第127話 上杉が上洛して詫びを入れることになりそうだが話がまだまとまったわけでもないのが微妙な所だ

 さて、甲斐の地方病のひどい地域から、加賀の耕作放棄地へ住民を移住させた地域では糞便は肥溜めで一年以上かけて全て完全に醗酵させ、耕すための牛馬の糞も放置せず肥溜めへ入れることを徹底させることにした。


 日本住血吸虫症の原因である日本住血吸虫が寄生できる巻き貝がこのあたりにいるかどうかはわからんし、春の雪解けの時に流されてしまう可能性も高いがここでも再発させては意味がないからな。


 あと釜無川や笛吹川の流域周辺の湿地や深田などの埋め立てと飲用水の確保のために井戸を掘らせ、なおかつ飲むときは煮沸することを推奨しているから、日本住血吸虫症の被害は甲斐でも減っていくであろう。


 俺は朝廷に対して北関東の戦火が収まらぬのは足利義昭による大名や国人に対しての扇動とそれに従って上野や武蔵北部などに軍を動かした上杉であると申立を行ない、足利義昭及び上杉政虎に対しての朝敵認定と討伐令を出してもらうように、朝廷工作を行っていた。


 そしてその活動の成果は実って今上天皇陛下による治罰綸旨がでた上に、錦の御旗の使用許可を頂いた。


 本来室町の治世では錦の御旗を掲げる事が出来るのは、足利将軍の一族だけであったのだが時代は変わったということであろう。


 それと共に義昭について越後にいる近習や上杉にしたがって行動している大名国人たちの幕府役職・朝廷官位と知行地の取り上げを行うこと明確に宣言した。


 これにより信濃の国人ではまず佐久郡の芦田信守あしだのぶもりがこちらに寝返り、さらに小県郡の真田幸隆もこちらへと寝返った。


 芦田氏は信濃の土豪・依田氏の一族であり、元々は独立した国人領主であったが一時期武田に臣従しその後は長尾に下っていたが状況の変化によりこちらへ鞍替えしてきたようだ。


 真田幸隆は清和天皇の第4皇子貞保親王さだやすしんのうの孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことに始まるとされる名門の武家の庶流で東信濃から上野にかけては滋野の一族がたくさんいるが、やはり状況の変化に応じて鞍替えしてきたようだな。


 高梨や村上はまだ迷っているようであるが。


 更に上野の長野氏もこちらへと寝返った。


 長野氏は上野守護代であり彼の支配下にある西上野の国人は「箕輪衆」と呼ばれ史実では武田信玄の攻撃をほぼ防ぎ続けた戦の名人であり、もともとは関東管領・山内上杉家に属していたものの、天文21年(1552年)に武蔵国を上杉憲政が完全に失うと、箕輪衆は憲政から離反している。


 その後の永禄3年(1560年)の長尾景虎の関東侵攻の際は上野東部の白井・惣社長尾氏とともにいち早く長尾に馳せ参じて北条氏康と戦ったようだが、長野業政はまだ年若い息子である長野業盛の補佐と領地安堵を引き換えに俺に臣従することを選んだようだ。


 長野業盛が名代としてやって来た。


「鷹司執柄相国殿にはお初にお目にかかります。

 長野左衛門大夫でございます。

 鷹司執柄相国殿へのお目通りが誠に遅くなり申し訳ございませぬ」


「うむ、まあ上杉と北条のあいだにあって動けぬ状況でも有ったでしょう。

 今後は上杉政虎との最前線にってもらうことになりますがな」


「かしこまりました。

 必ずやお役に立ってみせようと存じます」


「うむ、よろしく頼みますぞ」


 その他佐渡の本間や越後北部の揚北衆なども上杉政虎を見限ってこちらへとつくことを表明してきた。


 佐渡の本間に対しては挨拶が遅いことを理由に加賀に移動させ佐渡は俺の直轄地にした。


「ふむ、上杉政虎もほぼ進退窮まったかな」


 そんな折に足利義昭が下総へ下り足利藤氏の養子に入ることで、古河公方を相続し以降は朝廷及び畿内の室町殿へ従うという声明を出した。


「上杉からも見放され引き取り手がなくなったということか?

 しかし、上杉政虎本人が考えたことでも足利義昭本人が考えたことでもなかろうし、一体誰の手によるものであろうか?」


 毛利元就がそれに対して答えた。


「どうやら本多正信というものによる献策でありますようで」


「ふむ、そうかなるほどな」


 三河の一向一揆の後に徳川から出奔し、一時期松永久秀に使えていたというが、その後に加賀一向一揆に加わっていたとも聞くが本多正信は三河武士としては珍しく政治家としての見識に優れ謀略的手段もためらわず用いた人物で松永久秀も彼の才能を高く評価している。


 その松永久秀が切腹することになったのは俺のせいだし、恨みを晴らそうと上杉に助力していてもおかしくはないが、流石に政治的に進退窮まったし現在出来る対策をしてきたということだろうか。


 やがて越後より上杉政虎の側近中の側近である、本庄実乃ほんじょうさねより直江景綱なおえかげつなと共に本多正信が使者としてやって来た。


「鷹司執柄相国殿にはお初にお目にかかります。

 本庄新左衛門尉でございます」


「同じく鷹司執柄相国殿にはお初にお目にかかります。

 直江与兵衛尉にございます」


「同じく鷹司執柄相国殿にはお初にお目にかかります。

 本多佐渡守にございます」


「ふむ、関東管領殿の側近中の側近である本庄殿と直江殿に本田佐渡守。

 今日はどのような要件で来られたのかな?」


「は、鷹司執柄相国殿には、矢島公方を今後関東から出すこと及び文を書き騒乱のもととなる行為は一切行わないようにいたしますゆえ、名目上の関東公方就任を認めていただきたく」


「なるほど古河にかの御仁を軟禁するということでしょうかな?」


 それに対して本多正信が答えた。


「そう取っていただいても構いませぬ」


 続けて本庄実乃が言った。


「これを認めて頂け朝敵としての認定を取り下げていただけるならば、お館様は上洛して今上陛下や鷹司執柄相国殿それに公方に頭を下げることも厭わぬとおっしゃられています」


「では何故今まで惣無事令にも従わず上洛もしなかったのか?」


「は、東国はひどい飢饉であったことに加えまして、古河公方家でのごたごたもございまして、関東管領代としてやむを得ず行ったのでございますが、誠に不徳の致すところで、これが終わりましたらば頭を丸め出家する所存とのことでございます」


「ふむ、しかしながら関東管領殿には子がいらっしゃいませんでしたな。

 頭を丸め引退する前に我が弟である家久を上杉政虎殿に養子として迎え入れていただき関東管領職を継がせていただければ検討いたしますがいかがでしょうかな?」


 直江景綱が口ごもる。


「そ、それは……」


 しかし本多正信が言った。


「流石に我々の一存では答えられるものではございませぬゆえお館様に報告した後また日を改めて回答させていただければと」


「よろしいでしょう、一度越後に戻り相談されるがよかろう」


「それでは本日はこれにて失礼いたします」


 そういって彼らは越後へ帰っていった。


「さて彼らはともかく上杉政虎はどうするかね。

 何れにせよまだ戦の準備は進めておかねばな」


 俺は弟の歳久を総大将として錦の御旗を掲げて朝敵である上杉討伐を行うことを宣言しつつ上杉の対応を見ることにしたのだった。


 ちなみに現状の島津がおさえている国は

 西海道:薩摩・大隅・日向・肥後・豊後・筑後・豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬(全て)

 南海道:土佐・伊予・紀伊・淡路・阿波・讃岐(全て)

 山陰道:石見・出雲・伯耆・因幡・但馬・丹後・美作・隠岐(全て)

 山陽道:長門・周防・安芸・備後・備中・備前・丹波・播磨(全て)

 北陸道:若狭・越前・加賀・能登・越中・佐渡

 東海道:伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐

 ※伊豆・相模・武蔵は北条の動向が不安定なので除外

 東山道:近江・飛騨・美濃・信濃中部南部、上野西部

 畿内:山城・大和・河内・和泉・摂津

 奥羽:出羽陸奥のおよそ半分ほど


 で合計はおよそ1650万石


 うち直轄領はおよそ600万石


(ただし金山銀山銅山などの希少金属の産出量や港の関料・商人からの運上金などは含まず)


 その他:台湾島の高山国はおよそ250万石


 総計でおよそ1900万石


 うち直轄領はおよそ850万石


(ただし金山銀山銅山などの希少産出量や港の関料・商人からの運上金などは含まず)

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