第154話 その後のヨーロッパは大戦争となった
スペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピは屈辱に体を震わせていた。
「イングランドやポルトガルの連中のせいで野蛮人共にこんなめにあわせられるとは!」
彼にとっては敗北の原因は未開の地域の原住民によるものではなくイングランドやポルトガルの入れ知恵と後押しによるものとしか思えなかった。
実際にはそうでなかったとしてもだ。
彼はヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)へなんとか戻ると、ポルトガルやイングランドの後押しによりフィリピンが既に制圧されていたことを報告した。
「なんと、それはサラゴサ条約違反ではないか!」
サラゴサ条約は1529年4月22日にポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結されたスペイン帝国とポルトガル海上帝国の間のお互いの支配地域を決める平和条約で、スペインとポルトガルのアジアにおける領有圏を明確に分け、両国が同時に1494年のトルデシリャス条約を根拠にモルッカ諸島の領有を主張したためにおこった「モルッカ問題」を解決するためのもので、このサラゴサ条約は東方における両国の境界をモルッカ諸島より東へ17度進んだところに定めた。
これによりポルトガルはその境界から西の全ての土地と海を領有し、これはアジアとそれまでに発見されていた東南アジアの島嶼を含むものだった。
スペインは太平洋の大半を領有したが、この際フィリピンは条約で言明されなかった。
であればスペインは暗黙的にはフィリピンの領有を放棄したことになるのだが、実際にはフィリピンには香辛料がないため、ポルトガルも強く反対はしないとスペインは考え、1542年にはフィリピンを植民地化することを明言し、その時はポルトガルからの反対も特に出なかったのでフィリピンはスペインの管轄と認識されていた。
ちなみに日本・ニューギニア・オーストラリアは境界の地域にあったため、日本にはポルトガル商人とともにイエズス会のプランシスコ・ザビエルやコスメ・デ・トーレス、フアン・フェルナンデスといったスペイン人宣教師が日本に来ていたりとスペインとポルトガルは両国とも日本を押さえる権利があると考えていた。
なので厳密に言うのであればポルトガルがフィリピンを先に押さえてもスペインがそれを非難するいわれはないはずであったのだが、スペインはもちろん納得しなかった。
一方のポルトガルもスペインに対して非難すべきことがあった。
それは香料諸島ことモルッカ諸島からマラッカへ戻る船がスペインの旗を掲げる船に襲われ積荷を奪われていたことであった。
「これはサラゴサ条約違反ではないか!」
これに関しては彼の言うとおりでもあったがスペインにも言い分はあった。
ポルトガルの半球は約191度でスペインの半球は約169度と広さに関して公正ではなく、太平洋の東航路がまだ見つかっていないときの条約であったためだったので、本来ならばモルッカ諸島はスペインの範囲であったというものである。
そして実際にはポルトガルの船を襲っていたのはフィリピンを押さえていた鷹司義久がスペイン艦隊から拿捕(鹵獲)した船であったのだ。
そしてスペイン王フェリペ2世は「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想とし、本人も熱心なカトリック教徒であった。
しかし、イングランド女王エリザベス1世はプロテスタントであり、フランスの宗教内乱であるユグノー戦争ではプロテスタント側を支持していた。
またネーデルラント(オランダ)でもプロテスタントのカルヴァン派などが広まっていたが、カトリックのスペイン王フェリペ2世が、異端審問を実施しプロテスタントを弾圧させたことでネーデルラント諸州は有力貴族オラニエ公ウィレム1世を旗頭として、スペインに対する反乱を起こし、これに対してもイングランドは反乱軍を支持支援していた。
このような状況であったこともあり、神聖ローマ帝国でのシュマルカルデン戦争やスイスでのカッペル戦争などのカトリックとプロテスタントの間の紛争が終結したばかりではあったのだが、ハプスブルグ王家と長年対立したフランスのプロテスタントであるブルボン王家はカトリックによるプロテスタントへの虐殺であるヴァシーの虐殺などが起こったことや、ピレネー条約でスペインより支払われるはずであった賠償機の支払いが行われなかったことを理由にフランスはポルトガル・イングランドやネーデルラントを支援に回った。
「ならばよろしい戦争だ」
「ならば受けて立とう」
この結果、イングランド・フランスユグノー派・ネーデルランド反スペイン連合・ブランデンブルク=プロイセン・ポルトガル・スウェーデン王国・デンマーク=ノルウェーのプロテスタント連合に対してローマ教皇領・スコットランド・スペインハプスブルク・フランスカソリック派・オーストリアハプスブルグ・ポーランド=リトアニア共和国のカソリック連合が対抗し、カソリック連合に対して1538年のプレヴェザの海戦で勝利を収めていたオスマントルコがカソリック連合に対して宣戦布告。
さらに情勢を複雑化させるのはスエーデンヴァーサ王朝はデンマーク=ノルウェーから独立したばかりであり、雷帝イヴァン4世のロシア・ツァーリ国とのリヴォニア戦争で、テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)の支配権やバルト海進出を巡り、ロシア・ツァーリ国とポーランド・リトアニア・スウェーデン王国・ドイツのリヴォニア帯剣騎士団を中心とするリヴォニア連盟と戦争を行っていたため、結果的にはカソリックと正教の連合体とプロテスタントとイスラムの同盟によるヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争となったのだが個々ではさらに細かい紛争が起きていたことであった。
スウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国はロシア・ツァーリ国を退けるとお互いに戦争になっていた。
この戦争の原因は、ポーランドとイエズス会がロシアやバルト海域の征服事業を計画していたこととされる。
当初はポーランドが優位に立っていたが、カトリックとプロテスタントの間の問題を軽視したことで、スウェーデン国内のプロテスタントの叛乱によって優位は覆えされた、またポーランドはモスクワを占拠したものの「モスクワ
同時にデンマークノルウェーとスエーデンの戦いである北方七年戦争も起きており状況は複雑怪奇であった。
この戦争の原因は表向き宗教対立であったが、実際は長年の支配と被支配などの利害対立の結果により、発生したものであったろう。
この頃カリブ海のスペイン貿易航路へは、フランスやイングランドの私掠船が幅を利かせており、ネーデルラントの私掠船は新大陸から戻るスペイン商船を襲撃したり、スペイン支配下の町を焼き討ちするなどスペインの海上勢力に対してゲリラ戦を展開し、新大陸の富を重要な財源とするスペインに大きな打撃を与えていた。
この戦争の集結にはおよそ八十年かかったため後に八十年戦争と呼ばれることになり、これによりスペインとポルトガルの海外支配が衰退していく事になり、かわってイングランドやフランス、ネーデルランド商人が活発に活動するようになるのである。
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