第9話 琉球は意外と馬がたくさんいるんだな、後は山羊も

 さて、薩摩の坊津を出発してからは天気に恵まれ、琉球本島に到着するのはあっという間だった。


 そして薩摩島津の家紋である丸十字を掲げたこの船にちょっかいを出してくる船もいなかった。


 基本的にこの時代の交易船はどこの船かわかるようにしていてるのだな。


「何もおこりませんでしたなぁ」


 俺が叔父上に言うと叔父上は苦笑した。


「まあ、わざわざ我々に喧嘩をふっかけてくるものはおらぬよ」


 倭寇はゆる~く横のつながりがあるので倭寇同士の争いはあまり起こらない。


 が、もしちょっかいを出してきた船があったら”ヒャッハー食い物と水をよこせー”と逆に相手の船に乗り込んで立ちふさがる敵を切り倒して、船を制圧しただろうけどな。


 まあそうすれば琉球に持って行く積荷もいくらか増えたかもしれないから、ある意味残念ではある。


 さて琉球という島の歴史に関してはこの地方の方言に中国文化の影響が見られない7世紀以前の日本語が残っており、またアイヌと同じく琉球人のDNAには縄文人のハプログループが多く残っている。


 そのため琉球の人たちは日本に唐の律令制などの中国文化が流入する以前から住んでいたはずなんだな。


 ただし鬼界カルデラの破局的噴火が有った7000年前には火砕流と津波と火山灰で琉球に住んでいた住民は全滅して無人島になったであろうから、縄文人が渡ってきたのはその後の6000年前以降の縄文中期後半から後期以降のはずだ。


 ハプログループ的なグループ分けの遺伝子研究でも、沖縄県民は遺伝子的に中国人や台湾人とは違うD系統の人間が多いはずだしな。


 そして琉球の最初の王は、平安時代末期に鎮西八郎と呼ばれた源為朝の息子とされている。


 まあこれは事実でない可能性が高いが。


 源為朝は13歳の時に父である源為義に勘当されて九州に追放されたがその後に自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、わずか3年のうちに九州を平定してしまった。


 この事実が彼を鎮西と呼ばせたわけだ。


 もっとも久寿2年(1155年)に父が解官されたため為朝は九州の強者28騎のみを率いて上洛し、その後保元の乱の敗北で伊豆大島へ流されたがその時もおとなしく国司に従わずに暴れまわって伊豆諸島を事実上支配したので、朝廷より追討を受けて自害したはずなのだが、彼は自害などせずに琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖になったと琉球王国の正史では伝えられているそうだ。


 俺は琉球王の始祖は為朝が九州で暴れまわっていたときに配下として戦っていた豪族の誰かがその名を借りたのではないかと思うがな。


 そして源平合戦での鎮西反乱の際に平家に対して反乱を起こし、寿永元年(1182年)に平貞能によって反乱が鎮圧された時に琉球に逃げ出した豪族がいたのではないだろうか。


 実際浦添王朝時代と呼ばれる王朝は1187年ごろに始まってるから時期的にも辻褄は合うな。


 しかしこの頃は沖縄本島の有力な豪族に過ぎず、1260年頃に舜天王統最後の王の義本から王位を禅譲された英祖が久米島・慶良間島・奄美大島などの入貢を行わせこれが琉球王国という国家の実在が確認できる最初の王でもある。


 英祖は、元の軍勢を退けた王でもあるが、英祖王の死後は、各地の豪族たちが勢力を増して、1350年ごろ琉球は北山・中山・南山の3つに別れ争う戦国の時代となった。


 戦いは100年近く続いて、1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって尚氏王統の琉球王国が成立し、この時の第一尚氏は日本や明・朝鮮半島の李氏朝鮮やジャワやマラッカなどの東南アジアとの交易も積極的に拡大し大いに繁栄した。


 しかし1462年にクーデターが起こり、その後は第二尚氏王統が琉球を治め1522年には石垣島・与那国島を制圧している。


 そして第二尚氏の琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となることを強いられている。


 琉球の歴史はこんなところだな。


 そして琉球王国の島々自体は土地の生産力が乏しいため貿易はもっぱら日本や明、朝鮮、東南アジアの交易品の中継地点としてなりたっている。


 ちなみに琉球王国での特産品は意外と思うだろうが馬だったりする、年中雨が降る沖縄本島は草が豊富なので馬の育成に適しているのだ。


 あとは火山から取れる硫黄だな。


 東南アジアからは砂糖や香木、香辛料、明からは生糸、銅銭、陶磁器などが入ってきていてそれらが市に並んでいるわけだ。


 港についた俺たち一行は積荷を一部おろして市へ持って行く。


 島では放牧されている馬がいる牧場や雑草をハムハム食べてる家の軒先で飼われている山羊の姿も見えるな。


 琉球の肉用ヤギは、14世紀から15世紀頃に中国から渡ってきた後、沖縄地方で飼養されている。


 比較的体が小柄なヤギで乳は子ヤギが生まれた直後の一ヶ月ぐらいしかでない。


 品種改良されて子ヤギの必要な時期以外にも乳が出るようになった乳用ヤギは、寛永年間にペリーが来日の際に飲用として持ち込んだものが始まりとされるのでこの時代にはまだいない。


 なので手に入れたかったらポルトガル人から直接買い付けるしか無いな。


 明治末期になると、民間でもヤギ飼育熱が高まり、政府の奨励策によって、スイスやイギリスなどから輸入され、より多くの乳を出すヤギへの改良が進められたらしい。


 そして琉球でも硫黄を銭に変える事ができるが、その交換比率がどのくらいなのか確認するのだ。


「琉球は東西南北の国々からいろいろな品物が集まる大きな市場というわけですな叔父上」


「そういうことだ、南方の香辛料や香料もここには結構あるぞ。

 もっとも南蛮がマラッカやルソンを制圧してからは手に入りにくくなりつつあるがな」


「それはまこと困ったものですな」


 やはりポルトガル人やスペイン人は排除するべきであろうな、もっともそれには戦力が必要ではあるが。


 ちなみに市のものを皆で略奪していくとかは流石にしないぞ、琉球は交易拠点として重要だし今の島津の戦力では琉球を制圧できるほどの人数はいないからな。


 のちに薩摩軍は兵総勢3000人、船80余艘で琉球を制圧しているが、現状ではそれだけの戦力はない。


 現状では薩摩と琉球は関係も良好だしな。


 とはいえ1509年に広州に外国商船の来航が認められたことで琉球の朝貢貿易は衰退している。


 琉球も少し考えないとその地位を失うんじゃなのかな。


 というか実際琉球は交易の中継地点としては衰退中なわけだが。


「硫黄と交換して得られた銭も思うほどでもありませんでしたな」


「うむ、以前ほどは港にも活気がないな」


 それはともかく琉球での特産品は馬だが、食肉用の山羊とサトウキビ、ゴーヤ、ウコンなどは帰りに買っていきたいな。

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