第45話 番外編:その頃の尾張及び周辺諸国の動向

 さて、織田信秀が死に、その後を継いだ信長も死んだ尾張がどうなったかというと斯波義統しばよしむねを擁立する織田大和守家の信友が、弾正忠家の織田信行を臣下として仕えさせることにより実質的に織田大和守家が尾張の支配権を確立していた。


 とは言え実質的な権力は家老である坂井大膳や河尻与一、織田三位などが握ってはいたのだが。


 もともと尾張守護である斯波氏は室町幕府将軍足利氏の有力な分家一門であり、細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力な守護大名でもあったが、領国である越前を家臣の朝倉氏に奪われ現在の尾張守護である斯波義統の父である斯波義達しば よしたつは駿河守護である今川氏親により遠江を奪われ遠江奪還に固執していた。


 もっとも元々遠江は今川氏が所持していたものを、室町時代中期に斯波氏が奪ったものでは有ったが。


 しかしこの出兵には守護代である織田氏は反対しており、ついには尾張守護代の大和守家である織田達定が反斯波義達を掲げて挙兵したが、守護の斯波義達が守護代の織田達定を討伐して守護代勢力を壊滅させたが、永正12年(1515年)8月の引馬城における今川勢との合戦で斯波義達が捕虜になるほどの大敗を喫し、剃髪をさせられた上で尾張に送り返され、斯波義達は隠居させられた。


 これに代わってわずか3歳の斯波義統が名目上の尾張の国主となったのだが、当然3歳では国の運営を行うことなどはできず、一度は討伐された大和守織田家の織田達勝・織田信友が斯波義統を担ぎ上げたが、津島経済を掌握する織田氏分家で尾張守家の奉行に過ぎなかった弾正忠家の織田信秀の台頭は、上四郡を支配下に置く伊勢守家の織田信安とともに織田信友には目障りな存在であった。


 しかし、尾張における正統性の象徴として大和守家に擁された形の斯波義統であったが、天文13年(1544年)に信秀が美濃へ進攻する際には、尾張国中に信秀への協力を命じて、本来なら弾正忠家よりも格上にあたる伊勢守家や、同輩の因幡守家をも美濃進攻軍として動員させるなど、信秀に対して篤い支援を行った。


 しかし大和守家の信友としては、義統が弾正忠家の信秀に接近することを快く思わず、義統としても自身を傀儡として扱う信友に不満をもっていたがその矢先に信秀と信長が死亡することで頼るべき相手はいなくなってしまったのである。


 そして織田信秀の死後に信友は信長の弟である織田信行の家督相続を支持しており信長の死後、それをうけて家督を相続した信行は信友に臣従した。


「信友様、我々弾正忠家は尾張守家に従い働かせていただきます」


「うむ、信行殿には父や兄のようになってもらっては困りますからな。

 これからは我々に従いよく働いてほしい」


「はい、家臣ともどもよろしくお願いいたします」


 だがそれにより織田信秀が行ってきたことを理解し、受け継ぐものは途絶えてしまうのであった。


 すなわち銭の価値の理解と朝廷の権威の利用価値の理解、それに籠城戦の欠点を理解しうるものがいなくなったのは斯波氏にとっても織田氏にとっても勢力拡張の機会を失わせるに十分であったのである。


 とは言え晩年の織田信秀は敗北続きであったため、その評価は低下しており、その後を継いだ信長が早々に討ち死にしてしまっていることを考えれば無理のないことではある。


 そして織田信長のもとへ嫁いでいた斎藤利政の娘の帰蝶は美濃に戻り父に語った。


「残念ながら尾張のうつけ殿は本当にうつけであったようでございます」


 帰蝶の役目は織田弾正忠家の情報を父に伝える間諜であったがその役目ももう必要なくなってしまっていた。


「たしかにそうであったようだな、儂もだいぶ耄碌してしまったものだ」


 斎藤利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、剃髪して道三と号し、鷺山城に隠居した。


 そしてこれは斎藤家の重臣たちの総意でも有った、そして家督を相続した義龍は貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱し疲弊した美濃の所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入することで美濃の統治を上手く行ってゆき、尾張北部への侵攻を開始していく。


「無能と思っていた息子だがむしろ儂が耄碌していたようだな」


 斎藤道三はそういってため息を付いたのだった。


 一方駿河・遠江・三河・尾張の知多半島などを押さえている今川義元はこの好機に尾張への攻勢を強めていた。


 天文18年(1549年)には、織田方の三河安祥城を攻略し、信秀の庶長子である織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を織田から奪還し松平の帰順をより強固なものにしていた。


 だが、亡父である今川氏親の定めた分国法である今川仮名目録に追加法を加え、室町幕府が定めた守護使不入しゅごしふにゅう、すなわち幕府が守護に対して幕府の公領や荘園などに立ち入る事を禁じた定めの廃止を宣言し、室町幕府との関係を精算し守護大名から戦国大名への転身を図った。


 しかしながら勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、守護と守護代と弾正忠家に分かれて内乱が続くはずであった尾張が織田信長の死により織田大和守家によって早々に統一されてしまったことにより尾張への侵攻はかえって困難なものとなっていたが、右腕である太原雪斎は慌てずに言った。


「尾張を一時に平定するのは難しいですが、徐々にその国力を削ぎ、国人の離反を誘えば尾張の平定はいずれなりましょう」


「うむ、その通りだ」


 今川義元は度々尾張へ大軍を率いて攻め込み、織田方が籠城している間に周辺への乱取りや田畑への刈田狼藉を行うことで尾張東部の国力を低下させることで織田方の戦力をジリジリと削り取っていくのである。


 そして本来の木下藤吉郎こと中村伊右衛門の尾張よりの家族皆の移住という本能的な行動は結果として正しかったことも証明された。


 尾張の各地の村は今川と斎藤の戦に従う雑兵によって刈田狼藉乱妨取り略奪を受けまくることになって、農民には人買い商人に売り飛ばされるものも多数出るのである。


 無論それにより後々の統治に支障が出るのは言うまでもない。


 この頃、近江に追放されている足利義藤は三好長慶を何とかして亡き者にしようとしていた。


 そして3月にそれは実行され、まず最初は京の伊勢貞孝の屋敷に三好長慶が宴で呼ばれるとの情報を得るとまずは小さな子供に夜に乗じて屋敷に侵入させ屋敷を焼き討ちして、長慶と貞孝を殺させようとしたが、子供は共犯者共々三人捕らえられ揃って処刑された。


 更にその9日後、奉公衆の進士賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだ。


 進士賢光は長慶へ抜刀して三刀突いたが長慶は床の間の置物でそれを防ぎ、賢光はその場で自害した。


 進士賢光は領地問題で個人的に長慶に恨みがあったとも言われるが、公方様から長慶と貞孝を殺せと命令されたとも言われていた。


 そして、進士賢光が自害した翌日には細川晴元の家臣・香西元成こうざいもとなり三好政勝みよしまさかつが丹波より軍勢を率いて京都東山を襲撃した。


 本来ならば長慶と貞孝が暗殺された混乱を狙って山城を取り戻す予定であったが長慶たちの暗殺に失敗したことから、一旦引き上げた後7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ丹波へと逃亡したのであった。

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