第一部 旅立ち

第一章 勇者

一 狩人

  


 その日は早くに目が覚めたので、身支度を整えて残り物のスープとパンで朝食を済ませると、狼は少し読書の時間を取ることにした。


 亡き父の遺した、こんな辺境の村には全く似つかわしくない大きな本棚。そこから取り出したのは、もうそらで語れるのではないかというほど繰り返し読み返した冒険譚だ。魔王を倒して世界を救う、勇者の物語。二十歳を過ぎた彼が読むには少し子供じみた内容ではあったが、新しい本などそう簡単には手に入らなかったし、何よりこの話は大人になっても変わらず狼のお気に入りなのだった。


 狼は──といってもこれは村での呼び名であって、彼は間違いなく精悍な人間の若者である──窓辺の椅子に腰掛けると燭台に火を灯して、黄ばんだページに目を走らせた。初めて読んだときからずっと、勇者は彼の憧れだ。ただ狩りの腕ばかり上達して欲しいものは何ひとつ手に入らない狼と違って、彼は全てを持っていた。勇敢で、誠実で、心優しく、いつも信頼できる仲間に囲まれていた。彼はいつも誰かの助けになって、誰かに必要とされて、皆に愛されていた。彼が敵を倒せば皆が歓声を上げ、子を救われた村人が涙を流して礼を言った。


──あとどれだけ人のために心を砕けば、彼に追いつけるだろうか


 明るんできた窓の外に目を遣って本を閉じると、狼はぼんやりと、しかしどこか祈るように考えた。燭台の火を吹き消し、ナイフや革袋やその他細々とした道具がぶら下がっているベルトを腰に巻くと、棚から剣を取って差す。夕餉ゆうげの野ウサギや鹿を狩るだけならば長剣など必要ないのだが、ここ最近はそうも言っていられなくなってきた。矢筒の付いたベルトを背に回して、胸の前で結び目を作る。矢の数は二十本。余程のことがない限り足りるだろう。最後に弓のつるを張って肩に引っ掛け、支度を終えた。


「おはよう」

 外に出ると、井戸では働き者のよもぎが朝一番の水を汲んでいた。桶から少し分けてもらって水筒に水を入れる。


「おはよ、もう出るんか? まだ日が昇ったばっかだぞ」

 普段の狩りよりいくらか早い出立に、山羊飼いの青年が不思議そうにする。


「ああ、どうも東の森の方に『出そう』なんだ。丁度いい、村長が起き出してきたら一言伝えといてくれるか」

「……例の黒いもやってやつか。わかった、伝えとく」

 返事をする前、ほんの僅かだけ言い淀んだ蓬は、しかしすぐに気のいい朗らかな声になって頷いた。


 ああ。また、この目だ。


 同情と正義感で彩られたぎこちない笑みと、僅かな怯えを含んだ目。本当は狼になんて関わりたくない、魔獣の現れる方角に黒い靄が見えるなんて不気味なことを言う男を本当は遠ざけたい、この目。


 みんなそうだった。両親を亡くしてからこちら、狼はずっとひとり心の中でこの目と戦ってきた。


 決して差別でも迫害でもない。賑やかで情の深いアサの村人達はいつだって狼に良くしてくれる。ただ、狼がほんの少し気を抜いた時、ほんの少し気を許した時──隠そうとして隠しきれないこの目が、異物を恐れ遠巻きにする目が、彼の心をちくりちくりと針のように突き刺す。


 しかし狼は、皆が懸命に隠してくれているそれに決して気づきはしない。この狩人は鈍感でお人好しだから、形だけでも優しくしてやれば嬉しそうに笑うし、喜んで皆のために獲物や害獣、時には魔獣までをもせっせと狩りに行くのだ。


 勇者だったらこんなのなんでもない、なんでもない。よし。


 そう心の中で唱えるのも慣れたものだ。狼は蓬に向かってにこっとした。

「じゃあ、行ってくる」

「ああ、村長の方は任せとけ」

「蓬も水汲み頑張れよ」

「おう」


──あと、どれだけ心を砕けば





 狼が魔獣を見つけたのは、村から少し離れた泉の側だった。村に入り込まれるほど近くはないが、採集や何かで森に立ち入った村人は遭遇しかねない距離だ。手早く狩っておきたいところだったが、気配を消して風下から近づいた狼は魔獣の姿を一目見てじっと眉をひそめていた。


「何だ、あれは……」


 姿形は、よく見るいのしし型の魔獣に似ていた。ずんぐりした体、もやもやと黒く気味の悪い何かをまとわりつかせる黒い毛並みに、不気味に光る真っ赤な目──まあ色に関しては、猪型に限らず魔獣はみんな同じようなものだ。というか、普通の動物と明らかに違う色彩のそいつらのことを村では魔獣と呼んでいた。


 魔獣といわゆる普通の動物との一番大きな違いは、色よりもその異常な習性にある。例えば、熊は人間を襲うことのある獣でも、大抵は人を恐れて迂闊に近寄らぬよう生きているものだ。だが熊型の魔獣は違う。ほんの僅かでも人間の匂いをかぎつけようものなら雄叫びを上げて恐るべき速度で獲物を探し出し、襲い掛かる。その爪は一撃で木をなぎ倒し、たとえ深い傷を負っても尚、貪欲に相手を襲い続ける。 そして哀れな獲物が息絶えてもその亡骸を切り裂き続け、それを喰らうことすらなく立ち去るのだ。そこにあるのは獣としての本能ではない。何かもっと暗く、邪悪で、おぞましいものだ。


 さて、猪の魔獣は熊型に比べればいくらか大人しかったし、狩人である狼は常に風下から風上に向かって移動していて、また気配を殺す技術にも長けていた。故に、いつもならばそう危険はないはずだった。


 が、如何いかんせん目の前の魔獣はいつものやつと比べて図体がでかすぎる。牛よりも更に一回り大きな黒い獣は、そのうえ鼻面に大きな黒い角を一本生やしていた。ここ数年は特に魔獣の数が多くなってきていたが、とうとうここらでは見ない妙なのまで出始めたようだ。


 狼は草むらを嗅ぎ回っている様子の魔猪まじしをじっと睨んだまま、そっと弓を肩から外して握った。音を立てないよう慎重に矢を引き抜くと、前脚の付け根、つまり心臓の真上を狙って引き絞る。その狙いは巧みで、バシッと弦が風を叩く音も力強かったが、対魔獣用の矢は常と違っていとも簡単にどす黒い毛皮に弾かれた。


 しかし村一番の狩人である彼は、悠長に一本目の矢が敵に届くのを待っていたわけではない。魔猪が振り返る暇もなく、続けざまに放たれた二本目の矢が不気味な紅色の右目へ深々と突き刺さる。


「くそ、やっぱりか」


 普通の獣ならば悲鳴を上げて怯むところだが、異様に大きな魔獣は様子がおかしくともやはり魔獣だった。どんなに深手を負っても、その体が動く限り獰猛に敵を襲い続ける。猪と呼ぶには禍々しすぎるそれは血を流す瞳で狼を睨み、怒った牛のように前足のひづめで一度、二度と地をかいていた。


 だが弓が通用しないからといって、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかないのだ。ここで逃がせば、次にこいつと出会うのは狩人の狼ではなく、薬草を採りにきた村の子供だ。狩人はじっと獲物を見つめたまま、近くの藪に弓を放って腰の長剣を抜いた。


「ほら、来い」


 低い声で挑発するように声をかけた途端、凄まじい速度で狼に向かって魔猪が突進した! 湿った森の地面から大量の土埃が上がり、重たい足音が有り得ない勢いで音量を増す。早朝の青く弱い朝日に漆黒の角がギラリと不気味に光って、薄っぺらい布の装束しか身につけていない狩人へ肉薄した。


 しかし狩人の心に焦燥はなかった。狼は知らず歯を剥き出して獰猛な笑みを浮かべると、太く鋭い角が脆弱な人間を串刺しにせんとしたその瞬間、体を捻って紙一重でそれを避けた。そして身を翻した勢いのまま、残像と共に通り過ぎるその角を逆手にぐいと掴み取り、力任せに手首を返して黒い巨体を引きずり倒す。振り回された蹄が深く地を抉りながら宙に投げ出され、どうと地響きが鳴った。


 角を掴んだまま片足で魔猪の胴体を踏みつけた狼は、右手に握った長剣ですかさずその喉元を切り裂こうとした。が、頑丈が毛皮は矢どころか剣をも弾き返し、傷ひとつつかない。


「悪く思うなよ」


 顔をしかめた狩人は手の中でくるりと剣の柄を回して、魔獣の胸の上に構え直す。そしてふっと息を詰めると素早く両手で剣を握り、勢いをつけて力の限り魔獣に突き立てた。


 次の瞬間、ズドンと地が穿たれるような爆音と共に地面が抉れて小さな窪地ができ、長剣が衝撃で歪みながら毛皮を破って魔獣の心臓に突き刺さった。もうもうと土埃が上がって、そして少しずつ晴れてゆく。赤い光を放っていた瞳が虚ろに濁り、もがく四肢からみるみる生気が失われていった。


 残されたのは物言わぬ骸となった巨大な魔獣と、木の葉が風に揺れる音以外は小鳥の声すら聞こえない、静まり返った森。そして返り血を浴びて肩で息をする若い狩人であった。


 ところが、たった一人で前代未聞の大物を狩った狩人は、かすり傷ひとつ負っていないその快挙に少しも嬉しそうな様子を見せなかった。狼はゆらりとその不気味な死骸から離れると、打って変わってそわそわと不安そうな顔で梢の間に見える空を見上げ、ぐるりと周囲を見回す。


 随分大きな音を立ててしまった……。村まで、聞こえただろうか?


 衝撃で曲がった剣、大きく抉れた地面を見下ろして、とりあえず剣を引き抜くとなんとか手で曲げて元に戻せないかどうか試みる。そろそろ村人達も起き出す時間だ。彼が狩りに出ていることは蓬が知っている。彼がまたおかしなやりかたで魔獣を狩ってしまったことが皆にバレたら──


 狼はそう考えると胸が潰れそうになって、血まみれの両手を服の裾にこすりつけた。


 ああ、きっとまたあの目で見られる。狼を取り囲んで笑みを浮かべ、口々によくやったと言いながら、誰も彼の肩を叩こうとはしない。今夜は宴にしようと言いながら、踵をずらしてほんの少しだけ後ずさる。そして、またあの目で狼を見る。次はもう、笑い返せないかもしれない。


「……俺は、俺は化け物じゃない」


 自分を奮い立たせるために口にしたはずなのに、なぜ不安が増すのだろうか。狼が小さく首を振って気持ちを紛らわせていた時、ふいに不穏な気配を感じて顔を上げた。


 木立の向こうから、黒い靄を纏った小さめの獣が八、いや十……いや、二十。むせ返るような血の匂いを辿った魔狼の群れが、返り血でずぶ濡れになった彼の周囲を取り囲んでいた。




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