三 魔法と顕現



 地面には薬草が生い茂っていて見えにくい箇所もあったが、光で描かれた大きな円の中には丸や線や、それに狼には読めない走り書きのような文字がぎっしりと書き込まれているようだった。


 ま、魔法陣だ……!


 何が起きているのかわからず焦る気持ちもあったが、それ以上に狼はわくわくした。世界には魔法という力を使える人々がいると知ってはいたが、当然村にそんな人間はおらず、彼にとって魔法とはおとぎ話と大差ないくらい遠い世界の話であった。


「時がくるまで……もう少し、待つよ」

 さらさらと木の葉が揺れるような囁き声がした。いつの間にか鳥はどこかへ飛んで行ったようで、魔法使いのやたら遅くて間延びした、というよりは節をつけて歌うような変わった喋り方が聞こえるようになっていた。


「な、なあ! 今から魔法を使うのか? これ、魔法を使うんだろ?」

「落ち着いて……傷が開くよ」

 勢い込んだ狼が感情のおもむくまま問いかけても魔法使いの表情は空虚なまま動かなかったが、長い耳の先がほんの少しへたりと下がった気がした。


「大丈夫だって、俺頑丈だから。なあ、そんなことよりこれって魔法陣だよな? お前、本当に魔法使いなんだな!」

「急に……元気になったね」


 魔法使いは淡い色が印象的な目で狼をちらりと見下ろすと、首元から何やら丸くて平べったい金属の容器が鎖で繋がれている、銀色の首飾りのようなものを引っ張り出した。爪の先でピンと弾くように蓋を開けると、中を覗き込んで「もう……少しだね」と呟く。そわそわと眺めているうちに気づいたことだが、魔法使いの着ている豪華な刺繍の入ったローブも、改めて見ればかなり魔法の使い手といった雰囲気で、狼は更に気持ちが盛り上がってきた。


 だがそれも美しきエルフの魔法使いが光る魔法陣の内側に入り、座り込んでいる狼のかたわらに立つまでのことであった。いかにも神秘的な様子で地面に広がっているローブの裾が触れるほど近づいたことで、狼のすぐ脇の地面から光で描かれたような花が次々と咲き、彼はすぐにそちらへと気を取られてしまったのだ。狼は目を見張って地面を見渡すと、指の長さほどの小さな花に指先でつんつんと触れた。これも魔法なのだろうか。


 淡く透ける銀色の花は、実体があるような無いような不思議な感じだった。指先が奇妙にぞわぞわとするだけで触れている感覚はないのに、花は指の動きに合わせてくにゃりと茎を揺らす。

「なあ……これ、摘んでみていいか?」

「いいけれど……とても、はしゃいでいるね……ねえ、傷が開くよ」


 茎を指先でつまんで捻る動作をすると、感触のない花もそれに連動してぷちりと千切れた。狼は半透明の幻の花を目の前に持ち上げてまじまじと眺め、匂いをかいだ。ほんのりとだが、いかにも花らしい感じの甘い香りがする。

 花は狼がじっと眺めているうちにはらはらと散って、残った茎も光の粉になって消えてしまった。


「なあ、これ、花は咲くのに種はできないんだな」

「僕がいれば、生えてくるから……必要ないのではないかな」

「なるほどな……」

「ねえ……傷が開く」

「大丈夫、大丈夫」


 魔法使いは彼の周囲を漂う光の粉をわしりわしりと素手で捕まえようとしはじめた狼を眺め、どこか困ったように小さく息をつくと「内側の丸から……出ないでね」と囁いた。首飾りを首元から服の中にしゃらんと落とし、背筋を伸ばして魔法陣の上に手をかざす。


 さて、狼はその時になってようやく、このエルフはどうやら自分に魔法をかけようとしているのではと思い至った。が、おおよそ二重の円になっている光の紋様からはみ出そうな足を引き寄せ「ところでお前は一体何をしてるんだ」と一番肝心なことを尋ねようとした時には、既に遅かった。


「なあ、ところで──」

「あ、繋がった……では、行くよ」

「えっ」

「レールム=ヴェルトール=スクラダール」


 止める間もなく歌のような呪文が唱えられ、突然狼の全身に凄まじい重圧がかかった。重力を何十倍にもしたような、今にも押し潰されそうなとんでもない重圧である。狼は全身に力を入れてそれに耐えたが、そのせいかひどい頭痛に襲われてぐらりと地面に片手をつき、すぐにくしゃりと潰れて肘をつく羽目になった。


 その気配に魔法使いが軽い動きでくるりと振り返った。どうやら潰れそうになっているのは狼だけのようで、彼はふわりと狼の隣にしゃがみこむと自分に寄りかからせるように肩を支え、円の外に出ていた手を掴んで引っ込めさせた。そしてどことなく困惑したような声で「ごめんね……もう、止められないんだ」と囁くと、他にはみ出たところがないか地面に目を走らせ、頷いて続きの呪文を歌った。


「サリール=イード」


 直後、視界が鮮烈な緑の光でいっぱいになった。あまりの眩しさに目を閉じると、頭の奥がぐるぐる回るような凄まじい目眩がする。狼はすぐに、自分が座っているのかどうかさえわからなくなった。体勢を立て直そうと身じろぎすると、背中のあたりの服を誰かの手がぐっと掴んで動きを止められる。煩いくらいに耳鳴りがし、耳の奥がひどく痛んだ。目を開けようにも、あまりの気分の悪さに開けることができない。喉に悲鳴を上げているような感触があったが、何も聞こえなかった。


 狼がついに死を覚悟した頃、がくんと落ちるような感覚と同時に重圧が消えた。耳鳴りが少しずつ弱まり、音が戻ってくる。狼は自分がいつの間にか崩れるように地へ伏して、頭を抱えながら呻いていたのに気づいた。荒い息をしながらゆっくりと目を開けると、そこにあるのは薬草に覆われた地面ではなく、つるりと磨かれた灰色の石の床だった。


 驚いて身を起こしたが、途端に急激な目眩と吐き気に襲われ思わず床に嘔吐した。座っている姿勢すら保てず、咳き込みながらそのまま横に倒れ込む。ひんやりした床の冷たさに感謝しながら呼吸を整えていると、おろおろと空中に手を彷徨わせていたエルフが困った末に狼の頭を繰り返し撫でさすったので少し笑った。

 その時、未だ周囲を渦巻いている緑の光の壁の外側から何か指示を出しているらしい低い男の声が聞こえた。眩しさに顔をしかめて目を凝らしていると、光が段々と薄まり、ローブを着た大きさの違う人影が三つ、彼らの周囲を取り囲んでいるのが見えてくる。


 まだ光の余韻で赤っぽくちかちかしている視界の中で探る限り、どうもここは灰色の石で造られた建物のようだった。壁際には濃い色の本がずらりと収められた本棚が並んでいるが、どうやら四角い部屋ではないようで、壁も棚も不思議なことに少し丸く曲線を描いている。窓が小さいためか部屋は薄暗く、まだ昼間なのにところどころの壁に取り付けてある燭台には火が灯されていた。


「よし」

 真っ黒なローブを着た背の高い男が声を上げると、一番淡い色のローブを着ている人間が淡くなった光を踏み越えて駆け寄ってきた。狼は反射的に迎え撃とうと腹と目に力を入れて身構えたが、しかしこちらへ向かってくる人間の顔を見てあっさりと警戒を解いた。素早く駆け寄って狼の傍に膝をついたのは、彼が今までの人生で見たことのある誰よりも優しく、誰よりも誠実な目をした男であった。果たしてここはどこなのか、自分の身に何が起きているのか、彼らは何者なのか、これからどうなるのか──必要なことは何ひとつわからなかったが、ひとまず目の前の彼が狼達に危害を加えないことだけは明白だった。ふうと息を吐いて力を抜くと再びひどい吐き気がこみ上げて、寝転がったまま力なく口元を押さえる。


「賢者、薬の用意をお願いできますか」

「調合しておこう」

 男が背後に向かって声をかけると、黒いローブの人影が背の低いもう一人を引き連れて部屋を出ていった。狼より少し年上くらいの痩せた青年は重そうな木の扉が閉まるのを見届けると、狼に向き直って天から光が差し込むようなこの上なく優しい微笑を浮かべた。森のどんぐりのような色合いの瞳がやわらかく細められていて、なんだか訳もなくその服に取り縋って泣きたくなるような笑顔だった。


「こんなに怪我をして辛かったでしょう、勇者。すぐに何もかも良くなりますからね。まずは転移酔いを治しますから、力を抜いてゆっくり呼吸をしてくださいな」

 優しげで弱そうな感じの顔立ちの青年だったが、真面目な声は有無を言わせぬ調子で、狼は思わず彼の言う通りに深く息を吸った。すぐに額に当てられた手が、薄暗い室内でようやく見えるくらいほんのりと、淡い水色に光る。すると温かいような冷たいような不思議な感覚が、頭から体へと少しずつ染み込んでいるような感じがした。狼がゆっくりと息を吐くと、まるで悪いものが空気と一緒に出て行くようにめまいと吐き気がすっと抜けてゆく。


「気分は良くなりましたか」

「ああ……今、何をしたんだ?」

「神があなたを癒してくださったのですよ。私は神官ですから、祈りを捧げることでこうして治療のお手伝いができるのです」

 にっこりとした神官を見つめて狼は記憶の隅を探る。奇跡のようなそのわざのことは彼も少しだけ知っていた。

「もしかして、顕現術……とかいうやつか」

「おや、よくご存知ですね」


 その微笑みがどことなく神聖な雰囲気を纏っている理由はわかったが、都会の方では身分の高い存在として敬われていると聞く聖職者の存在に、狼は若干たじろいていた。

「そうか……神官、様なのか」

「様は結構ですよ、勇者。仲間ではありませんか」

 勇者、という単語がまた現れた。視線からしてどうも自分のことを指しているように思えたが、妙な期待も勘違いもしたくなかったので、彼は少し緊張しながらできるだけ表情を消して問いかけた。


「その……勇者というのはもしかして俺のことか?」


 我ながら自信なさげな声が石造りの天井に響く。すると神官は目をぱちくりとして、床の上から例の少し動く不気味な蔓を拾い上げている魔法使いを振り返った。

「勇者に説明していないのですか、魔法使い……何です、それ?」

「これ? わからないけれど……森で拾ったよ。話している間……勇者は、寝ていたかも。木漏れ日が、美しかったからね」


 いや待て。その蔓、正体不明だったのかよ。


 じゃあなんでそんなもん拾ってきた、と言いそうになったが、狼はぐっと堪えて話の途中で眠ってしまったことを謝罪した。

「おやまあ、それはいきなりこんな所へ連れてこられて怖かったでしょう。けれど、お話は後にしましょうか。傷の治療が先ですね」

 神官はそう言って真面目な顔になると狼の包帯に手をかけてはさみを取り出し、「他はとてもお上手なのに、胴と左脚の包帯だけどうしてこんななんです?」と呟きながら手際良く包帯を切り開いていった。


「この歯形はヴォーラですね? この数に喰らいつかれてよくぞご無事でいてくださいました。これは……血止めの軟膏が塗ってありますが、相当失血したはずです。なんだか平気そうな顔で座っていらっしゃいますが、まずは傷を塞いで、その後は造血剤を飲んで安静にしていただきますからね」

「……何の歯形だって?」

魔狼ヴォーラ。黒い毛並みに赤い瞳の、狼のような生き物です」

「ああ、うん。それだよ……あいつら、そんな名前なのか。村では違う名で呼んでたから。傷見ただけでよくわかるな……」


 狼はぼんやりと頷いて手早い処置を見守りながら、自分が状況もわからないまま彼らの気さくな態度や口にされる優しい言葉にほだされかかっているのを感じていた。


 それは良くない兆候だった。彼は本来ならばこんな突拍子もない状況をもっと警戒せねばならなかったし、いきなり村から魔法で連れ出されたらしいことに憤らねばならなかった。こんな風に無防備に見知らぬ人間へ治療を任せたり、状況に流されるまま人が自分と普通に話してくれるのを喜んだりしているのは、どう考えてもおかしいのだ。ここがどこなのか、ちゃんと村へ帰してもらえるのかさえ、まだ尋ねていない。


「治療の前にまずは傷口を清めます。軟膏以外にも、何か薬を飲んだりしましたか?」

「ああ、何か……」

 そういえば、魔法使いに渡された変な色の水薬も、いつの間にか疑わずに飲んでしまっていた。

「毒消しを……飲ませたね」

「何の毒消しです?」

淀瘴てんしょう


 聞き覚えのない言葉だが、狼がいつも魔獣の血を浴びてしまった時に飲む薬と似たようなものだろうか。そう尋ねると、神官は「おそらく」と頷いてから、魔法使いに向かって言った。

「全身を浄化し、淀瘴解毒薬を服用させたのですね? よろしい、的確な処置です。では軟膏だけ取り除きますね」

 立ち上がって狼の額の上に手をかざした神官が、穏やかな声で祈り文句を唱えた。


「水の祝福があなたに訪れますように。スクラゼナ=イルトルヴェール」


 その途端狼の足元を囲むように、魔法使いものとはかなり雰囲気の違う淡い青色に光る魔法陣、いや顕現陣が現れた。床から立ち昇るように光が彼の全身を包むと、あちこちに分厚く塗りたくられていた青い軟膏がふつふつと泡立つように強く光り、空気に溶け込むように消えてゆく。すっと冷たくなるような感触を残して、瞬く間に全ての傷が清められた。ついでに狼が先ほど汚してしまった床も綺麗になった。


 狼が口をぽかんと開けて自分の身体と神官を交互に見ていると、彼は淡い色の神官服を揺らしてくすりと笑った。

「ふふ、あなたはなんだか嬉しくなる反応をしてくださいますね。次は傷を癒しますから……さあゆっくり息を吸って……吐いて、もう一度吸って……吐いて。はい、いいですね。そのまま深呼吸を続けていてください」


 子供を褒めるような口調で言う。「神が癒してくださった」なんて言うわりに医者のような物言いをする神官は、今度は片手を狼の額に当て、もう片方の手を自分の胸に当てると、目を閉じて心を落ち着けるように小さく息を吐いた。今度の祈り文句は長かった。

「我が神にして癒しを司りし水の神オーヴァスよ──」

 祈りが始まると、狼の足元に再び顕現陣が現れた。彼が一言話す度、蔦模様のような曲線がするすると伸びて複雑な紋様を描いてゆく。狼はその美しい光景から目が離せなかったが、驚きと共にそれを夢中で見つめていても不思議なことに優しい優しい祈りの言葉は心に染み入るように全てがきちんと聞き取れた。


「──我が祈りに応え、傷つき苦しみの中にある弱きものをこの苦難より救いだし給え。痛み、哀しみの源泉たる深き傷を癒し、その心に恵みの泉を宿し給え。世の清廉を司る夜明けの神よ、今この時、我が涙と心の全てを汝に捧げん。ユ・エテス=ティア・ハツェ 」


 古い言葉だろうか、最後のところは穏やかな声で歌い上げて祈りが終わると、水色の光が怪我を覆うように淡く輝いた。そうして狼が固唾を飲んで見守るなか、思わず鳥肌が立つような恐ろしい早さで全ての傷口が塞がり、痛みをなくし、跡形もなく消えていった。狼は目を剥いてそれを眺めると、既に傷の治り具合を確かめ始めている神官を呆然と見つめた。


「……神様って、ほんとにいるんだな」


 かなり幼稚な感想になってしまったと思ったが、しかし神官はその言葉に驚いたように目を丸くすると、とても嬉しそうに口元をほころばせて胸に拳を押し当てた。

「ふふ、そうですね──全ての神々よ感謝します。我々はこんなにも心清らかで深い慈しみを持った勇者を与えられました。彼が共に在る限り、必ずや世界は救われるでしょう」

 短い祈りを終えると神官は膝を折って、座り込んだままの狼に手を差し出した。


「立ち上がれそうですか、勇者。休める部屋へご案内します。そうしたら、あなたがどうして私達に『勇者』と呼ばれているのか、お話ししましょうね」





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