永禄2年(1559年)
第109話 京や畿内の安定のために寺社とその領地の武器狩りを行おう、年が明けて美濃と南信濃をとりあえず平定したぞ
さて畿内における天台宗や真言宗など平安仏教寺院を中心とした、酒や麹の専売を崩すことで権力基盤である商売についても風穴を開けてやった。
これで延暦寺や興福寺が朝廷や藤原家のやることが気に入らないからと強訴をしてきたり、根来寺も以前のように島津もしくは鷹司に対して鷹揚に命じることはできなくなったであろう。
いつまでも俺が同じ態度でいると思ったら大間違いだ。
「興福寺や根来寺は、俺は未だに意のままに動く藤原の家令だと思っていたかもしれないが、そうではないということを理解してもらわねばな」
家令の伊集院忠倉もうなずく。
「左様でございますな、あまり口出しがすぎるのは困ります」
伊集院忠朗に比べて若い彼は一向一揆の討伐要請などを普通に行うのが当然とばかりに出してきた興福寺や根来寺にあまり良い感情を持っていないようだ。
俺だってお祖父様が根来寺から恩を受けてなかったら同じように思ったろう。
最終的には徳川幕府がやったように寺院の旧来の特権をほぼなくして、そのかわり檀家制度を取り入れて寺などの収入の安定を図る代わりに副業禁止、宗教的勧誘禁止にしたいものだ。
そして畿内の主要な寺社に対して鉄砲などの武器を所持することを禁じることにする。
「そもそも仏教に置いては不殺生戒は最も基本的で最も重い戒律である。
悪僧が武器を持って民衆を殺傷することは仏道に大きく反することであり、それは信者に置いても変わらない。
故に僧や寺社領の百姓が刀や脇差、弓、槍、薙刀、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。
よけいな武器を隠し持ち年貢の納付を拒否したり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は実力で罰する。
なお取り上げた武器は、山城や大和の焼かれた寺院の再建のための釘や農具などにする。
そうすれば、百姓も仏によって救われよう」
豊臣秀吉が行った刀狩だが、実は最優先目標は畿内の寺社だったのはあまり知られていないな。
織田豊臣徳川が旧来の寺院の権威と権力を崩すためには相当な苦労があったんだ。
長尾に下った真田あたりが入れ知恵して寺院の悪僧共を先導したりしても厄介だしな。
それとは別にこんな噂も流れたりする。
「延暦寺の悪僧が鷹司の兵を害しようとした時一天にわかにかき曇り、その悪僧の振りかざした薙刀にへ雷が落ちたらしいぞ」
「やはり人を傷つけたことに対して仏罰が当たったのだろう」
「おそろしやおそろしや」
というような感じでな。
噂を流してるのが誰かまでは言わなくてもわかるだろう。
ペンは剣よりも強しというが、一介の風聞がいままでの権威をどんどん失墜させることもあるってことだな。
まず武器狩り令の発給はとりあえず比叡山・高野山・興福寺・根来寺・本願寺など畿内や畿内の近国の主要な寺社に限って行った。
小競り合いも有ったがすでに権威を失墜した寺院が徹底的に交戦するようなことはなかった。
無論害獣を退治するための手槍や小弓、自衛のために必要な脇差や鉈などまで取り上げるわけではないがな。
安全に生活していく上で必要な程度には残さなくてはならないのが難しいところだ。
後、堺の街についても鷹司の完全直轄地とした。
いままでは銭を納めさえすれば後は納屋衆は自分たちで好き放題出来たのだが、それが堺の商人に堺銭などで好き放題させてきた理由でも有ったからな。
「こちらにおいて鷹司と割符のためにつくっている銭について確認させてもらおうか?」
困ったように身をすくめる堺商人。
「へ、へえ」
結果として私鋳した粗悪な堺銭を改鋳するでもなく、多量に手元においていた悪質なものは見せしめのために磔とし、そこまででもないと判断したものは私鋳銭の鋳造許可を剥奪した。
磔としたものの中には納屋衆の古参である紅屋宗陽が含まれていた。
彼は三好長慶とのつながりも深く、織田信長が堺に矢銭2万貫をふっかけられた時にも徹底抗戦の構えを取っていたが、まさか2年ほどで状況がここまで変わるとは思っていなかったのだろう。
「朝廷による正式な鋳銭司としての任を務めることが出来ぬものは取り除くしかあるまいな」
「お、御許しを………ちょっとした出来心なんです」
「いや、許さん。
貴様らの欲による弊害は回り回って領国の統治を難しくするのだからな。
己の立場におごった自らの不徳を悔やんで死ね」
悪銭鐚銭の問題はつくってる人間ではなく最終的には統治者と農民にかかってくるからこそ厳しく対応するのだ。
鎌倉や古河ではちゃんとした質の永楽銭が鋳造されていたのは、悪銭を鋳造することの儲けより弊害のほうがでかいとわかっていたからだな。
その一方で若狭や摂津から山城への輸送路の陸路水路の整備なども進め、畿内の都市の困窮した民には雑穀米の粥などの炊き出しも行い、病人は施薬院などに隔離して早めに対処し、河原の鳥葬のために野ざらしにされてる民衆の遺体などは火葬にして疫病の流行などを防ぎ、強盗や押し買いなどの犯罪にはきちんと対処できるように人員を配置させた。
また日本海と瀬戸内海への往来をスムーズにするために、加古川と由良川に分かれる水分(みわかれ)をもちいた運河を掘削させている。
「この運河が上手く使えるようになればよいのだがな」
さて、美濃に関しては長島一向一揆に続いての別伝の乱による宗教のいざこざも有って、一色義龍が生きていたうちから国人同士が争いあいぐちゃぐちゃになっていたようだが、一色義龍が死ぬとそれは更に加速してしまった。
一色龍興が当主として有能か無能かと言うのはさておいて、彼が美濃一色を相続した時点で祖父や父親のせいでぐちゃぐちゃな状況において10歳でまともに統治できたらむしろ超天才としか言いようがない。
俺は見かけ上は立場が上の将軍足利義栄により鷹司が美濃と南信濃の征伐を行うように指示させた。
足利義栄には十分生活が潤うようにはさせている。
「近頃の美濃の国においては国をわけての争いになっておる。
鷹司執柄相国(関白太政大臣)に美濃及び南信濃の平安をもたらすべく争うものの討伐を命じる」
「かしこまりてございます」
そして西尾張から北尾張をすでに制圧したこともあり、尾張方面には小牧山城などの附城を築城しつつ、東美濃においては市橋長利(いちはしながとし)ら市橋一族や高木貞政(たかぎさだまさ)ら高木一族を従属させ、西美濃では西美濃三人衆と言われる稲葉良通、安藤守就、氏家直元に竹中重元、鷹司政光などはこちらの調略に応じたが、斎藤飛騨守秀成や不破光治(ふわみつはる)、日根野弘就(ひねのひろなり)、日比野清実(ひびのきよざね)・長井衛安(ながいもりやす)らは調略に応じず戦になった。
「一色という名家の名は捨てられんか、仕方あるまい戦とあらば蹴散らすのみ」
稲葉山城は斎藤氏の美濃支配の要であったが、加治田城の佐藤忠能・忠康親子や堂洞城主の岸信周、関城主長井道利も調略や降伏により中美濃を制圧して、稲葉山城を制圧することに成功、一色龍興や不破光治、日根野弘就は降伏し、斎藤秀成、日比野清実、長井衛安らは討ち死にして美濃は一応平定された。
いつものように一色興龍は名目上の一色家当主として擁立し、実質的に美濃の稲葉山城周辺は島津の直轄領となった。
史実では織田信長が美濃を制圧するまで10年近くかかってるが、尾張一国の信長と西国を制圧してる俺とでは権威も兵力も違うからな。
諏訪郡の諏訪氏と伊那郡の高遠氏は武田晴信に滅ぼされているが、その後美濃一色の義龍の弟である斎藤利堯(さいとうとしたか)により、統治されていた。
彼は稲葉山城落城と共に降伏した。
そして信濃であるが、本来信濃の守護である小笠原長時は三好長慶を頼って上洛しておりその動きは鈍かった。
長尾を頼るか俺を頼るか天秤にかけていたのかもしれないが、結局は俺の方について信濃侵攻の旗頭になったのだが。
伊那郡は伊那郡代であり高遠城主でもある秋山虎繁が一色に降伏していたが、伊那郡の安堵で今川に一度鞍替えしたものの、俺の侵攻後は鷹司に降伏し伊那郡代としてそのまま島津の傘下に入った。
一方長尾の軍は村上義清を大将にした北信濃の国人の真田らと共に深志城(のちの松本城)に入った。
そして一時は武田に降伏した後、一色に鞍替えした諏訪衆筆頭の諏訪頼豊がその傘下に入るものの、木曽義康の反発で侵攻は停滞した。
其処に俺が小笠原長時と諏訪勝頼を旗印に信濃へ侵攻したのだ。
諏訪郡の諏訪頼豊は諏訪勝頼を受け入れ、無事諏訪勝頼は諏訪の当主として擁立された。
伊那郡に関しては俺の直轄地としておいた。
伊那は比較的平坦な土地が多く、洪水などの災害も少なく信濃の中では肥沃な土地で重要な場所でもあるからな。
木曽の木曽氏も一度は独立を宣言したが最終的には島津の傘下に入り、筑摩郡北部の小笠原の領土も俺が安堵することで小笠原長時は信濃守護に戻ることが出来、美濃一色の領国をほぼ鷹司がおさえることが出来た。
「あんまり早急に事を進めるのも良くはないんだがな……」
美濃はともかく南信濃は長尾と今川に挟まれた状況になっちまうからな。
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