第91話 因幡が支配下に入ったな、京に将軍が戻って三好と和睦したようだ、朝鮮は反乱とか独立とかでぐちゃぐちゃになったぜ
さて、播磨は島津に降った小寺と元々の守護である赤松・赤松の有力分家で半独立の別所などの赤松の分家内での争いになっている。
本来であれば三好長慶が手を伸ばす良い機会であるはずだが、南近江に長尾が兵を進めてきたことで播磨の争いに介入している場合ではなくなっているらしい。
一方山陰では俺は因幡の山名豊成を支援して山名豊定を因幡から追い払い、事実上因幡を島津の勢力下に入れた。
因幡銀山は直轄領として押さえてあるが、ここは埋蔵量自体はさほどでもないはずなんだよな。
その頃畿内では三好長慶が畠山高政に援軍を要請し、畠山高政は三好長慶と関係が深い遊佐長教の家臣であった
一方京都奪回を果たすべく将軍足利義輝・前管領細川晴元は近江守護六角義賢と越後の長尾景虎の支援をうけて、軍勢8000人を率いて朽木谷から坂本に移動。
この内5000が長尾の兵であり軍中核であった。
一方京では長慶の配下部将である松永久秀・長頼兄弟と長慶の従叔父・三好長逸が摂津・丹波から1万5000人の軍勢を引き連れて京の東に陣取って迎え撃つ構えを取った。
普通であればほぼ倍の戦力差がある戦いで三好が負けるとは思わないだろう。
三好軍は瓜生山山頂の将軍山城を占拠したが、将軍足利義輝は南と西から火を放ち、三好軍は将軍山城を自焼して放棄し京都へ退却。
そこで長尾景虎が京へと討ち入り三好長逸がこの戦いで討ち取られた。
三好軍は一度京を放棄し阿波・讃岐・淡路から軍勢を呼び寄せ、摂津にて三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存と息子の三好義興が合流し3万の大軍となっていた。
さすがの長尾景虎であっても戦力差が大きすぎ、三好長慶がこもる芥川山城を攻めるも千人ほどの死傷者を出して撤退することになる。
最終的に朝廷と畠山義弘が両者の間に入り三好長慶と六角義賢の使者が和睦交渉を行い三好長慶と足利義輝の和睦が成立した。
足利義輝は三好長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて入京し、三好長慶は芥川山城へ戻り、事実上室町幕府の中枢から三好ははなれることとなった。
ただし、細川晴元はこの和睦に反対して近江坂本へと戻り、長尾景虎は
将軍足利義輝との関係修復により三好長慶の勢力は増加したようにも見えるが、足利義輝の帰京で室町幕府権力者としての三好長慶の書状は出されなくなり、将軍の幕臣となったことにより三好長慶は幕府権力から退くが畿内最大の大名として存在する状況自体は変わりはなかった。
そして権力奪回を望む細川の存在は三好にとっては厄介な存在であった。
そしてその双方の共倒れを望むのは誰でもない将軍足利義輝である。
そのころ山口では百済再興に大内義長が派遣され、俺がその後の統治には干渉しないという話を聞きつけて陶晴賢に同調していたために、肩身が狭い益田藤兼や野心の強い龍造寺隆信、肝付兼続などが朝鮮への同行を申し出てきていた。
「どうか我らに同行の許可をいただきたく」
「ふむ、あくまでも日ノ本とは関わりはないものとなるが その覚悟はあるかね?」
「はい、二度と日ノ本の土を踏まぬ覚悟はできております」
「わかった、では同行を許す。
存分に異国で暴れてくるがよかろう」
そして彼等はいままでの戦闘で捕虜となった者や、全羅道で差別を受けている商人・僧侶・職人・農民などたきつけて中央より派遣された両班や役人を討ち取らせて百済の再興を宣言、さらに船で移動して平安道や咸鏡道へ船で渡り高句麗の再興も宣言し、済州島も耽羅として独立宣言を行いこの三カ国は明の承認を取り付けて明への朝貢を行うことになったのであった。
それぞれ百済では禅宗、高句麗では修験密教、耽羅では土着の
またこれらの三カ国日本との私貿易は対馬を介して行われることになり、互いに公貿易は行わぬことで協定がむすばれた。
明としても女真対策に対して役に立たないうえに朝鮮側が損をしない公貿易ばかり求め、兵を出すこともしない李氏朝鮮はあまり重視していなかったようだ。
李氏朝鮮の支配下で反乱はあちこちで拡大して今じゃもうぐちゃぐちゃだ。
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