天文19年(1550年)
第33話 薩州統一と家督相続
さて、陣中食の開発もできたので祖父や父の命を受けて北薩摩への出征の準備を俺は行っていた。
現在の島津が実効支配している薩摩の石高はおおよそ16万石程度、それに高山国の石高が色々あわせて5千石から1万石くらいか?
加えてアユタヤから買い付けるタイ米も含めれば食糧にはだいぶ余裕ができてきた。
戦闘要員の1万石あたり200名から250名、人夫や小荷駄などの非戦闘要員を含めればその倍程度が通常石高に合わせて運用できる人数と言われている。
「これで現状運用できる兵数は最大で3500名と言ったところか。
小荷駄や雑用の人夫を合わせれは7000名にはなるがの」
弟の島津又四郎忠平が俺に聞いてくる。
「ふむそんなものか」
俺は頷く。
「うむ、その程度なのだ。
だからこそシラスに畑を作り家畜を飼うことは大切なのだ。
そして次は備(そなえ)を構築せねばな」
弟の又六郎歳久が俺に聞いてくる。
「備(そなえ)とはなんじゃ?」
「要は足軽連中を長柄と鉄砲などを適当に混ぜて配置するのではなく
きちんと陣形を決めてそういったものを配置するようにするということだな。
そのほうが行軍や攻撃などもしやすくなるはずだ」
二人の弟が頷く。
「なるほどのう」
「しかし、そんなことが出来るのか?」
「うむ、出来るできないではなくやらねばならぬのだ」
西洋のテルシオのような日本の最小の部隊編成の陣形である備(そなえ)は、戦国時代にはすでにあった。
基本的には最前線に三間槍の長柄横陣を展開しその左右に大砲や鉄砲、弓などの部隊を配置、長柄の後ろには早く移動できる一間槍、その後ろに騎馬、その後ろが本陣と伝令・馬廻りでその後方に輸送と陣地構築の工兵を兼ねた小荷駄が配置されるというのが一般的かね。
備はそういった兵種を混成させつつ兵種別に陣形を展開させて300名程度の独立した作戦行動を採れる基本単位を指すのだ。
赤備(あかぞなえ)とか黒備(くろぞなえ)のようなものもそれの一種だな。
ただ島津では機動力に劣る長柄はあまり配置しておらず、鉄砲が多めになるはずだ。
「逃げ出すふりをする時にあまりに長い槍を持っていては不便だからな」
弟たちが頷く。
「ふむ、それは確かにいえるな」
そして現状最優先の討伐対象は出水の島津実久だが、その他にも薩摩と肥後の間にある大口には菱刈隆秋が、その南にある蒲生氏の本城蒲生城には蒲生範清が、川内付近には渋谷氏庶流の東郷重治が、更には日向の伊東、南肥後の相良と我ら島津の敵対勢力はまだまだ尽きない。
大隅の肝付や北九州の大友とは今のところ友好的な関係であるのが救いだな。
大友から見れば肥後や日向より南の貧しい地域をわざわざ手に入れようと戦いを仕掛けるメリットはあまりないから肥後の阿蘇や甲斐、相良が相争ってくれて、日向の伊東がこっちに矛先をむけてくれれば、大友は大内との争いに専念できて楽になると考えているだろう。
「俺は槍や鉄砲の製造や手配、集めた足軽たちへの武器の配備に専念する。
お前さん達は兵を鍛えてくれるか」
弟たちが頷く。
「うむ、武具具足の手配やら食料の配給やら面倒なことは兄上に任せるぞ」
「その代わり戦働きは俺達に任せておけ」
俺は頷く。
「うむ、頼むぞ。
山で弓矢や鉄砲を使って獣を狩ったり足元の悪い河原で釣りをしたり重いものを運びながら低地と台地を行き来すれば自然に体も鍛えることもできよう。
食糧も手に入れば一石二鳥だ」
「うむ、わかった」
俺の役目は予め戦に勝ちやすいように手配をすることだ。
自分の開拓した畑と父上より頂いた知行地から人を集めて備の際の割り振りを行う。
行軍や戦闘などの訓練は弟たちに行わせるとして、訓練に必要な弾薬や食糧を過不足の無いように手配し軍事訓練をスムーズに行わせ、兵たちの練度をあげさせつつ、行軍を行わせることで地形を把握させつつ領内の治安維持も行わせている。
島津の領内におる野伏山賊のたぐいは投降を勧めて投降すればシラス台地の開拓なり、高山国の開拓なりに従事させる、投降しなければ、敵を罵って、ちょこっと打ち合った後に疑似敗走させ、釣り野伏せの経験を積ませつつ鉄砲や猛火油の実践訓練のための的になってもらう。
「うむ、お前たちが行軍して回っているおかげで開拓民も増えたぞ」
弟たちが頷く。
「うむ、こちらも戦闘の訓練ができて一石二鳥だ」
「うむ、俺たちは釣り出し野伏の玄人と言ってもいいと思うぞ」
戦には莫大な金がかかるからそのために色々やっている。
枝のついたまま切り出した竹を逆さまに海に突き刺し、それを小魚やナマコ、アサリなどの貝類などが海鵜などから身を守れる漁礁として利用することでナマコを定着させ、採取もしやすくする。
また加治木の南の黒川あたりでは湾奥だけ有って干潮時と満潮時の海面の高さの差が大きい。
なので海水を汲み上げるのが大変な揚浜式塩田ではなく、入浜式塩田を作らせて製塩の効率を上昇させた。
高性能なポンプや揚水機構が必要な流下式塩田を作れる程まだ薩摩には余裕はないしな。
それでも自然の力だけで製塩ができるようになるのはだいぶ違う。
また竹を編んで背負籠を作り荷物を背負いやすくしたり、木製の一輪猫車をつくって鍋や釜、木材を切り出すための斧や鉈のような重い物も運びやすくしたりなどの工夫もしてみた。
人と食糧に余裕も出てきたので薩摩串木野などの金山にも手をつけはじめた。
薩摩大隅は意外と鉱物資源に関しては金銀銅鉛錫などの鉱山が豊富なのだな。
そして翌年の天文19年(1550年)又四郎忠平を大将と又六郎歳久を副将として2000の兵を持って薩摩統一の戦を開始した。
残りは大隅や琉球方面からの備えの兵だ。
先ずは蒲生氏の本城蒲生城に2000の兵を持って立てこもる蒲生範清を釣り野伏で釣りだして大砲や鉄砲の前におびき寄せて一斉射撃でその兵を壊滅させ残りを降伏させ、三ヶ月後に2000の兵の大口の菱刈隆秋をやはり釣り野伏で釣りだしてその兵を壊滅させ、半年後に川内付近の2000の兵の渋谷氏庶流の東郷重治を降伏させた。
そして最後まで抵抗を続けていた出水の島津実久の3000の兵を勢いで蹴散らし、島津実久は自刃に追い込んでその子の島津義虎を降伏させた。
ようやく薩摩28万石は俺たち薩摩伊作家により統一されたのだ。
ちなみに降伏したもので素直に従う者は所領を安堵したうえで寄子に組み込み、あまり従わないものは北九州へ追放した。
所領を持たぬものたちはシラス台地の開拓や高山国の開拓、鉱山での労働などを選ばせてそれぞれに赴かせた。
このお陰でシラス台地の開拓に1000人、高山国の開拓に1000人、鉱山の鉱夫に500人ほどを送り込むことができたぞ。
「うむ、ようやく薩摩統一がかなったのう」
城に戻ってきた弟たちを俺は出迎えた。
「うむ、よく頑張ってくれたな又四郎、又六郎」
ニヤッと笑う弟たち。
「なに、人間も獣も狩るのはそう変わらぬよ」
「そうそう、獲物をどうやって弓矢鉄砲の前におびき出すかなど、ふだんから散々やっておることじゃからな」
そして父上から俺に驚きの知らせが有った。
「俺は父から12の時に家督を継いだが、薩摩守護と島津の家督をお前へ譲ろうと思う」
「それはお祖父様にならってということでございますか?」
父上は頷いた。
「うむ、お前たちならば上手くやっていけるであろう」
「分かりました謹んでお受けいたします」
もちろん父上もお祖父様も隠居してのんびりと過ごすなどということはないだろう。
だが名目だけでも俺が島津宗家の当主となるのであれば今までよりもより色々やりやすくはなるだろう。
その代わり俺自身は動きづらくなることもあるだろうが。
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