八 森と妖精(吟遊詩人視点)



 頭の後ろに手を回して、呪布の結び目を解く。黒い布地に黒い糸で魔法陣が縫い取られている一族秘伝のそれは、光を透過させると同時に地の魔力視を封じる術が組まれていた。おどろおどろしい黒なのが不満だが、彼の住んでいた集落にはなぜかそれしかないので仕方なく我慢している。全く、あの人達はもう少し彩りとか、そういうことについてよく考えた方がいい。普段着は散々お洒落にしているくせに、こういう伝統の衣装となると途端に頭が固くなるのだ。吟遊詩人はそう考えて僅かに唇を尖らせ、子供っぽかったかと思ってすぐ引っ込めた。


 ぐるぐると三重に巻かれている布を外すと、視界に色が溢れた。陽光のようにほのかな黄色の中に森の緑と……虹を散りばめたように遠く木立の向こうまで、生き物の持つ生命力が光となってきらめいている。美しいが、ずっと見ていると疲れるような光景だ。故に彼の一族は皆、普段はこうしてこの魔力視を遮断しているのだった。


 目を細めて、色とりどりの景色の中から眩しい銀色を探す。


 魔力とは強い生命力だ。ただ己の命を繋ぐ以上の生きる力を与えられたものだけが、魔法という神秘の力を使うことができる。故に、命の女神の祝福である地の魔力を授かった吟遊詩人の目には、魔力の強い剣の仲間達がとても輝いて見えていた。


 森を透かして、遠くに星のような光を見つけた。「いたよ」と指をさすと勇者が頷き、道を外れて森へと踏み込む。あたたかいあかがね色の光をはらむ体躯に、空色の瞳が鮮やかに映えていた。少しよろめいている清浄な水色と、光溢れるなかでは少しほっとするような暗い影の色がその後に続く。


 銀の妖精が走り去った時は驚いたが、それも無理はないと吟遊詩人は草をかき分けて歩きながら思った。今までは地下世界の木々の葉の色を素直に緑色と認識していたが、今思うとあれは黒ずみ、紫がかった緑色だった。


 視界いっぱいに鮮やかで艶やかな明るい緑が、木漏れ日の金色と混ざり合いながら降り注いでいる。本物の太陽の光を浴びて育った森は、その命の発する光も段違いだった。魔法使いの目にはそこまで見えていないだろうが、しかし花の女神の被造物であるエルフ、つまり花の妖精であるルーウェンがこの輝きを感じ取れないはずがなかった。


「あいつ……どこまで行ったんだよ……」

 森へ入ってすぐに遅れだした神官を背負って先頭を進んでいた勇者が呆れた声で言った。


「もう少し真っ直ぐ行くと、お花畑があるみたい。そこにいるよ」

 木々の向こうに見える銀の星の先には少し開けた場所があり、丈の低い淡い白の光が広がっていた。植物は基本的に地の女神テールの緑色を帯びるが、花だけはリーエルフローラの白に光るのだ。


「ゆ、勇者……降ろしてください……」

「なんだ、吐きそうか?」

「それはまだ大丈夫ですが……揺れると、少し」


 勇者が背中から青い顔の青年を下ろす。その時に神官の手が聖剣に触れたが、魔力が動く様子はない。聖剣を手に入れようとする者、あるいは聖剣を勇者から引き離そうとする者からしか魔力は奪われないとわかったとはいえ、神官がまるでただの鉄の剣のように何の気負いもなく触れられるのは流石だと思う。自分だったらきっと、心の底に自分でも気づかぬ欲望が隠れているのではないかと、もう少し身構えてしまう。


 地に足をつけてほうと息を吐いた神官はどうやら揺れると気分が悪くなるらしいが、降りると歩くのが遅い。しかし花畑に見える妖精の影はじっと立ったまま動く様子もないので、一行はまだ具合の悪そうな彼に合わせてゆっくりと進むことにした。幸い、ここまで来れば後はそう遠くなかった。


 小さな花畑に、薄曇りの空から淡い光の柱が差し込む。けぶるような白紫色の花が一面に咲いている端に、ほっそりとしたエルフが背を向けて佇んでいた。いつの間にか魔術を解いていたらしく、ふわりふわりと漂う星が周囲の空気を輝かせている。


 彼女のその気配が……何がとは言えないがどこかいつもと違う気がして声をかけあぐねていると、腰に手を当てた勇者が魔法使いの背を眺めて仕方なさそうに呆れたため息をついた。

「ルーウェン……探したぞ。あのな、森が嬉しいのはわかるが、黙ってどっか行くのはやめてくれ」


 その声にふっと、月と真珠を溶かして混ぜ合わせたような腰下までの髪をなびかせて妖精が振り返る。


 そしてその顔を見て、仲間達が一斉にハッと息を呑んだ。


 それほど衝撃的だった。いつも穏やかな虚無しか映していない彼女の瞳が、キラキラと歓喜の色にきらめいていたのだ。しかし驚いた彼らがそれを見つめられる時間はごく僅かだった。魔法使いが追い掛けてきた仲間に向かって「花が……」と囁き、唇がほんの僅かに笑みの形を作った瞬間──頭の中に花が咲き乱れる情景が溢れかえって吟遊詩人はよろめいた。


 なんて、なんて美しいんだろう。薄紫色の花が白い光をふわふわと浮かばせ、やわらかな甘い香りが風に乗って流れてくる。曇り空から降ってくる光が雨のように心を打って、打って、そして──


 彼が頭を振って魅了を振り払うと、案の定勇者が地面に座り込んで目を回していた。見回すと神官は虚ろな目をしてふらふらと揺れていて、どうやら目を合わせてしまったらしい賢者が、この手の魔法には絶対的な耐性を持つ気の愛し子の地位も虚しく脱力した様子で木に寄り掛かっている。


「……魔法使い、魅了を引っ込められる?」

 思ったよりも情けない声が出た。幸せそうに微笑んでいるエルフは──直視すると目眩がするので少し目を逸らす必要があった──それを聞いて不思議そうに少し首を傾げ「……魅了?」と呟く。


「魔力がかなり漏れてるから、少し引き寄せてみて」

 妖精が小さく頷くと、あえかな光を周囲に漂わせている星が、緩やかなつむじ風のように中心に向かって集められた。神官と賢者が夢から覚めたように顔を上げ、へたり込んでいる勇者を皆で揺すって起こす。


「……今日はここで野営にするか?」

 しかし、まだぼうっとしている様子の勇者が魔法使いに提案すると、この花畑で一晩過ごせるなんてと喜んだ妖精がぶわっと星をばら撒いて、哀れな狩人は再び「ああ……緑が、花がキラキラしてる」とか言いながら昏倒した。賢者が魔力を纏わせた手でバチンと頰をひっぱたくと、ううっと疲れた声で呻きながら起き上がる。


 まあ、そんなこんなで勇者は狩りに出られそうもなく、また魔法使いも花や葉っぱをつついたりすることに夢中だったので、その日の晩餐はパンやチーズ、干し肉といった保存食で済ませることになった。


 街に滞在している時と違って、森での夕食は早い。まだ明るいうちに片付けや寝床の準備を終え、日が暮れてからはあまり焚き火の側を離れず静かに過ごすのだ。

 赤い夕日が紫色に姿を変える頃には、食事を終えて皆で焚き火を囲んでいた。吟遊詩人は軽くリュートをつま弾きながら『空色の物語詩』と名付けた冒険譚を歌い、勇者が体を丸めて恥ずかしがる様子を笑っていたが──その時ふと思い立ったように妖精が近くの木に登り始めたので、彼は弦をはじく手を止めてそちらを見上げた。


 軽い身のこなしであっという間に木の上に辿り着いた魔法使いはもう元の無表情に戻っていたが、彼は太い枝に腰掛けてそれでもどこか嬉しげに頭上の梢に手を伸ばした。一枚の葉を優しくつまむと、葉脈をなぞるようにしっとりした手つきですうっと撫で下ろす。すると、木の葉が葉先から解かれるようにするすると銀緑色の糸に姿を変え、下ろされる手に合わせて下へ下へと伸びていった。妖精の糸紡ぎだ。


 その様子は大変幻想的だったが──吟遊詩人は、以前このエルフが勇者の弓の弦を紡いだ時に「虫みたいな感じ」と言っていた理由がわかった気がした。


 妖精は頭の上にある枝の葉を垂直に下ろすように紡いでいって、自分が腰掛けている枝までその先を伸ばすと先端をくっつける。時折太さを変えながらそうやって次々に糸を下ろし、縦線だけの蜘蛛の巣のようなものを作っていくのだ。


「何だ、巣作りか?」

「……違う」


 もう少し尋ね方があるだろうという勇者の声に、魔法使いが緩やかに首を振りながら目の前に張られた糸をポロンと弾くと、薄紫の花畑に優しい音が響いた。


「……ハープだ」

 ぽつりと呟くと、振り返った勇者がなるほどという顔で頷いた。


「……ハープは木の上で弾かないとって、こういうことだったんだね」

「……ん。葉っぱの方が、かわいい音がする」

「そっか」


 可愛いというより、花のように繊細で可憐な音だった。妖精の奏でる音楽は──どう表現したら良いのだろう、人間にはとても思いつかない不思議な音の並びをしていて、それなのに堪らなく心地良い素敵な曲だった。吟遊詩人は目を閉じて、少しでもその音楽を覚えようとじっと聞き入った。これをリュートで弾くとすると……人間用に定められた調弦では音が作れない。少しずつずらした、しかし完璧に調和する点を見つけないと──


 じっくり聴けば聴くほど、脳裏に美しい森や湖、虹のかかった空の情景が浮かんでは消えていった。花の女神は愛と芸術の女神でもある。その魔力が込められた音は優しい愛に満ちていて、そしてずっと聞いていたいような美しさに溢れていた。


 ああ、花の魔力が羨ましい。でも妬んだところで仕方がない、地の魔力で奏でるのに相応しい音を、僕は僕で探さなくちゃ……。


 目を開けて仲間達を観察する。魅了で完全にひっくり返っている勇者は別として、みな眠たげにうっとりとした優しい表情を浮かべていた。吟遊詩人は目を細めて、自分も仲間達にこんな顔をさせたいとその様子を見つめる。彼女の演奏が終わったら少し再現してみようと考えると、自然とリュートを構えるように手が動いた。





 その時吟遊詩人がそうやって真剣に考えを巡らせていて、なおかつ魔法使いの魔力の流れを見るために呪布を外していたのが幸いした。夕暮れ時の美しい花園で、妖精のハープに聞き入っていた少年が突然素早く立ち上がって鋭い声を出す。

「賢者、勇者を起こして!」


 さっと立ち上がった賢者がぐいと仲間の胸ぐらを掴んで張り倒す。「いてっ!」と声を上げた勇者が飛び起きた。


「勇者、魔狼ヴォーラの群れがこっちに向かってる。ここまであと五分もない。十七……いや、十八匹だ」





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