第107話 比叡山延暦寺というのはただの天台宗の総本山というわけではない

 さて、比叡山からの強訴で俺を排除するようにという朝廷への訴えだが、朝廷としても俺という金づるを失うのも困るし、かと言って延暦寺の強訴を無視する訳にはいかないというのが正直なところらしい。


「これに関しては、私の方にて始末をつけさせていただきたくおもいます」


 俺は近衛前久を通じて朝廷へそのように申し込んだ。


「わかったが、なるべく穏便にとのことだ」


「かしこまりました、なるべく穏便にですね」


 さて比叡山は平安時代初期の僧である最澄により開かれた、日本の平安仏教で密教天台法華円宗の本山寺院であり、その最高権力者である貫主は天台座主と呼ばれるが皇室・宮家の出家した法親王や藤原摂家、準三宮扱いの足利将軍の出家したものなどがその地位につくことからわかるように非常に高い権威を持っている。


 もっとも天台座主には権威は有っても権力はなく、ただの飾りに過ぎなかったのだが。


 そして護国寺として重要な役割を持ち、平安京の鬼門を守る王城鎮護の大刹として、そして高僧の修養や修行の場所としても飛び抜けた存在であった。


 その創建初期から、南都の仏教勢力と対立していたことなども有って延暦寺は武装化を進め、平安時代末期には強大な権力で院政を行った白河法皇ですら自らの意にならぬものの一つに比叡山の山法師を挙げているが、後の2つは度々洪水を起こす賀茂河の水と、禁止しても一向に効果がない博打のことだが、延暦寺は天元4年(981年)に強訴を行ってから今の戦国の時代に至るまで度々強訴を繰り返してきた。


 そして比叡山は単なる僧が修業をする場所ではなかった。


 もともと比叡山は琵琶湖のそばにあるため夏は湿気がひどく、冬は寒気が厳しい場所であった。


 それ故に、60歳を過ぎた僧は天台座主の許しを得て、麓の坂本に下りて住むという習わしができていたが、近年は僧の殆どは坂本に住んでいたので山の上の山坊との対比とし坂本の街は里坊と呼ばれていた。


 比叡山延暦寺の里坊の町である門前町坂本はいろいろな利権を持っていた。


 その利権の一つが、市と座である。


 基本的にこの時代においては常設の店舗を構えての商売というのは京の都や堺、博多など一部の商人が自治と武装が可能な大都市でしか行われず、基本的には四日市や八日市のような月の特定の日に門前にて定期的に開かれる「市」が中心だ。


 この時代では銭や物を持っていると見られればそれを奪おうとするものが多いからでもあるが、門前というのは人があつまるし、寺は武装集団を抱えているから、市の際に土地を貸す権利や市の開催権そのものも寺社が握っていたのだな。


 そして市に加わる方も門前であれば物品を奪われる心配をしないですんだ。


 それをやればやった方は寺を敵に回すからで、商売をする方も地代を払ってもそのほうが安心だったしそのために座という特権商人も生まれるわけだ。


 基本的に酒、麹、味噌、絹、油などはほぼ寺社の専売だった。


 六角が最初にはじめたという楽市楽座というのは、大名が寺社から特権的な商業の権利を自分の統治している城下町などでも市を行うことでその既得権益を奪うことだったのだ。


 そして坂本では坊主が土倉という金貸し業を大々的に行なっていたし、それは年利5割から8割という高利で貸して、延滞すれば容赦なく僧兵を差し向けて取り立てにかかり、金を返さなければ罰が当たると言って脅し、武力に訴えて土地を奪ったり娘を売らせたりもしていた。


 本来は出挙(すいこ)として日本という国が農民へ種籾を高利で貸し出していたのものが発展したものだが、やがて私的に出挙を行う者も出てきて、それは「私出挙」と呼ばれたがそれを日吉大社が始めたのがどんどん発展していったのだ。


 更に比叡山は馬借と琵琶湖の関所も管理していたから、北陸道や東山道から運ばれる物品の流通そのものも牛耳っていた。


 信長が延暦寺や雑賀の本願寺系列の寺や高野山などを焼き、秀吉が根来寺を焼いたりしたのもそういった既得宗教が仏罰などというものをたてにとって更には武力を持って政治にも介入するのを嫌ったのが大きいのだな。


 そして有力な寺院にはだいたい何らかの後ろ盾が有った。


 比叡山延暦寺の後ろ盾は主に皇族宮家などの朝廷であるし、鎌倉五山・京都五山などの禅宗の後ろ盾は室町幕府、石山本願寺の後ろ盾は日野氏や細川氏であったし興福寺や根来寺の後ろ盾は藤原氏、日蓮宗は三好が庇護していたのだ。


 結局こういった寺院が権力を何故持つことが出来てそれを維持し続けられたかと言えば、権威権力の後ろ盾もあり更には様々な教養と経済を独占し武力を保持できたからだろう。


 坊主には祈祷や呪詛・医療知識による一般人への生殺与奪権があると信じられていたのも大きいとは思うが。


 もっとも明応8年(1499年)に細川政元が行った大規模な比叡山延暦寺の焼き討ちにて山上の主要伽藍はことごとく焼かれたため、建物などはほとんど再建されておらず、結果としてまともな坊主は殆ど残っていないというのが現在の実情のはずではあるが。


「国家の安泰と臣民の安寧を守るべき寺が銭を貸し付けたのちに返せないとならばその田畑を奪い、娘を奪い売り飛ばし、生臭をくらい、女を連れ込み、民を苦しめるのは本来あるべき姿ではなく、すぐさまやめ修業に励み祈りの祈祷を捧げるべきである。

 院来、学生はなぜ堂衆、公人の暴挙を黙認するのか?

 比叡山は彼等の行いを止めるべきである」


 俺は比叡山にこのような文と使者を送った。


 しかしいっこうに返答はなく、文を何度も送ったがやはり無視された。


 これ以上、院来・学生ら仏道を修めた学僧が堂衆・公人ら雑役を行うものたちの暴挙を咎めずこちらの要求を無視するのであれば、坂本の街を焼くぞと最後通告を突きつけることにした。


 もっとも院来・学生らが修行修養に専念できるのは堂衆・公人らが金を稼いでくるからと言うのもあったりするし、これらは内部で対立していたりもするのだが。


 それに対して比叡山は再度の強訴を試みた。


 比叡山は朝廷に要求を突きつけて、それを通せる存在だと思いあがっていたようだ。


「薩摩の田舎者に鷹司の家を継がせるとは情けなきことよな。

 まあ、我が比叡山は将軍や管領も頼ってくるわけだし奴らは我らの要求をおとなしく飲めばよいのだ」


 もちろん堂衆・公人はそんな細かいことを考えていない。


 逆らうなら切り捨て、見目がいい女がいれば犯し、銭を奪いうまいものを食えればよかったのだ。


 逆らうものは仏敵となる以上彼らに逆らうものはいない。


 そのはずであった。


 もちろん現在の天台座主であり伏見宮貞敦親王の子供である応胤法親王はそのような状況に頭を痛めていたが、実質的な権力は天台座主にはなく彼には何もできなかった。


 そして比叡山の堂衆・公人らによって日吉大社の神輿が、御所前に運び出されようとしていた。


「さあ、皆のものゆくぞ!

 この霊験あらたかな神輿を担いだ我らの道先を遮る事ができるものはおらぬ!」


「おおー!」


 もっともかつて白河上皇にままならぬと言わせた神輿では有ったがここ200年ほどは神輿を奉じて山城に入洛しても、その途中に幕府の兵に撃退され、神輿を棄てて逃げ出すことも度々有って平安や鎌倉の時代に比べてその霊験権威は明らかに落ちていたのだが。


 やがて日吉大社の神輿を押し立て、裹頭で頭を包み、高下駄をはいて、薙刀を抱えた堂衆・公人らが比叡山から行列をなしてやって来た。


「奴らの処理は任せるぞ」


 俺は宇喜多直家にいう。


 直家はにやりと笑っていった。


「は、全ておまかせくださいませ」


 さて直家がやったことは簡単だ。


 叡山からやって来た連中に叡山に対する島津の非礼をわびて頭を下げ、島津によるお詫びの歓待と称して洛外の廃寺を再建して毒飯を食わせ毒酒をたらふく飲ませて逃れようとしたものは刀槍弓矢で皆殺しにしたのだ。


 そしてその場には”不飲酒戒”と大きく書かれた額を貼った。


 最澄は入滅の間際に不飲酒戒を破った者は自分の弟子でもなく、ましてや仏弟子でも無いと断罪していたことを日蓮法華の衆徒は大きく触れて周りこれにより酒を飲んで死んだ天台の堂衆・公人らの面目は大きくつぶれた。


 そして残った神輿には日蓮法華宗の僧侶に対処してもらった。


「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 不飲酒戒を破ったものには仏罰がくだった。

 叡山始祖伝教大師はさぞや嘆かれておろうがその意思は日蓮大菩薩にて継がれた。

 この神輿は我らが寺にて預かろうぞ」


 と神輿に札を貼り付けて彼等日蓮法華宗の寺へと運び込んでいったのだ。


 もちろんそれによって仏罰が当たることもなく、このことにより法華の正統は天台宗より日蓮宗にうつったと日蓮宗を信仰する者が多い洛中の住人は思ったのだった。


 今までは神輿が放置されても仏罰神罰を恐れて何もできなかったがそれも通用しなくなった。


 そして朝廷・宮家も自分らが困窮しているのに、自分達より贅沢をして堕落している比叡山を見限ったのだ。


 今上帝は神輿に対して勅使を派遣しその正統性を認可した。


「叡山よりの遷座、このことは日吉大神もお認めになったことである」


 そう今上帝が宣言しその後にそれを不服として再び武装して京に入ろうとした叡山の堂衆・公人らは、俺の部下である武士により無法者として討たれるか囚われた。


 悪僧も神罰仏罰と言うものがなければ只の人間に戻ってしまうのだから簡単なことだったし当然そういったことを行っても仏罰など当たらなかった。


 これが比叡山が長い間保持していた目に見えないに仏罰という権威が崩れ去った瞬間だったのだ。


「では坂本を六角とともに制圧しよう、座主様などは予め退去しておいていただくように。

 また酒を飲む者、売り買いするものは破門と通達していただこう。」


「かしこまりました」


 その後何度かの退去勧告を行った後に俺は六角とともに坂本の街を制圧した。


 あくまでも街を制圧しただけで比叡山には手を出していないがな。


 堂衆・公人を殺しても仏罰は当たらない、そうわかってしまえば彼等の立場はいままでと逆転し弱くなったのだ、酒を飲んでいないものはほとんどいなかったからな。


 しかしそれは開祖より禁じられていることなのだから破門されても当然だ。


 北陸や美濃などのかっては強い権威を持っていた地域を真宗本願寺派に押さえられていた天台宗寺門派はこうして没落していくのだった。


 民間信仰を念仏仏教に奪われ、護国の権威を禅宗に奪われた天台宗は朝廷の庇護あってこそ公的権威を持ち続けられたのである。


 その後、比叡山は俺の寄進により山の建築物の再建が進められ、まっとうな仏僧の修養と教育の場所として再生されていき、坂本にいた武装した悪僧たちは北陸の天台系寺院へ逃げ出していった。


 山城や近江に比べれば北陸ではまだまだ天台の威光は残っていたのだった。


 そしてその後、朝廷より仏教宗派に対して通達が有った。


「寺社は朝廷が行う護国鎮護の政に、口を挟むべきではなく朝廷の力になるべく祈念祈祷に全力を尽くすべきである」


 これにより今までは朝廷に逆らって好き勝手やっていた寺社も迂闊には動けなくなったのであった。


 高野山や園城寺・興福寺や根来寺であっても同じような目に合わないとは限らないのだから。

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