永禄4年(1561年)

第122話 上杉は国人を優先させて関東に侵攻したかそして越前加賀で10万を根切りにして一向一揆を鎮圧したぞ

 さて、上杉政虎の動向だが稲刈りが終わった後に結局越後から上野方面へ侵攻し、後北条は今年も上杉の略奪乱妨取りを受けることになりそうだ。


 結果として美濃の稲葉山城やその支城の強化はあまり意味がなかったかもしれないが、強化をしなかったら攻めてきたかもしれないと考えておこう。


 そして飛騨の南部を支配している三木が上洛してきた。


「お館様、姉小路良頼殿が参られましたぞ」


「うむ、会うとしようか」


 彼は三木直頼みつきなおよりの息子で三木自綱みつきよりつなと名乗っていたが藤原氏系の公家の家系であり飛騨守を継承していた古川姉小路家を朝廷工作で乗っ取り姉小路良頼と現在は名乗っている。


「うむ、よくこられたな」


「はは、遅くなり申し訳ございませぬ」


「うむ、そちらの所領及び官位については安堵しよう。

 そのかわり上杉と手は完全に切るようにせよ」


「……かしこまりました」


 彼は織田信長によしみを通じながら上杉謙信とも通じていたりするからな。


 情報を筒抜けにされたりしてはかなわん。


「今後の働きいかんによっては官司昇進や昇殿も許されるであろう。

 骨を惜しまず働くことだ」


「はは」


 そして飛騨北部を支配している江馬時盛えまときもりも鷹司の下についた。


 これで飛騨はこちらについたから上杉の美濃への侵攻も難しくなったはずだ。


 北陸のその他の勢力である越中の神保長職じんぼうながもとは一向一揆と椎名康胤しいなやすたねは上杉と結びついていることも有ってやはり上洛せず、能登の畠山義綱はたけやまよしつなは弘治の内乱のせいもあってそれどころではないというのが実情であるようだ。


 そして俺は北陸の一向一揆を殲滅するべく越前の朝倉・近江の浅井・若狭の武田・丹波の赤井・飛騨の姉小路・更には美濃や尾張の国人などは陸から、一色や山名などは水軍を用いた海からの攻撃準備をおこなわせ、翌年永禄4年(1561年)雪解けの後に道のぬかるみも消えた4月に俺たちは越前・加賀への総勢5万の兵を持って出兵を開始したのだ。


 一方、越前は愛宕山の山頂部の山城である燧城ひうちじょうに下間頼照と七里頼周は籠城していた。


 寿永2年(1183年)に木曽義仲が平惟盛を迎え撃つために築城したと言われるこの城は北陸街道の要衝に位置する。


「ふん、仏を恐れぬ鷹司の兵には必ずや仏罰が当たるであろう」


 そういう彼らのもとにいる一向一揆の信徒はそう多くない。


 北陸道の要衝である木目峠城の下間頼俊や西光寺・円強寺・府中竜門寺といった一向一揆に加わった寺の住職たちは真宗本願寺派の権威や権力を盲信しすぎ天台宗や真宗の高田派などの他宗派を弾圧した結果として国人衆や一般大衆、更には越前の一向門徒の一部すらからも支持を失っていた。


 永正3年(1506年)、越前九頭竜川にて朝倉宗滴を総大将とする朝倉氏と北陸一向宗との間に起こった九頭竜川の戦いではおそらくだいぶ誇張されているとは言え30万の兵を集めたとされ実際10万程度は集めていたと言われる、一方の朝倉は1万だがこの時は朝倉宗滴が指揮をとっていたため一向一揆は打ち破られたが普通なら数の暴力で押しつぶされていておかしくない。


 地理に詳しいこととよそ者に手柄を立ててられて土地を奪われたくない朝倉が先陣として越前と越前に進出してきている加賀の一向宗への総攻撃が開始された。


 彼等は西光寺・円強寺・府中竜門寺といった寺院にまず攻撃を仕掛け、それぞれ500程度の兵を討ち取りあっけなく占領し、それを聞いた下間頼俊、下間頼照、七里頼周は加賀へ向けて逃亡。


 一向一揆の指揮官が逃げ出したことで一揆衆は組織的な抵抗が不可能になり加賀から来たものは加賀へと逃げ帰り越前の一向一揆勢は山に逃げたとの報告が入った。


「ならば山狩りを行ない一向一揆に参加したのもは老若男女の区別なくすべて切り捨てよ」


 と俺は命じた。


「か、かしこまりました」


 こうして越前における一向一揆勢は寺にこもったもの、山に逃げたもの、村ぐるみで抵抗したものなど老若男女含め5万人ほどが根切とされ浄土真宗本願寺派の鷹司に敵対的な勢力は越前から駆逐されたのだったがもとが15万人くらいだとして越前の人口の三分の一くらいを殺したってことだな。


 今回の一揆に参加しなかった者たちには手を出していないので浄土真宗本願寺派が全て駆逐されたわけではないが戦う前に頭を下げてきたものまで根切りにするのはやりすぎであろうからそれはやってない。


 ちなみに天台宗の平泉寺も無事だ。


 ま、こっちも別に焼けちまっても良かったけどな。


「次は加賀かこのまま一気に押しつぶすぞ」


「おお!」


 史実において越前平定後信長はまず馬廻衆の梁田広正を加賀国の旗頭として据え、彼は加賀の2郡と大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たったが、兵力不足で討伐が進展しないどころか攻め込まれ更迭され、その後柴田勝家に加賀の制圧を任せているが彼も加賀の制圧には4年かかっている。


 これは越前とごく一部の加賀の兵おおよそ1万程度で対処しなくてはならずまだまだ兵が不足していたのもあるが、上杉謙信の介入や羽柴秀吉の無断での戦線離脱、別所や荒木が毛利に寝返ったことで石山や中国方面への攻撃を優先していたことなどもある。


 だが俺は西に憂いはなく、東は上杉と後北条で争ってるから上杉の介入も今のところはないだろう。


 上杉政虎も加賀が簡単に制圧できるとは考えていないはずだ。


 実際に80年近くの長い期間の自治を守り抜いてきた加賀の一揆勢には調略が通用しない。


 無論一向一揆も一枚岩ではないが、基本力で叩き伏せていくしかないのだから大変だ。


 とはいえ越前から素直に進む必要もない。


「水軍で急襲し加賀一向一揆の本丸である御山御坊をまずは落とすぞ!」


「おおっ!」


 まず、越前から朝倉を先陣とした軍を進め一向一揆の目をそちらに向けつつ、御山御坊の支城とも言える光徳寺、光専寺、光琳寺に上陸した全軍1万を持って攻めかかった。


 しかしながら一揆側の抵抗も激しい。


「進めば極楽、引くは地獄、引くな戦えい!」


「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏!」


 家久が切り込むがやや劣勢だ。


「く、これは叶わぬ引けっ、引け!」


「よし、鷹司は崩れた!追撃して討ち取れ!」


 もちろんこれは俺たちお得意の釣り野伏だ。


「はっはは、鉄砲の射線上へようこそいらっしゃい。

 鉄砲撃てぃ!」


 火を吹いた鉄砲から放たれる鉛玉に次々倒れる一向一揆の宗徒たち。


 そして前進を躊躇したところで反転して斬りかかる家久。


「狙うは大将首ぞ、皆のものきりかかれい!」


「おおおおおおおお!」


 そうやって指揮官を斬り殺しその勢いで寺を攻め落とし、そのまま周辺の砦を落とし、御山御坊を取り巻く支城を取り除いて丸裸としたのだ。


 御山御坊は台地の先端にあって、堀と石垣をを巡らせた堅固な要害ではあった。


 だが俺たちに味方した白山を信仰する住民の手引きを受けて、俺たちは背後の台地の獣道から御山御坊に侵入し火をかけた。


「はっはー景気よく建物に火をかけろー」


 これにより慌てて逃げ出してきた坊主達をバッサバッサと斬り殺し御山御坊を俺たちは占拠した。


 これによって加賀一向一揆の本丸が陥落したのだった。


 この頃越前から進軍している朝倉などの軍は下間頼俊、下間頼照、七里頼周を討ち取り、御山御坊と越前の間の一向一揆はほぼ壊滅し加賀一向一揆の最後の砦として残るのは白山の麓にある鳥越城と二曲城ふとげじょうの一向宗門徒集団である山内衆だけだった。


「もはや趨勢は決まったというのにまだ無駄な抵抗をするか」


 そして手取川の河原が決戦の場になった。


 山内衆の指導者である鈴木出羽守率る加賀一向一揆の残党は粘ったが圧倒的戦力差の前に殲滅された。


 加賀でもおよそ国の人口の半分である5万を殺し尽くすことでようやく越前と加賀の一向一揆を殲滅できた。


「越中の連中は無駄な抵抗はしないでくれるといいのだがな。

 平和主義者の俺としては」


 これ以上人口が減ったらどこかからの移住も検討しないとならんだろうな……。

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