二 妖精



 藪の方をちらりと見た。弓を拾いに行く隙はない。すぐに剣を構える。はじめに飛び掛かってきた一匹を一刀両断にし、二匹目は首元を掴んで地面に叩きつけた。三匹目の腹に剣先を叩き込むところまでは実に順調で、これが三匹や五匹の群れならば狼とて遅れを取ったりはしなかった。素早い体捌きは村の狩人の誰にも真似のできないものだったが、四匹目の魔狼にはふくらはぎへ牙を立てられた。


 群れの仲間が非業の死を遂げても、普通の獣と違ってそれを恐れ退散してはくれない──魔獣とはそういう生き物だ。そこからは坂を転げ落ちるようだった。脚に、腕に、腹に次々と喰らいつかれ、狼はただ喉元を守ることしかできなくなった。地面を転がれど転がれど深く刺さった牙は離れず、獣にしては低い唸り声と共に数を増やす傷口が全身に燃えるような痛みを広げてゆく。血の匂いが濃すぎて、息が苦しい。


 意識の朦朧としてきたなかで、腰に下げた魔獣避けの革袋に手が届いたのは奇跡だと思った。ベルトから強引に引き千切ると薄手の革が裂け、血臭の壁を超えて薬草の青臭い匂いが充満する。全身に群がって牙を食い込ませていた魔狼達が、一斉に獲物を放り出して飛びのいた。


 命を振り絞って、鼻の良い魔狼が特に嫌う薬草の群生地に向かって走った。流れる血で、命を繋ぐ草の匂いが薄まってゆく。すぐに追ってきた魔獣を辛うじて手放さずにいた剣を振り回して斬り払いながら、懸命に駆けた。一歩ごとに血が失われ、視界の端が黒く染まって揺れる。


 背に飛び掛かった一際大きい個体に押し倒されたとき、もうダメだと思った。それでも必死に顔を上げ、爪を突き立てて地面をかく。諦めたくなかった。死ぬならばせめて、最後まで誇り高く戦いたかった。


 感覚のなくなってゆく手を伸ばす。もう、赤く染まった地面と、魔獣に纏わりついた黒い靄しか見えない。しかしまだ諦めない。何か、何か必ず──


 本物の奇跡が起きたのはその時だった。

 希望を求めた手が、優しい力で何かに掴まれた。


「ロラーナ=ラーヌ」


 禍々しい獣の唸り声を浄化するような清廉な声が不思議なやわらかさで歌うと、得体の知れない鳥肌の立つような気配が全身を通り抜け、次の瞬間にはドサリと重い音を立てて背の重みが地に転がり落ちていた。


 それは一度では終わらなかった。ドサリ、ドサリと、魔狼の地に倒れ伏す音が続く。


 いつの間にか周囲は静まり返り、梢を渡る風の音が狼の耳に届いていた。

 どこか夢を見ているような気持ちでふらつく顔を上げた狼は、まず息を呑もうとして咳き込み、それでもなお現実に引き戻されないまま目を見開いた。


 ぐっすりと眠りこける魔狼の群れの中でこの世のものならぬ美しいものが、あまりに美しすぎて現実味を感じない生き物が、白銀の長い髪に金の木漏れ日を浴びながら狼の手を優しく握りしめていた。人のような形をしているが、明らかに人ではない。


「精、霊……?」

 枯れた声をさらに途切れさせて呟けば、それは緩やかに首を振って答えた。

「妖精」

 妖精の魔法か、それとも体力が尽きたか、唐突に抗いがたい重たい眠気が押し寄せて目の前が真っ暗になった。





 花の匂いがした。こんなに香る花、この辺りに咲いていたろうか?


 全身をずきずきと苛む痛みに目を覚ました狼はすぐに魔狼のことを思い出したが、しかし慌ただしく飛び起きたりはしなかった。生きているということは周囲に危険がない証拠であったし、そもそも体が重くて動ける気がしなかった。


 だが、魔獣の血は毒だ。返り血だけならばまだ良いが、それが傷口に触れるのは非常に良くない。なんとかして洗い流し、止血せねばじきに死ぬだろう。狼は重い瞼をこじ開けると歯を食いしばって肘をつき、少しだけ上体を起こした。大きな怪我をした後には時々あることだが、幸か不幸か狼が何より嫌っているあの不気味な力が膨れ上がったまま引っ込められなくなっているようで、これだけ重いだるさがあってもいざ力を入れてみれば簡単に体が持ち上がった。


「誰も……いないのか?」

 周囲に人の気配はなかったが、しかし誰かがいた痕跡ははっきりと残っていた。あの夢か現実かわからない「妖精」の仕業だろうか、狼の全身に散らばる魔狼の咬み傷にくまなく白い布が巻かれているのだ。ありがたいことにおびただしい量の魔獣の返り血はすっかり清められているようで、全体どうやったのか、顔や腕だけではなく服をべったりと染め上げていたはずの血糊までもが染み一つなくなっている。


 少し見回せば、近くの地面にはボロボロに切り取られたマントらしき白い布の塊が落ちている。切り口にはかなり切れ味が良いと見える刃物が使われていて、狼は先程見たような気がする幻のような光景をぼんやり思い返しながらも、恩人が武器を持っている可能性と、ついでにナイフの扱いは上手くなさそうなことを念のため気に留めた。


 狼は目指していた薬草の群生地に寝かされていたようだった。この草の香りを魔獣は大変嫌うため、ここにいれば──「普通の」熊でも出ない限り──無防備に眠っていても襲われることはない。灰色がかった暗い緑色の絨毯には小さな白っぽい花がこぼれるように咲いていたが、ただ青臭いばかりで目覚めた時に感じたような甘い香りはしなかった。


 狼はぐっと息を詰めた隙に思い切って身を起こし、大きく動いた途端に訪れた強いめまいと吐き気を、静かに呼吸を整えてやり過ごした。水筒から少し水を飲む。そして特に強く痛む左腕を持ち上げて、かなり下手くそに巻かれた即席の包帯をじっと見つめた。なんだろう、今にもずり落ちそうなほど緩いし、一体どうしたらこんな混沌とした巻き方になるのだろうか。


 このままでは血を吸うばかりで少しも止血にならないので、既に崩れかけている結び目を解き、片端を口に咥えると「力」を入れ過ぎないよう気をつけながら丁寧に縛り直す。きちんと巻くと布の端がかなり余ったが、ナイフを出して切り取るような気力はなかったので何周か余計に巻きつけ、次の包帯に取りかかった。こちらもまた随分とこんがらがって個性的な様相を呈している。傷口には怪しげに少し発光する鮮やかな水色の軟膏が塗られていて気味が悪かったが、毒を塗られたような感触はしなかったので一応そのままにしておく。


 そして、膝の包帯があまりにも絡まり合っているのを眉をひそめて見下ろしていたからだろうか。狼が気づいた時には既に、それは見える範囲まで歩み寄ってきていた。決して気配がないわけではない。むしろよくよく探ればそこらの魔獣よりも濃いと言えるほどの存在感があったのだが、しかしその気配があまりに森の木々や、草や、花のそれに似ていたので、そういったものに囲まれた森の中ではすぐにそうとわからなかったのだ。


 その時の狼はふと、周囲の森が急に深まったような不思議な感覚がして顔を上げたのだった。鳥の声や風の音は変わらず聞こえているのに、なぜか自分の中だけが静かになったような心持ちがする。そう訝しく思ってぐるりと見回すと、彼はある一点に、いつの間にかそこに出現していた夢と見紛う光景に視線が釘付けとなった。ゆるゆると手の力が抜けて巻きかけの包帯を地面に落としてしまったが、少しもそれに気づかないほどだった。


 立ち去ったと思っていた妖精がそこにいた。


 木々が生い茂って少し薄暗い森の中に、梢の間から一条の光線が差し込む。背後の木には花が咲き乱れ、舞い降りた一羽の白い小鳥がパタパタと可愛らしい動きでその手にとまった。狼は思わず怪我をした腕で目をこすってしまい低く呻いたが、それはある程度仕方のないことだった。見慣れた森の景色の中、ただただそこだけが童話めいていて、本の挿絵に迷い込んだかのように非現実的なのだ。


 よく見ると淡い淡い金色をしているらしい髪が、幻想的な光の中で宝飾品のように輝きながら背に流れ落ちている。金の髪の毛というものを狼は初めて見た。その美しい色だけでもにわかには信じ難い思いだったが、髪の間から覗いているのは見間違いでもなんでもなく、人ではあり得ない長く尖った耳だ。ああ本当に妖精なのだと思ったが、その心はふわふわと夢を見ているようで少しも腑に落ちなかった。


 妖精が真っ白いローブの長い裾を引きずりながら一歩、また一歩と歩みを進める度に、淡く銀色に輝く半透明の花が、足元から信じ難い速さで芽生え、花開き、そして散っていった。キラキラと砂のように細かい光の粒が、空気に溶けるように僅かに輝いては消え、きらりとしては消えてゆく。

 ああ、これが妖精エルフ。花の女神が造った、世界で一番美しい生き物。なんと、なんと綺麗なのだろうか……。


 ゆったりとした歩調でエルフが歩み寄ってくる。少しずつ距離が近づくにつれ、足元に咲く花から甘い香りが漂ってきた。そして妖精はぽかんとしている狼と目を合わせると、さらりと背に髪を滑り落としながらほんの少し首を傾げて口を開いた。


「……あ、起きてる」


 きっとお伽話に出てくる泉の精霊みたいに神秘的で麗しい口調で話すのだろうという予想を裏切り、妙に力の抜ける間延びした囁きがその花のような唇からこぼれ落ちた。息の多く混じった高くも低くもない不思議な響きの声が、風に紛れて消え入るように響く。


 そこから先はどうにも意識がふわふわと曖昧だったが、狼が述べた礼に何を考えているかわからない顔で曖昧に頷き、なぜか「魔法使い」という人間じみた似合わない呼び名を名乗ったエルフは、未だ呆然としている狼に向かって具合はどうだとかこの薬を飲めだとか、他にも森や何かについての話をしているようだった。


 狼が「ようだった」と称したのは彼がその話を大して聞いていなかったからなのだが、それは必ずしも朦朧としていた狼が悪いばかりではなく、むしろその原因の大半はエルフの方にあると言って良かった。


 まず魔法使いはなぜか、そのほっそりと爪の先まで伸びやかな手に正体不明のくねくねした植物の蔓を握っていた。その蔓は鮮やかな黄緑色に紫色の斑点がある見た目をしていて、先の方には恐ろしくトゲトゲした桃色の葉っぱが繁り、何度見ても少し動いているように思えた。一体どこでそんな奇妙なものを見つけてきたのか、どうしてそんなものを持っているのか、狼はちらちらとそれに目を遣っては気にしてしまうのだった。


 そして次に、エルフの声はものすごく小さかった。耳をすませば葉擦れの音のように優しくて綺麗な声ではあるのだが、いかんせんほぼ囁き声と言っていいような話し声で、少し強く風が吹けばもう聞き取れなかったし、おまけに肩にとまった白い鳥がかなり響く声で機嫌よくさえずり続けていた。しかもうるさいなら追い払えば良いものを、なぜか魔法使いはそちら側の耳を折りたたむように手で塞ぎながら話しているのだ。


 そう。正直に言うと狼は目の前の美しく存外……個性的な妖精と相対するにつけ、きちんと巻き直せなかった腹の包帯の如く頭がこんがらがっていた。その上怪我の疲労もあった彼は話をよく聞きもしないまま、ちょっと煩い小鳥の囀りとほぼ聞こえないエルフの声を子守唄にうつらうつらとしてしまった。

 そして時折思い出したように重たい瞼をこじ開けながら、頭の片隅で「こいつ全然表情が変わらないな」とか「目の色も綺麗だな」とか考えてなんとなくうんうんと首を縦に振っていると、気づいた時には魔法使いがどこか満足げに深く頷いていたのだ。


 ほとんどの話は聞き流したが、最後の一言だけはなぜかとてもはっきりと聞こえた。


「よろしくね、勇者」


 ……勇者?


 足元の地面に銀色に光る複雑な紋様が現れたのは、彼が首を傾げた直後だった。





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