天文24年、弘治元年(1555年)

第81話 紀伊大和へ出兵して紀伊や大和へ侵入した一向一揆勢を殲滅したぞ。

 さて、三好長慶は本来ザビエルが京都に上った天文19年(1550年)に、畿内でのキリスト教の布教を許す代わりに日本人奴隷をポルトガル人に売って鉄砲や火薬を手に入れていた。


 無論、根来から鉄砲の製造法が伝えられた堺でも多少は鉄砲をつくっていたし、近江の国友でも鉄砲は生産されていたが、本来であればポルトガルが大量に持ち込んだインドの南蛮鉄なしでは鉄砲の大量生産はできなかったし、硝石がなければ黒色火薬も手に入らなかった。


 刀や槍だけでなく具足にも鉄が使われだすことで日本は鉄不足になり、主に石見や出雲、備前や播磨などで行われていたたたら製鉄だけで国内の鉄需要には全く足りなかったのだ。


 原材料となる砂鉄も足らなければ燃料となる薪も足りない。


 しかし、俺がポルトガル人の日本への侵入を最小限にしたために、京などの畿内でのキリスト教の布教は現在行われていない。


 だから三好長慶は六角と一色による共同の攻撃を防ぐために、石山本願寺に一揆の要請を行わざるを得なかったのだろう。


 畠山と水争いで対立していたことも有って、将軍や元管領の方に根来や雑賀の傭兵が味方していたから根来寺などに攻撃するように三好が本願寺に要請したのかもしれないし、一向宗は真言宗などを嫌っていた可能性も高い。


 だからといってすべて上手くいくとは限らないわけだ。


 まず天文23年8月13日(1554年9月19日)に本願寺第十世証如が39歳にて入滅した。


 後見役である蓮淳が天文19年(1550年)に入滅するまでほぼ実権を持てなかった証如は最後に自分自身で何かしてみたかったのかもしれないな。


 そのきっかけが三好の要請によるものであっても。


 本願寺は12歳の顕如が第11世となり継承するが何分まだ幼く、これによって各地の一揆の統制を取るのが大変困難になった。


 もともと北陸の本願寺教団と大坂の本願寺教団は仲があまり良いとはいえなかったりもしたのだが、そもそも真宗と一向衆そのものが違うともいえる。


 本来の一向宗は一向いっこう一遍いっぺんにより布教された踊り念仏である一向宗とそれと混同された時宗などなのだが、それ故に南無阿弥陀仏と阿弥陀一仏のみを尊び、「どんな悪事を働いても念仏を唱えれば仏の力により救われる」という造悪無碍ぞうあくむげを是とするようになってしまった。


 それ故に一揆を起こすことに積極的になってしまったわけだな。


 また一遍は下人や非人も含む者をすべて救済するために教義を簡略したため、現状の一向衆はおもに山伏、社人、渡り巫女、時宗の念仏僧、琵琶法師、旅芸人などによって布教されており、湿田により豊かになりえない湿地帯の農民にも広く信仰されていた。


 三河矢作川流域や伊勢長島周辺などは湿田であったゆえに貧しかったし河原者も多かったのが一向一揆の根城となった理由だな。


 北陸も冬は雪に閉ざされるがゆえに二毛作などができる地域に比べれば貧しい地域だった。


 貧しいがゆえに”多くの銭を納めれば救われる”というふうになっていた天台や真言などに反発してた面もある。


 そしてこの一向一揆で一番の被害を被ったのは伊勢長島の一向一揆の影響を受けた一色だった。


 長島は商業的にとても重要な場所で伊勢長島の東の尾張側には津島、西の伊勢側には桑名という商業地が有ったが一向一揆にそこを襲われ、更には木曽川、揖斐川、長良川の水運を途絶させられたことで尾張から美濃にかけての商業に大きなダメージをうけたのだ。


 同じように三河の三河矢作川流域の一向一揆も松平や今川にとって十分に脅威であった。


 更に今川は甲斐において武田残党の地侍による反乱にも悩まされた。


 若狭では若狭武田が、越前では朝倉が、能登では畠山が、越後では長尾が、近江では六角が一向一揆との戦いに頭を悩ませ、伊勢北部は豪族が入り乱れての乱戦となった。


 そして河内などの一向一揆は紀伊と大和になだれ込んだ。


 そんなところで証如が死んだのだから統制が取れるわけがない。


 まずは近江の金ヶ森の一揆衆は六角と比叡山の合同軍により敗北し離散したのだ。


 しかし、その他の場所ではそう簡単にけりはつかないようだ。


 稲刈りの季節になると一揆軍も多少鎮静したようだがな。


 そしてなんやかんや紀伊半島経由で兵を送り出す準備をしている間に年が変わってしまった。


 今年は正月評定は簡素なもので特に尼子と接しているものや紀伊大和遠征に参加するものはいちいち山口へこなくても良いので有事に備えるようにさせた。


 そして又四郎忠平と川上久朗が率い、薩摩、雑賀、熊野、九鬼などの水軍により兵が運ばれていった。


 紀伊に上陸した又四郎忠平は湯浅ゆあさ玉置たまき周参見すさみ、小山、高河原たかがはらなどの畠山に従っていない南紀伊の国人たちを従えて道案内をさせ紀伊の南に島津の足がかりを造りつつ南大和へ進んだ。


 一方の川上久朗は雑賀から上陸して畠山高政の許可と案内役をえて西からまず根来寺の救援に向かった。


 根来寺は寺領72万石とも言われるが、摂津、和泉、河内の一向宗徒の総攻撃をうけて苦戦していた。


 このとき根来寺と水争いをしていた畠山高政は一向一揆の集団に襲われるでもなく一向一揆を攻撃するでもなく自分の領地の守りを固めていた。


 このあたりは三好長慶と何らかの取引も有ったのだろう。


 しかし、雑賀衆とともに川上久朗の率いる高山国の高地人と薩摩兵児の横撃によって紀伊北部の一揆衆は潰走したのだった。


 一方大和の興福寺などにも一向一揆がなだれ込んでいたが、又四郎忠平は一向一揆を時には勢子を使って追い出し、時には擬似敗走でおびき寄せての伏兵による攻撃を多用して一向一揆を散々に打ち破った。


 この際には大和国人衆である嶋清興しまきよおきいわゆる島左近 、十市遠勝とおちとおかつなど、また河内国人である楠木正成の子孫を称する楠長譜くすのきちょうあん、後の楠木正虎くすのきまさとらなどが傘下に入った。


 彼は山口にやってきて祖先の朝敵の赦免を嘆願してきた。


「どうか我が祖先を朝敵より赦免していただきたくねがいまする」


 俺にひれ伏した楠長譜を見て俺はいう。


「うむ、そなたの思いはわかった。

 今上陛下に奏上し勅免を願うとしよう」


「ありがとうございます」


 楠長譜の願いは尤もだと思う。


 しかし、将軍や管領には良くは思われないかもしれない。


 しかし、室町幕府の初代でもある足利尊氏も楠木正成を評価していたはずだし大丈夫……だよな?。

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