義鎮は菊池義武の討伐に協力した阿蘇氏や城氏・赤星氏・隈部氏・田尻氏などを取り立てることで肥後北部を支配することに成功する。
そして阿蘇氏の軍師には有名な
そして肥後の八代には南北朝の騒乱で名を馳せた名和長年の子孫である名和氏がいたが阿蘇氏は相良氏と名和氏との同盟を維持することで阿蘇氏の存続を保っている。
一方の相良氏は藤原南家の流れをくむと言われているがこちらも真相は不明。
平氏であるとも橘氏でもあるともいわれている。
日向伊東氏とは近縁であったようだが人吉、球磨において長年に渡り命脈を保っている一族で分国法を定めたりあちこちの大名の仲介に立ったりしている。
とは言え現状の相良と島津の間の戦力差は目に見えておるし、伊東がどうなったかを見れば早めに降伏しておくのが正しい選択だと俺は思うがな。
現状の肥後の勢力は相良とその同盟相手である名和氏が島津側でその他の国人はほとんど大友側と言ってもいい。
「相良晴広殿にはぜひ色々教わりたいと思っていたのだ」
相良晴広は驚いたようにいう。
「島津の当主殿が私に学ぶことなどございましょうか?」
俺は頷く。
「うむ、土地を治めるための法度や各地の大名に頼られる交渉術などだな」
俺がにやりと笑うと相良晴広は引きつった笑みを浮かべた。
「島津は猪武者ばかりと思っておりましたがこれはこれは困ったものですな。
私が国の統治に関しての力になれるのであれば身を粉にして働きましょう」
俺はその言葉に頷く。
「うむ、そうしてくれるとありがたい。
今のところ薩摩や大隅では土地争いなどの村同士での戦はあまり起こっておらぬが日向を治めるときには必要であろうからな」
そして俺はもうひとりに声をかける。
「菊池義武殿が我らに望むことは何であろう?」
菊池義武がいう。
「私は菊池の血を受け継ぐものとして、菊池一族を肥後守護として復興させたいのです。
そのために島津殿に力を貸していただきたい」
俺は首をかしげる。
「ふむ、そうすることで島津にはなんの得がありますかな?」
「南日向の伊東を滅ぼし、南肥後の相良を臣従させた以上島津と大友の争いはもはや避けられますまい。
ならばあなたが肥後守護である私を担ぎ上げれば肥後の国人を島津の側でまとめることで大友に有利に戦えるようになります」
ふむ、たしかにそれはある程度は有効だろう。
「なるほど、肥後における逆賊を討伐する大義名分は朝廷より頂いておりますが肥後守護職を持つあなたが肥後を治めたほうが民衆も納得すると申すのか?」
「そうです」
ふむ、たしかに俺達が肥後に直接攻め込むよりは菊池を旗頭にして肥後は統治させたほうが上手く行きそうな気はするが……。
「しかしながら、肥後の国人は大友の支配下にあるものが多い。
特に阿蘇と我が島津は犬猿の仲ですが彼等はあなたが立てば従ってくれますでしょうや?」
「それは……」
正直に言えば現状の菊池義武の影響力はさほど大きいものではないように思う。
俺は大友とは不戦同盟を締結して四国西部の国人達の攻略に当たるつもりだったのだがどうしたものかな。
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