第46話 大友の他姓衆を調略し、四国の土佐一条氏と伊予西園寺氏を勢力下に入れよう

 さて、俺は菊池義武を支援して大友と戦う道を選んだ。


 どのみち大友とは国境が接した時点でいずれは戦わねばならぬし、二階崩れの変からさほど経っておらず家中がまとまっていない現時点で戦ったほうが良いように思えるからな。


 史実において島津と大友が戦う頃にはキリスト教にかぶれてしまった大友宗麟は、家臣との溝も大きくなり大友三老も死んだりしてかなりばらばらになっていた。


 耳川の戦いは戦う前から大友の不和により結果は決まっていたとすらされる。


 しかしながら現状の大友も一枚岩ではなく一門衆である同紋衆と外様の他姓衆の間での身分格差による不平不満が渦巻いている。


 後10年もすれば大友は九州の八割を制圧下におくのだから仕掛けるなら早い方が良い。


 大友の軍編成では他姓衆に先陣を命じるが、恩賞が少ないので他姓衆にはやる気もあまりない。


 実はこれには現状の大友家宗家の台所事情が関係する。


 簡単に言えば大友宗家の直轄地は豊後平定の過程で軍功のあった家臣に領土として恩賞を与えた為、現状ではまだ少なく、実は有力同紋衆より少なかった。


 そのために大友宗家は同紋衆に大きな手柄を立てられ更に領地を拡大されると宗家を乗っ取られかねないため同紋衆にはなるべく戦で武功を立ててほしくなかったのだな。


 無論他姓衆が奪った土地なら大友宗家が直轄地にできるというわけだ。


 それでも父である20代目大友義鑑の時は他姓衆と同紋衆共に三名ずつ加判衆を選び、他姓衆の不満を抑えていたが、大友義鎮は自分を廃嫡しようとした父のやり方に従わず、今年には小原鑑元おばらあきもとを加判衆から解任している。


 これは加判衆からの他姓衆排除が目的で大友義鎮は加判衆を同紋衆で固め、同紋衆でも自分に従わぬものは処刑した。


 つまり他姓衆にとって、大友義鎮は従う意味の少ない主君となっているのだな。


「先ずは肥後や日向、豊後の大友の他姓衆に対して、領土安堵を約束して調略を行うとしよう。

 小原鑑元や佐伯惟教さえきこれのりなど同紋衆の中でも影響力の強いものに対して優先して行うようにせよ。

 北日向の土持親成つちもちちかしげに対しても同様だ」


 伊集院忠蒼は頷く。


「現状ではそれがよろしいかと思います」


 現状の島津家はまだ日向国内の実効的な支配体制を固める前であり、伊東攻めでの論功行賞で土地を与えたり、日向へ部屋住みのものなどを地頭に命じて向かわせている最中で、日向から兵を出すのは実情では難しい。


 それ故に薩摩・大隅を本領としている者に日向国北部で戦わせるのはいささか難しくもある。

 船による輸送などを行えば無理ではないがな。


 だからこそ現状では大友の同紋衆と他姓衆の不和につけ込み、肥後守護の家格である菊池と肥後南部の実力者である相良、そして相良と仲が良い菱刈、最後まで同族としては抵抗した島津実久の家を肥後にさしむけているのだ。


 最悪これらが壊滅しても俺にはほとんど痛手ではないが少なくとも相良はそれなりに力があるから時間稼ぎにはなるだろ。


 もともと日向は島津の守護地とされているからか大友は日向より肥後を優先していた。


 最も本拠地である豊後には日向のほうが近いので大友が日向と肥後をどちらを優先するかは不明だし、元は伊東の配下であった門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内らが大友の調略で我々を裏切って土持親成を攻めるような可能性も高いが。


 そして日向北部から戻ってきた薩摩水軍の比志島義基と雑賀衆の鈴木重意には別の役割を任せる。


「お前達は兵3000を率いて海を渡り西土佐の一条並びに西伊予の西園寺にこの書状を届けてくれ。

 まずは双方に付け届けとして銭百貫を送り中央朝廷とのつなぎをお願いするという形で話を進めてほしい。

 しかしながら全く話を聞かぬというのであれば大筒や鉄砲での恫喝をしても構わぬ」


「かしこまりました、土佐の一条と伊予の西園寺に話を通してまいります」


「うむ、話が早くて助かる」


 ちなみに書状の内容は


 ”中央朝廷への顔が利く名家たる一条(西園寺)と友好関係を結びたく思い使者を送りました。

 そして島津の保護下に入ればそちらの家のみならず京の宗家にも支援を惜しみません。

 また来年度の上洛の折には共に京へ参る所存でありますがいかがでしょう?

 あ、断ったら伊東みたいになるけどね”


 意訳すればこんな感じだ。


 この時代の土佐は土佐一条氏と土佐七雄とよばれる国人が群雄割拠しているが、本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏が5千石、香宗我部氏、大平氏が4千石、長宗我部氏が3千石など現状の島津に比べれば弱小であり、1万6千石を有する土佐一条氏は藤原五摂家の一条家の出身であり土佐守で正二位の家格を持つ土佐では一番の勢力である。


 そして土佐は10万石から20万石しかない貧しい土地であり、しかも山脈を通じて孤立しており瀬戸内に比べれば航路としての価値も少ないと思われている。


 土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に関白の一条教房が、応仁の乱で焼け落ちた京の混乱を避け、所領の荘園であった土佐幡多荘に下向しそのまま根付いた一族だ。


 そして現状の当主一条兼定いちじょうかねさだは天文18年(1549年)に父の一条房基が自殺したため7歳で家督を継いだが、土佐一条氏出身で関白となっていた大叔父の一条房通が養父となって後見をしている。


 名目としては近衛家家令として一条家を庇護しその荘園の権利は保護するが豊後水道の制圧のためにもまずはここを押さえておき、その後に土佐の国人はすりつぶしていけばよかろう。


 一方の伊予西園寺氏であるがこちらも元は藤原北家閑院流の一門である。


 古くは鎌倉時代中期の西園寺公経のときにほとんど横領に近い形で西園寺家の荘園とされたという。


 西園寺家は源頼朝の姪の全子を妻とし、摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との結びつきが強く、承久の乱で鎌倉方が勝つと幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、天皇の外戚として一時は摂関家をもしのぐ権勢を振るい、大覚寺統と持明院統の皇統の継承権争いにおいても大きな権限を持っていた。


 だが鎌倉幕府滅亡からその後の南北朝に分立によって西園寺本家が断絶し、西園寺家庶流の西園寺公良が宇和郡に入り、在地の土豪を支配下に組み入れて領国支配を開始した。


 しかし、伊予の宇都宮氏や河野氏、土佐の一条氏、九州豊後の大友氏の侵攻に遭って現状は衰退しつつある。


 現状の当主は西園寺実充さいおんじさねみつだが正直に言えばあまりパッとしない。


 とは言え宗家の西園寺公朝さいおんじきんともも中央朝廷では結構な力を持っている。


 土佐一条と伊予西園寺にまず島津の勢力下に入ってもらい一条家と西園寺家の権威をも借りて土佐及び伊予を早めに制圧してしまいたいものだ。


 とは言え土佐はともかく伊予の宇都宮や河野は結構な力を持っているから一筋縄ではいかないかも知れないがな。

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