第71話 この時期の銭の信用喪失の問題は面倒かつ根深い・撰銭法度を定めよう
さて、この頃の近江から西あたりは銭の信用が大きく揺らいで貫高制から石高制、つまり銭本位制ではなく米本位制に戻りつつあった。
なんでそんなことになったかというと、まずは
「そもそも大陸じゃ紙幣や銀貨が普通になってるんだからな。
銅銭にこだわり続ける必要もないんだが……」
もともとこの時代には日本政府が公式に発行する通貨と言うのは存在せず、日本で銅銭が公式に鋳造されたのは奈良時代から平安時代の中頃までの約250年間のみで、“和同開珎”から“乾元大宝”まで12種類の銭貨が政府の鋳銭司によって鋳造されたことからこれを“皇朝十二銭”又は“本朝十二銭”という。
奈良時代の律令期に皇朝十二銭が発行されたのは唐の開元通宝を手本とし、貨幣制度を整えるためと言われるがこの時代には大宰府に進駐してた唐の役人もしくは秦氏や藤原氏によって”律令制度”とともに押し付けられたんじゃないかと俺は思うのだがな。
ま、その前から無文銀銭や富本銭も存在していたようだし事実はわからんが。
ともかく和同開珎は、日本の政府が鋳造して実際に流通したことがはっきりしている貨幣としては最古のものだが、当時の日本は米や絹などの物品が貨幣代わりに使われていて皇朝十二銭は畿内以外ではあまり使われていなかったらしい。
実際こういった銅銭は安土桃山時代の初期の小判や大判同様に記念硬貨的扱いをされていた側面が強く平城京や平安京ローカルな通貨としてしか使えなかった可能性は高いな。
その後、和同開珎が発行されてから52年後に万年通宝への改鋳が行われたのだがこの時、和同開珎10枚と万年通宝1枚との価値が等しいと定められた。
この旧貨幣と新貨幣の交換比率に関しての定めはその後の改鋳にも踏襲され続けたのだが、万年通宝や神功開宝は権力争いにおける権力の移り変わりによって改鋳され実態経済への影響が考慮されない政治的なものだったこともあり、その差により生じた利潤を政府の財源としたが、当然銭の価値を落とすことで極端なインフレを起こしたし、皇朝十二銭は改鋳を重ねるごとに大きさが縮小し、重量も減少、銅の中に鉛を入れる割合を増やしていくなど地金の素材もどんどん劣化していった。
それにより銭の価値は当初の200分の1にまで激減してしまったことから信用も失われ流通の現場から忌避されるようになり、日本では畿内でも11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまい、遣唐使が廃止されて硬貨の輸入の機会もなくなり、銭を使われるようになるのは宋銭が大量に流入する12世紀後半まで待つことになる。
その後平安朝末期になると平清盛で有名な日宋貿易が開始され北宋により鋳造された貨幣である銅宋銭がまず西日本で普及する。
尤も、養和元年(1181年)に発生した養和の大飢饉で銭の価値が大暴落したりしたことも有って東国への貨幣経済の浸透はかなり遅れるのだが、飢饉のときには銭より物々交換のほうが有効だったってことだな。
北宋における銅山の採掘と銅銭の鋳造は国家の経営により行われておりその品質は安定していたため、北宋銭は歴史的にみても最も信用された流通した通貨であって、金や西夏、日本、東南アジア諸国でも使用された。
日本での宋銭の流通が安定し鎌倉幕府と朝廷により公式に使用が認められた13世紀に入ると、絹・米が持っていた貨幣価値を銭貨が駆逐し、次第に年貢も銭で納められるようになった。
しかし宋が金によって侵略され南宋になると経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、通貨が紙幣や銀貨での取引に切り替わるのだがもちろんそれらは日本では流通しなかった。
銅銭から鉄銭に切り替わった南宋銭も悪銭扱いだったようだ。
その後、南宋が滅んで元の時代は日本との正式な国交はないことと元は決済上の利便性から紙幣の流通を押し進めたため、この時代の貨幣流入は減少し1300年頃は銭不足で銭価高騰、要するに激しいデフレがおこった。
そして、室町時代において足利義満が復活させた日明貿易により再び銅銭の入手が行なわれるようになったのだが、この時代になると公的に作られた皇朝十二銭・唐銭・宋銭・明銭とそれらの真似をして幕府の許可を得て鎌倉、堺、博多などで私鋳銭が鋳造されていたほか、幕府の無許可の私鋳銭をはじめ種々雑多の銅銭がまざり混在していたのだが、初期では明の国内でも宋銭のほうが信用されており明銭は宋銭より大きくて使い勝手が良くないことや新し過ぎて私鋳銭との区別が付かない、流通量が少ないなどで、明銭は悪銭として扱われていた。
だが、大内家や明応の政変で細川が掌握している室町幕府による撰銭令では明銭も宋銭と同様に扱うように命じている。
まあそりゃ自分たちが大量に輸入した銭が価値ないから使えないとされたら大内や細川は困るわな。
それはともかくこの頃市場に出回ってる銭でも特に私鋳銭は品質の差が激しくて材料に鉛を多く混ぜた物、大きさが明らかに小さいもの、厚みが薄いもの、一部が欠落した物、穴が塞がった物、字が潰れて判読不能な物など、非常に粗悪な物も多くあったのだが、こういったものは
そして面倒なことに銭は貫単位でまとめて扱われることが多かったからそれをすべて確認するのはとても大変なことだったのだ。
極端な話1000枚の銅銭の端二枚だけまともな銭を入れてその他は雑な私鋳銭なんてことも有ったわけでそれでも使えと幕府や大内が言えば言うほど貨幣が信用をなくしていったのは当然だな。
そういえば20世紀か21世紀かは忘れたが500円の代わりに当時の日本円に換算すると65円程度の韓国の500ウォンを使うという犯罪があった。
500ウォン硬貨の表面を僅かに削ったり、ドリルなどで穴を空けて重さを調整してそれを自動販売機に入れて、あとは返却レバーを操作し、本物の旧五百円硬貨をつり銭の取り口から取り出したり、ジュースを買って100円玉でお釣りを受け取ると言うもの、65円を500円へ変えられるんだから韓国人というのは大した錬金術師だよな、ま、韓国人全員が悪いわけではないにせよ韓国政府が偽造に使いやすいように500ウォンをつくったのは確かじゃないのかな。
この時日本国内で出回った500ウオン硬貨は10万枚近くあったらしい。
これが有ったせいで新500円硬貨を新しく作ったり、自動販売機のセンサーが異常に精度が上がってやたらと入れた硬貨が返却されるようになったり、返却される金は入れたものになるようにされたんだ。
話を戻すが統一政府による品質の均一な硬貨の鋳造が行われていない日本では15世紀中ごろに明が銭建て財政から銀建て財政へ変更したことと応仁の乱で統制が取れなくなったことにより室町幕府や大名、荘園領主、寺社などが鐚銭の混入を条件付きで認めることで様々な銭が入り交じった状態でも円滑な貨幣流通を実現しようとした。
具体的には大内氏が1485年に撰銭令を、1500年に室町幕府が撰銭令を出して管理を開始している。
大内氏の撰銭令は日本の私鋳銭である「堺銭」明銭の「洪武銭」粗悪な「打平め」の三種は拒否できるが、永楽銭や宣徳銭は一文として使える、ただし100文中、30文までに止めるべきというもの。
室町幕府の撰銭令は日本で作られた銭貨の「日本新鋳料足」を排除し、永楽、洪武、宣徳通宝は1文として通うことを命じている。
しかしこれをやりすぎて銭自体の流通量が減り永正十一年、永正十二年、永正十三年、永正十六年、大永五年、享禄二年に銭の流通量が不足し、取引に支障を来した。
永禄年間になると、伊勢大湊では永楽銭1枚=鐚銭7枚と決めるなど精銭と悪銭の貨幣価値にとんでもない差が生まれていたが、戦国大名の支配下にある国人地頭は『悪銭かえし』という行為を度々行っていた。
これは国人や地頭が名主百姓から買った大豆の支払いに『悪銭』をもって支払い、悪銭と精銭を同価値として、悪銭での支払いを強要するが、百姓が国人に対しての支払いに悪銭を使おうとすると国人は拒否するようなことだ。
これに怒った名主百姓が領主に代金の受け取りを拒否するあるいは精銭で支払えと強談することがしばしば行われて問題になっていた。
後北条のように経済政策と貨幣管理ができた東国大名は貫高知行制を存続できたが、浅井や織田はそれに失敗したことで、米建てになって貫高知行制が崩壊し石高地行制になっていくのだな。
西国でも大内などは分国法「大内氏掟書」において自分への年貢の貢納銭は撰銭し、庶民は撰銭するな市場では利用せよなどといっていたから市場における通貨の信用はどんどん失われて、またしても米が取引の主要な通貨代わりとなってしまったわけだ。
更には島津の加治木銭を代表に大友、毛利なども銭を私的に鋳造したため西国では貫高制が崩壊した。
撰銭禁令は民間の撰銭をなくすためのもので細川やその後引き継いだ三好長慶、三好三人衆、大内やその後を引き継いだ大友や毛利などが自ら大量に所有する粗悪な渡来銭などを市民に押し付けるための、利己的な悪法に過ぎないのだ。
三好長慶の衰退は永禄4年(1561年)の十河一存の死亡から始まるがこの辺りからすでに銭の流通に大分齟齬をきたしていたようだ。
さらにそれにとどめを刺したのが織田信長だ。
信長は、浅井長政が行っていたような「破銭(欠け銭・割れ銭)や文字のない銭は使用禁止」という撰銭令を発令しまず厳罰を課して撰銭の阻止を目論んだが、それは上手く行かなかったためその後、悪銭と良銭との交換レートを定める政策に改めている。
この行為がむしろ信長のおさめている地域においてより通貨の信用を失わせて米本位制を完全復活させた。
堺では文字のない無文銭が大量に作られ多くの撰銭令では、無文銭が排除の対象とされているが信長の統治した地域では通用したのだ。
わかりやすく言えば信長は500円だけでなく500ウォン硬貨の流通を認めたようなものだった。
実際、
他の城下町では無価値で利用できないとされた質の悪い銭が、岐阜では信長の命令によって通用した。
信長が法で定めたことで悪銭だからといって、岐阜商人は悪銭での売買を拒否できなかったのである。
そうなると悪銭を持った人々がほうぼうから岐阜に集まってきて、それで商品を買い漁った。
そして、岐阜に悪銭が集まり、店先から品物が消えてしまったのである。
そのため元亀2年(1571年)に至ると信長が禁じたにも関わらず信長の支配地域では米が取引の中心に戻り元亀2年から天正8年(1580年)にいたっては市場での信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用されなくなり、やがて毛利の領土内通貨である石見銀の流通が活発化した。
その後も重度に悪銭が畿内に集中し、東国に良銭が流通したため畿内から東国での銭での決済拒否が続出することになる、これがおさまるのは本能寺の変で織田信長が死に豊臣秀吉が撰銭令を撤廃し、金貨、銀貨、銅銭を鋳造し始めた後であるが、豊臣政権が短命に終わったことで徳川幕府がそれを引き継いでいくことになる。
一方、明銭である永楽通宝を基準通貨的に使ったのは伊勢・尾張・美濃・越中以東の東国で特に信長の影響が少なかった後北条氏の治めた関東東北では、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行っていた。
ちなみに九州では、1514年に相良氏が銭の階層を何段階かに定める撰銭令を出している。
「うーむ、九州でも明銭に関しては交換比率を統一してみるか?」
1542年に京の興福寺が宋銭と明銭を対等に評価したことによって永楽銭の評価は高まるのだが、銭の種類や状態が多すぎたこともあって、鐚銭と永楽銭の交換比率は場合や日、場所によって人によってまちまちで、鐚銭二枚でから十枚まで交換比率は様々だし、そもそも鐚銭は使わないという人間もいる。
「破損銭の使用は禁ずる代わりに太宰府で同等のものと交換するか」
俺は内容を紙に書き出し吉弘鑑理や樺山善久、相良晴広などと相談した。
「こんなものでどうだろうか?」
「一旦施行してみて交換比率などは厳格に定めるのではなく様子を見ながら行うのがよろしいかと」
「たしかにな」
そのうえで定めた撰銭法度の内容はこんな感じだ。
・・・
九州における銭や金銀に関しての交換比率を定めるものとする。
金銀銅の交換比率は金1両は銀50匁で永楽銭1貫文とする。
8分(約24mm)の大きさと
洪武銭、宣徳銭、開元通宝は2枚で1文とする。
皇朝十二銭、焼け銭、破損銭、
ただしこれらは大宰府や各国府にて10枚で加治木銭1文と交換が可能なものとする。
・・・
悪銭・鐚銭の使用を完全に禁じてしまうと、貨幣供給量が減ることでデフレになってしまうし、悪銭を良い銭と同じにすれば当然悪銭ばかり出回るようになる。
貨幣というものは少なすぎても多すぎても経済が回らなくなるのだが貨幣の品質と供給量を安定させるのは大事だ。
なので現在出回っている悪銭・鐚銭を回収して鋳造し直し、安定した取引ができるようにするしかないのだよな。
さて大量に加治木銭を鋳造して各国の国府へ輸送せねばならぬな。
現状のまま銅銭だけだと必要な枚数が多すぎて利用に不便なのもあるし、高額決済には金や銀を使うことを早めに推し進めていくべきか。
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