シダル 信念の勇者と親愛なる偏奇な仲間達
綿野 明
プロローグ
それは他のどんな赤とも違う、煮えたぎる溶岩のような熱い色に爛々と輝いていた。人の頭より大きいのではと疑うその瞳がぎょろりと動き、切れ込みのような瞳孔がカッと開かれて彼を見据えた。
背筋に悪寒が走る。鱗さえも赤々と燃え立つような竜は、そんな勇者の一瞬の怯みを感じ取ったように薄く顎を開いた。これは決して人が相手にしてはならぬものだったのだと、そう絶望させるような強者の気配を存分に纏って。
◇
彼は古い物語のように預言の子として生まれ、勇者として育てられたわけではない。辺境の村の狩人として弓を片手に獣を狩るばかりで、例えば魔法とか、勇者とか、魔王とか、そういうものは彼にとって童話の中にしか存在しないものだった。
それが今、どういう因果か彼は剣を振り回して巨大な竜と激戦を繰り広げている。太く鋭い鉤爪が一閃する度、受け流す刃が嫌な音を立てて軋んだ。今は確認する余裕もないが、おそらく刃こぼれもしているのだろう。
「──勇者よ。流石にそなたもこの程度は存じておろうが、赤竜は火を吐くぞ」
その時、後ろから億劫そうな賢者の声が聞こえた。
「仮に知らずとも、推測は可能であろう。口元から漏れ出る煙が見えぬのか? 竜が怒りを増し、喉奥にある炎袋の温度が急激に上昇している証だ。煙の色からして、もう間も無く灼熱の炎を──ふむ、
避けなさい。じゃない! もっと早く言え!
勇者は心の中で声の限りに叫びながら、必死の思いで地に身を投げた。地面をゴロゴロと転がりながら、轟音と共に吐き出された炎を回避する。命の危険をひしひしと感じる熱が間近を通り過ぎ、髪の毛の焦げる匂いがした。辛くも炎には触れずに済んだにも関わらず、剣を握る右腕が焼けるように熱い。いや、実際に焼けているのだろう。傷の具合を確かめようと視線を下げかけ、いやと思って強引に視線を逸らした。今、傷を目にすれば余計に痛みが増してしまう。そんな隙を作れば、あっという間に次は頭から焼かれるだろう。
とその時、竜に向き直って視線を鋭くした勇者の視界の右端に青い光が見えた。同時に感覚のなくなりかけていた腕がひやりとして、すうっと痛みが引いてゆく。
「応急処置ですが」
神官の落ち着いた声がする。
「十分だ!」
勇者は強く剣を握り直すと背後の仲間に明るい声を返し、にやりと獣のような笑みを浮かべて竜の瞳を見返した。そうだ、俺には仲間がいる。もう俺は「ひとりぼっちの狩人」じゃなく、「剣の仲間」の一員で、神に選ばれた勇者なんだ。
そう考えると目の奥に熱いものが込み上げたが、しかし勇者は奥歯に力を入れてそれをどうにか耐えた。浸っている暇はない。彼が炎を逃れたことで更に怒りを増した赤竜が、今も彼を、そして彼の大切な仲間達を殺そうと身構えているのだ。
「賢者! 赤竜の弱点は!」
叫ぶように問うた勇者に、心底馬鹿にしたような声で、しかし間髪入れずに賢者の声が返される。
「寒さだ。炎を吐く竜だぞ、多少は頭を使ってみたまえ。全く嘆かわしい」
戦闘中でも変わらない賢者の辛辣な口調に、危機的状況にも関わらず笑いがこみ上げた。戦うすべを持たない彼が全く怯んだ様子を見せないのは、自分を信頼しているからだとつい自惚れてしまう。
「寒さ……魔法使い、氷魔法を頼む! 俺が隙を作る!」
勇者はそう吼えると同時に竜に向かって疾走し、薙ぎ払うように振り回される尾を
竜の首が彼を追って真下を覗き込み、背後の仲間が視界から外れた。
勇者が身を翻すと、宝石のようにきらめく竜の腹にドンと背中がぶつかった。再び襲いかかった爪を受け止めれば、目の前でピシリとオリハルコン製の刃にヒビが入る。間近に迫った巨大な顎から、濃い煙の匂いがする。
一秒、二秒、三秒。
剣を押す鉤爪に竜が力を込める。勇者は膝に渾身の力を込め、崩折れるのを耐えた。ざりざりと音を立て、
「魔法使い!」
返事はない。まだ詠唱が終わらないのか。
「魔法使い! もう保たない!」
焦りが募る。背中は竜の腹に痛いほど押しつけられ、剣に走った亀裂が少しずつ大きくなっているのが見える。額に滲んだ脂汗が目に入るのを振り払い、勇者は魔法使いのいる方へ目を向けた──
「……は?」
焚き火の上には仲間達全員分の食事を作れるだけの大きな鉄鍋が掛かり、中で何かがコトコトと煮えていた。煙と土埃の匂いに混じって、よく煮込まれたシチューの良い香りが漂ってくる。
草の上に腰を下ろしてのんびりと鍋をかき混ぜていた魔法使いが、ふと振り返った。何が起こっているのかわからないまま呆然と赤竜に追い詰められている勇者に視線を合わせ、不思議そうにほんの少し首を傾げる。
「──魔法使い魔法使い、氷魔法だって」
向かいで鍋を覗き込んでいた吟遊詩人が、小声で教えてやる。
「……聞いてなかったのか?」
掠れた声で呟いた勇者を、リュートを抱えた少年の緑の目が上から下までまじまじと見る。
「ええと、ごめんね? 僕もちょっと鍋の方見てたんだけど……勇者、もしかして結構ピンチ?」
ポロロンと、やわらかな音色が虚しく響く。
「ああ、その、結構……?」
ぽかんとしたままの勇者がふと上を見上げると、剣を押す力をほんの少し緩めた赤竜が、心なしか気の毒そうに彼を見下ろしていた。 それに瞬きを返して、再び仲間達──というか、シチューの鍋の方を見る。
「ええと……その、お前ら、その鍋はいつから」
しかしその時、じっとこちらを様子を伺っていた竜が地鳴りのような声で低く唸ったのを聞いて、勇者はハッと我に帰った。
そうだ、戦わないと。魔法に頼れないのなら……確実に目を潰す。それしかない。
勇者はぐっと腹に力を入れて力任せに鉤爪を弾き飛ばし、背後に飛び
いける!
そう確信した。時の流れが遅くなったような感覚の中で、正確に瞳を刺し貫こうとしたその刹那──
「いけません!」
空気を裂いて響いた神官の悲痛な叫び声に驚いて剣を引っ込めた瞬間、逃げること叶わぬ空中の勇者に竜が鉤爪を振り下ろした。
次の瞬間、熱く堪え難い痛みが勇者の全身を襲った。 肩から腰までを大きな鉤爪でざっくりと切り裂かれ、勇者は悲鳴と血飛沫を上げながら地面に叩きつけられた。
「勇者!」
神官が蒼白な顔で立ち上がり、早口で祈り文句を唱える声が聞こえた。全身を淡い水色の光が覆って、何度経験しても慣れない熱いような冷たいような独特の感覚が体内を駆け巡る。
ああ、神官。確かにお前は殺生を嫌う優しい奴だ。俺だってその精神を頭から否定するつもりはない──煮えたぎるような痛みが徐々に引いてゆくのを感じながら、勇者は思った。
だが神官よ。頼むから、もう少し後先考えて声をかけてはくれないだろうか。
そこまで思ったところで、勇者は気を失った。
◇
それから──どのくらい経ったのだろうか? 暗闇だった視界の中にほんのりと、瞼を透かして光が見えた。呻き声を上げながら目を開けると、なんと目の前で逆光になった巨大な竜の顔がこちらを見下ろしている。
「うわっ!」
思わず叫んで飛び起きた途端、ひどい目眩に襲われて勇者は再び地面に転がった。ズキズキと痛む頭を押さえながら強引に身を起こしてベルトから短剣を引き抜くと、慌てた様子の神官が駆け寄ってきて彼の肩を押さえる。
「まだ傷を塞いだばかりです、起き上がってはいけません!」
「来るな! 下がってろ!」
勇者はよろめいて片膝をつきながら、咄嗟に神官の襟首を掴んで自分の背後に庇おうとした。しかしよくよく周りを見ればのんびり焚き火を囲んでいる仲間達が一人として竜に襲われていないことに気づいて、眉をひそめながらゆっくりと構えた短剣を下ろす。
「……何だ? どうなってる?」
視線を持ち上げれば、なぜだかすっかり大人しくなって、その上なんだか憐れむような色をした竜の瞳と目が合った。
「お前……なんでそんな目で俺を見てる?」
意味がわからないままじっと竜と見つめ合っていると、その時突然目の前に湯気の立つ椀が差し出された。 腕を伝って見上げれば、エルフらしい鳥肌が立つほどの美貌が台無しのぼんやりした無表情で、魔法使いがシチューを差し出している。
「……失血しているから、食べないと」
状況はさっぱりわからなかったが、おっとりした声を聞くとどっと緊張が崩れた。
ぐったりと体が重くて、ため息をつくのも面倒だ。勇者は無言で椀と匙を受け取ると、地面に腰を下ろして熱々のシチューを口に入れる。
あ、美味い。
勇者はほうと小さく息をついた。いつものことながら、魔法使いの料理の腕前は実に素晴らしかった。たった一口の中に肉の脂と野菜の甘みが絡み合い、柔らかく煮込まれた具材が舌の上でとろけてゆく。ただただ濃厚で腹を満たす味かと思えば、次いで少し刺激的な香辛料の香りがすっと鼻を通り抜けた。ああ本当に、涙が出るほど美味しい。
皿を綺麗に空にして、時間をかけて丁寧に作られたに違いない食事にもう一度満足のため息をついた勇者は、目を閉じるとゆっくりと深呼吸をして、ふつふつと湧き上がってくる感情を我慢した。そう、戦いの日々で鍛えられた忍耐力でそれは我慢した。腹に力を入れてじっくりと二十秒耐えたが……木に寄りかかって腕を組み、馬鹿にしたような半笑いでこちらを見下ろしている賢者の顔を見た瞬間、頭のどこかでぷつりと音がした。
勇者は大きく息を吸うと、失血でふらつく体が許す限りの大声で怒鳴り散らした。
「──おい魔法使い! 一体何を考えて戦いの真っ只中でシチューなんて煮込んでた!!」
すると木漏れ日色の長い髪を輝かせた美しいエルフが、びくっと肩を揺らして神官の陰に隠れながら囁く。
「ごめんね……でもみんな、お腹が空いたかと思って」
「竜に襲われてるってのに腹が減ったもクソもあるか! お前はいつもいつも、目の前に魔獣がいてもおやつは食べるわ話は聞いてないわ……子供じゃないんだから、ちゃんと周りを見て行動しろ!」
「勇者、落ち着いてください。お体に障ります」
魔法使いに壁にされながら心配そうな声でそう言った神官にも、当然言いたいことがあった。
「お前もだぞ神官! 戦いってのはな、一瞬の隙が命運を分けるんだ! お前が優しいのも戦闘が苦手なのも構わんが、せめて変なところで『だめだ』とか『やめろ』とか叫ぶのはやめてくれ!」
「しかし勇者……たとえ相手が竜であったとしても、目を抉るなんて残酷なことは」
「今は善悪の話をしてるんじゃない、物事には
そうやって勇者がぜいぜいと肩で息をしながら文句を並べていると、焚き火の前でさらさらとリュートを奏でていた吟遊詩人が困ったように笑った。
「まあまあ勇者、この人達が変なのはいつものことじゃない。まだ傷が治ったばかりで血が足りないんだから、今は落ち着いて……ほら、君の好きな曲を弾いてあげるからさ、少し気分転換しなよ」
仲間の中で一番年若い少年の気遣いに満ちた言葉を受けて、常になく荒れ狂っていた勇者は少しだけ冷静な気持ちを取り戻した。彼は不満を押し殺して口を閉じると、感情の赴くまま喚いてしまった自分に顔をしかめながら振り返る。がしかし、比較的まともなことを言っているような気がした吟遊詩人はなぜか丸太ほどの太さがある竜の尻尾に腰掛けていて、彼はもうわけがわからなくなった。
「おい、変なのはお前もだろうが! なあお前ら、なんでこの竜を目の前にして、というか竜と一緒に呑気に焚き火囲んで飯を食ってるんだよ! いい加減にしてくれ、一体この状況は何なんだ!」
勇者が頭をかきむしりながら叫んでいる間にも、魔法使いが小さな匙で巨大な竜の口にシチューを入れてやっている。するとそれまで黙っていた賢者が呆れたように深々とため息をついた。
「少し静かにしなさい、騒々しい……」
「賢者……! お前、お前って奴は」
そんな風に事態は混迷を極めかけていたが、しかしその時ざらざらとした巨大な舌が己の顔をべろりと舐めたので、勇者は目を瞬かせて叫ぼうとしていた罵倒を飲み込んだ。振り仰げば、赤竜がかわいそうなものを見る目で勇者を見つめ、そして彼のおかしな仲間達にちらりと目を
「なあお前……もしかして、俺を気の毒に思って襲うのをやめたのか?」
顔のよだれを袖でごしごし拭いながら尋ねれば、グルルと地響きのような、しかし優しさを感じる音で小さく唸り声が返ってくる。言葉は通じなかったが、不思議と心は通じ合っている気がした。
「お前、優しいやつだったんだな」
勇者が一抱えもあるキラキラした大きな鼻先に手を触れると、竜は哀れな勇者を甘やかすようにそれをそっと押し返した。
人ではなかったがようやく常識のありそうな味方を得て、勇者は肩を落とすと深く息をついた。彼の仲間はどいつもこいつも変な奴らばかりだったが、しかしもしかすると彼らが変な奴らだからこそ、今の状況があるのかもしれなかった。落ち着きを取り戻してきた心で少し微笑むと、赤く輝く美しい竜の鱗をもう一度撫でる。そう、今こうして新たに友となった、この生きた宝石のような生き物を彼はもう少しで殺してしまうところだったのだ。そう思えば、へんてこで自由気ままでほとんど戦わない……それでも優しく愛情深い彼らは、勇者にとって唯一無二の仲間であるという気がした。
◇
さて、そうやって純情な勇者がすぐに何もかも許してしまうからこそ、彼の変な仲間はいつまで経っても変な仲間のままなのだが──しかしそんな仲間達を、勇者はとてもとても大切に思っているのだった。
遥か北の果て、黒ずみ淀んだ闇の彼方の地に住むと言われる魔王を倒すため、勇者は今日も旅をする。個性的すぎる仲間に振り回されながら、幸せそうに笑って旅を続けている。
本書は、そんな勇者の苦労と苦難、そして彼の仲間達との風変わりな友情を描いた物語である。
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