第140話 さて、まずは諸大名の正室と子供を大坂に集めようか、あんまり無理矢理ではないようにしつつな

 さて、日本国内に関して言えば伊達とその取り巻きを樺太へ移動させたことで事実上日本の全ての大名国人領主は俺の下についたといっていいだろう。


 北は蝦夷・樺太・千島・勘察加カムチャッカまでは抑えてある。


 南は今のところ台灣島こと高山国までだが、中国の明の一部を不法占拠していたポルトガル商人は倭寇と呼ばれていた明の海賊などと共に処刑されたり追放されたりもしており、事実上明はキリスト教を禁教したようであるから中国に足がかりを作るのは難しくなっただろう。


 この頃のマカオは中国・朝鮮・日本などからの奴隷を集積して東南アジアからインドへ船で輸送してボロ儲けしていたはずだがそれを阻止してやったぞ、奴隷商人たちはざまみろだ。


 で、まずは江戸幕府に習い他の大名が簡単に反乱を行えないようにするためと薩摩流を洗脳……もとい教育するために大坂に側室と嫡男は住まわせることにしようか。


 史実においてのいわゆる三英傑のこれに関しての行動に関してだが。


 まず信長は天正7年(1579年)に安土城に信長が移り住んだ時に安土城の城下に家臣の妻子も一緒に連れてこさせたのが始まりだろう。


 ちなみに荒木村重の妻子や一族はこの時殺されてるな。


 次に秀吉は一番最初に大名に対して妻子を人質に出させたのは1594年(文禄3年)に伏見城に秀吉が入城したときにその城下に住まわせたのが始まりらしい。


 そして家康に関しては江戸城に入った慶長5年(1600年)が実質的には一番最初に近いと思う。


 もっとも慶長4年(1599年)の諸大名との婚姻政策である、


 伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。


 松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。


 蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。


 水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。


 保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。


 というのも実質的な人質政策のようなものだとおもう。


 また関ヶ原の合戦前から諸大名が江戸に親族を人質として送ってもいる。


 慶長元年(1596年)の藤堂高虎をかわきりに、慶長4年(一五九九年)の堀秀治、浅野長政。


 慶長5年(1600年)の細川忠興、前田利長などだがじつはこれらはほとんど皆自主的なものらしい。


 そして同年の関ヶ原の合戦の東軍の勝利後、全国の大名が人質を出すようになっていく。


 ただ慶長5年(1600年)の江戸城の城下はまだ街と言っていいレベルではなかったようなので、人質たちは江戸城内にすませていたことが多かったようだ。


 おそらく慶長8年(1603年) の征夷大将軍認可と、天下普請による江戸城の拡張と城下町の整備とともに、大名が江戸に出頭すると、江戸に邸地要するに江戸にすむための土地を幕府が下賜するようになったようだ。


 あくまでも江戸は全部幕府の土地なのであくまでも貸すだけだが、それまでは大名たちは江戸の寺院の宿坊などに宿泊していたので、あくまでも一時的に江戸に滞在しそこでの用事が終わったら地元に帰っていったわけだが、幕府から土地を貸し出されることで、大番役などのための居住施設を建設するようになっていったようだ。


 ただ豊臣家もまだ存在しているので大名達は江戸だけでなく、大坂や秀忠に将軍の座を譲った大御所の家康が駿府に移ったあとはそこへも挨拶に行かないといけなくなったから大名は大変だったらしい。


 それが慶長16年(1611年)に豊臣秀頼が二条城の家康に挨拶をしたことで徳川が豊臣より上と認識され


 慶長18年(1613年)の正月には大名達が江戸の将軍徳川秀忠への年頭の挨拶に赴くようになり、徳川が豊臣を滅ぼした大坂夏の陣の後に発行した武家諸法度の一番最初の元和令(1615年)の時に大まかに参勤交代の制度も明文化されて、最終的に寛永十二年(1635年)に『武家諸法度』を改定し参勤交代を完全に制度化されたときに正妻や嫡男を江戸屋敷に置くことでほぼ明文化されたそうだが、あくまでも強制でやったのではなく見た目では自主的に行わせたあたりが徳川らしいやりかただ。


 もっとも家康は人質は長く取っておくと、親子であっても親しみが薄れて、人質としての効果がなくなってしまうので、普段は親子を親しませておいて、戦が起こりそうなときなどに人質を取れば、親しみを忘れず愛に溺れて人質を捨てかねるものであるといってる。


 彼自身幼い頃は織田や今川の人質だったし、正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑で築山殿を殺害し、信康を切腹させた言う事件も有ったしな。


「まずは大坂城下に各大名家などの屋敷を作る土地を与えるか。

 一部は大宰府や江戸・仙台に作らせるが」


 毛利元就がうなずく。


「では、我が孫などはそこに移させるとしましょうか」


 俺もうなずく。


「ああそうしてくれ、そうすれば他の大名家も同じ様にしてくれるだろうからな」


 もちろん今までも戦の最中であるなどではない限り年始の挨拶と正月評定というのは俺の下についていた大名や国人は行っていたわけだが、強制で妻子を差し出させるより、噂を流していって自主的に行わせるようにしたほうがいいだろうな。


 そういう点でも江戸幕府というのはうまくやったものだとおもう。


 命令ではなく譜代大名や旗本に助言させ噂を流させることで外様にも自主的に行動させるのは俺も見習おう。


 そういうわけで俺は大坂にやってきた大名や国人に土地を与えてやんわりと毛利元就や宇喜多直家などに、やってきた大名国人に屋敷を建てて正妻や嫡男などを屋敷に住まわせたほうがいいと助言をしてもらうことにしたのだ。


 その結果としては武家屋敷をたてるために材木商や鳶・大工などだけでなく働き口を求めてやったきたものも人足として働き口も見つかって大坂は建築バブルになったわけさ。


 材木は朝鮮半島や女真の居住地域、カラフトやカムチャッカなどからも輸送させたので朝鮮の龍造寺やカラフトの伊達なんかも結構儲かってるとおもうぜ。


 そういったことをしつつ俺はマニラに遠征できるように高い戦闘力を持った外洋航海可能な大型ジャンク船を堺や尼崎などもくわえて建造させてもいた。


 そろそろスペインがフィリピンを侵略する頃だしな。

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