第139話 閑話:越後の龍の嘆息

 平和になった越後で上杉謙信は、一年前の自分の状況を思い起こしていた。


「なぜ、こうなったのであろう」


 それは永禄4年(1561年)上洛して鷹司義久に対して頭を下げることになった上杉謙信の素直な心であった。


 彼は越後守護である名門上杉家に仕える越後守護代の長尾為景の四男として享禄3年(1530年)に生まれ、幼名の虎千代は庚寅年生まれのためにそう名づけられた。


 父である長尾為景は長尾為景の謀反の噂を聞いた越後守護の上杉房能に攻められる前に攻めて自害に追い込み、更にその後関東管領であり上杉房能の実兄である上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。


 それ故に上杉顕定の子・憲房は「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例のない奸雄である」と言い放ち、上杉定実を傀儡化したものの悪名は消せずそれにより揚北衆や同族の長尾一族による反乱が頻発するようになった。


 もっとも彼は朝廷や室町幕府にたびたび献金等を行ってもいるので、争いばかり起こす関東管領に見切りをつけ、幕府中央や朝廷に深く誼を通じていたため、子の春景や景虎も同じように朝廷・幕府を敬っていた。


「とはいえ父の主君殺しという汚名はなかなか消せなかったな」


 そして天文5年(1536年)に長尾為景は隠居し、虎千代の兄である長尾晴景が家督を継いだ。


 この時虎千代は城下の林泉寺に入れられて、住職の天室光育の教えを受けたとされるが、実の所は実父に嫌われ疎んじられていたため寺に入れられたとされている。


「天室光育禅師の教えの修養は厳しかったな」


 ここで厳しい禅の修業と和歌などの教養にくわえて兵法を学んだことが後々役に立っていくことになる。


 その後天文11年(1542年)に父の長尾為景が病没、敵対する越後の勢力が居城である春日山城に迫ったため、虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡父の柩を護送したが、家督を継いだ兄の長尾晴景には混乱する越後国をまとめるだけの才覚も人望もなく、越後では非主流派に転落していた。


 この時伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛である天文の乱が起きていたが、越後でも守護の上杉定実が伊達稙宗の子である時宗丸を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後守護である上杉定実には揚北衆の一人中条藤資がついて賛成していたが、越後守護代である長尾晴景には中条氏以外の揚北衆がついて内乱状態になっていた。


 天文12年(1543年)に元服して長尾景虎と名乗り、天文13年(1544年)には長尾景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族が栃尾城に攻めよせたが、少数の城兵を二手に分け、一隊を敵本陣の背後を急襲させもう一隊で挟み撃ちにすることで長尾景虎は攻め寄せた敵を壊滅させる。


 天文14年(1545年)上杉家の黒田秀忠が春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もったが長尾景虎は黒田秀忠を降伏させたが、翌年の天文15年(1546年)に再び黒田秀忠が再び兵を挙げると黒田氏を滅ぼした。


 だが、これにより長尾晴景の能力に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。


 天文17年(1548年)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになり守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠居し、長尾景虎が家督を相続し、守護代となった。


 天文19年(1550年)に、守護である上杉定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は長尾景虎を越後国主として認め、天文20年(1551年)には越後統一を成し遂げた。


 これは島津義久が家督統一と薩摩を統一したのとほぼ同時期である。


「越後統一までは鷹司とさほどさはなかったはずであるのだがな」


 天文21年(1552年)に関東管領の上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。


 景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。


 長尾景虎は上野から北条軍を撤退させ、従五位下弾正少弼に正式に叙任されている。


 同年、武田晴信の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が長尾景虎を頼って越後に落ち延び、さらに翌年天文22年(1553年)には村上義清が長尾景虎に援軍を要請し第一次川中島の戦いで武田軍相手に圧勝した。


 天文22年(1553年)には京へ上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している。


 天文23年(1554年)長尾・一色・今川の同盟によって武田は討ち滅ぼされた。


 弘治2年(1556年)長尾は越中東部に兵を出し一向一揆を力で打ち破り、越中西部の神保長職を降伏させ、飛騨南部の三木氏を支援して江馬氏を打ち破りこれを服従させ事実上、越後・越中・信濃北部・飛騨を勢力下に入れた。


 その後、将軍足利義輝・前管領細川晴元・近江守護六角義賢と共に松永久秀・長頼兄弟と長慶の従叔父・三好長逸と交戦し三好長逸を討ち取った。


 無事に将軍は入京できたが、長尾景虎は北条高広の反乱により越後へと兵を戻すことになった。


 そして自らが北条高広の居城・北条城を包囲し、武田から降った真田幸隆による調略と攻撃によりこれを鎮圧した。


「あの時に北条高広が謀反を起こさなければな……」


 その後は後北条と対立していたが永禄3年(1560年)鷹司の上洛要請に応じず、関東の諸集を率いて、足利義氏の本拠地・古河御所をあっさり制圧し足利藤氏を擁立。


 後北条の本拠地である小田原まで攻め込んだが兵糧の欠乏が決定的になり撤退。


 上杉憲政の要請をうけ鎌倉にて山内上杉家の家督と関東管領職を相続し名を上杉政虎と改めた。


 そして翌年にいたり頭を丸めて上洛を行うことに至った。


「私はいったい何を間違えたのだ?」


 彼は朝廷と室町殿のために精一杯働いてきたはずだったが、結局は上杉憲政と足利義秋を手助けしようとしたのが失敗だったようにも思われる。


 もっとも鷹司による厳罰はなく、彼の弟を養子とし上杉と関東管領の地位を渡して後見するという扱いであったことは彼をほっとさせた。


「戦のない世の中にするため、微力ながら協力しよう」


「うむ、頼りにしておりますぞ」


 島津家久は上杉謙信にとっても将来が楽しみな若人であった。

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