四 灰色の夕暮れ 中編



 フードを片手で押さえながら雨の森へ飛び出す。隣を走っているエルフが引き連れている光のおかげで、松明がなくとも足元はぼんやり明るく見えた。


 かすかな気配を追って走るうちに、低い熊の唸り声が聞こえてきた。警戒しながら様子を窺っている時の鳴き方だ。つまり、まだ襲われていない。


 近くに落ちたのだろうか、地面が揺れるような凄まじい雷鳴が轟いた瞬間、白い光でカッと人影が浮かび上がった。マント姿のハイロらしき人物と、その前にずんぐりした大きい影。それを確認した勇者は走り方を強い内炎魔法を巡らせた助走に変え、勢いをつけて威嚇する熊に飛び蹴りを食らわせた。


 熊が吹き飛ぶように地面を転がって、木にぶつかって止まった。慌てて立ち上がると、少し足を引きずりながら森の奥へ逃げてゆく。


「おい、怪我ないか!」

 叫ぶように尋ねると、ハイロが驚いたように──相変わらず目が見開かれていても瞳がどこかぼんやりしていて、本当に驚いているのか感情が読みにくい──熊の方にかざしていた手を下ろしながら言った。


「おや、勇者殿。そちらからいらしていただけるとは……まさか、私を助けに来てくださったのですか?」


 その声が、審問官らしい淡々とした喋り方を踏まえてもあまりに落ち着いていたので、勇者は拍子抜けしながら熊の去った方向へ向けていた警戒を解いた。雷に怯えてよろよろになった魔法使いが、背中にしがみついてくる。


「……もしかして、別に追い詰められてなかったか?」

「お気遣いをいただいたところ恐縮ですが……ただ、そうですね。無力化しつつ巣に帰るように仕向けようとしておりましたので、人語を解さぬ相手にその組み立ては少々骨が折れると考えておりました」

「そ、そうか……」


 どうやら杞憂だったどころか、大人しく巣に返す予定だった熊をかなり乱暴に追い払ってしまったらしい。おまけにまた審問官に見つかってしまった。がっくりしながらどうしたものかとハイロの顔を見ると、ふと彼女の目の下に恐ろしく深い隈ができていることに気づいて眉を寄せた。


「お前……顔色酷いぞ。ちょっと……ちょっと来い」

「はい?」


 腕を引くと一瞬ふらついたので、その隙に肩に担ぎ上げる。あまりに軽くてぞっとした。子兎二羽分くらいしかない気がする。身じろぎした審問官が耳元で何か言おうとしたようだったが、ついさっきまでゴロゴロ鳴っている空に震えていたはずの魔法使いが、雨の音に邪魔されない不思議な囁き声で「少し……静かにしていてね」と冷ややかに言うと、一瞬息を呑む音がした後に沈黙した。


 できるだけ濡らさないように急いで洞窟に帰ると、引きつった顔の仲間達が待ち構えていた。


「勇者……なんで連れて帰ってきちゃったの?」

 吟遊詩人が弱々しい声で問うので、「いや、あんまりな顔色してたから」と返し、ぐったりした様子のハイロをそっと神官の前に下ろす。馬達の姿が見えないが、どうにかして隠したのだろうか。


 灰マントの異端審問官は、地面に足がついた瞬間に立ち上がって身構えるような動作を見せたが、進み出た魔法使いがあっという間に痩せた腕を背中側にねじり上げ、それをぐいと押して膝をつかせると「術を使ったら、だめだよ」と氷のような声で言う。


「お、おい……そんなに乱暴にしなくても」

「優しくしたいなら、なんで担いで帰ってきたのさ……女の人なんだから横抱きにしてあげなよ」


 吟遊詩人が困った声で指摘したが、しかし彼もまたハイロの扱いを心配してはいないようだった。緊迫した空気に、人質として捕まえてきたのではなかったのにと気まずくなる。


 勇者がおろおろしていると、難しい顔でじっと見守っていた神官がふっと微笑んで膝をつき、審問官の顔色を覗き込んだ。いつもなら脈をとったり術で体内を探ったりするのだが、今は手は触れずにじっと観察しているだけだ。


「過労と寝不足……それから栄養失調でしょうね。スープとパンがありますからそれを食べて、できれれば夜はここで眠って行きなさい。男所帯ですが、身の安全は私が保証します」

「ねえ、腕を拘束しながら身の安全とか言っても全く説得力がないと思うけど……」


 吟遊詩人が渋い顔で言うと、神官が緩やかに首を振った。

「それは勿論、ある程度見張りは付けさせていただくことになりますが……そういう意味ではなくて、女性に乱暴するような人間はいませんということですよ」

 その答えを聞いた吟遊詩人はパッと身を縮こまらせると、恥ずかしそうに賢者の後ろに隠れて「あ、うん、そうだね……それは大丈夫だと思う」と呟いた。


「おい、触るな」

 そして賢者は既にこのやりとりに飽きていたらしく、面倒そうに吟遊詩人を背中から払い除けると、ため息をついて焚き火の前に座り込んだ。


「離してやりなさい、魔法使い。気の神官ならば多少暴れたところで、私がどうとでもできる」

「……本当?」

「本当だ」


 エルフが拘束を解くと、ハイロはさっと立ち上がって目眩がしたのか頭をふらつかせ、そしてきっぱりと首を振った。

「私の顔色をご心配いただいたという勇者殿のお言葉に裏はなさそうですが、私はここで失礼したいと思います……記憶の改竄かいざんは気が進まないのですが、見逃してはいただけませんでしょうか」

 声は毅然としていたが、顔色は立ち上がってますます蒼白になっていた。魔力も尽きかけているのか気配が薄い。この分だと森を出られないだろう。


「なあ……お前、ここで一人で森に出たらたぶん死ぬぞ」

 勇者が声をかけると、ハイロが振り返って静かな目で彼を見た。絶望も希望も何もない、本当に何もない瞳だ。


「それでもです。私の使命は貴方がたを発見し次第神殿へ報告することであり、食事をご馳走になって寝床を提供していただくことではありません」


 なんて、寂しい言葉だろう。なんて寂しい声だろう。敵とは馴れ合わぬという誇りでもなく、お前らは信用ならぬという敵意でもない。ただその心には使命の二文字しか入っていないような、空っぽの虚しい声だった。


 勇者が泣くのを堪えたのがわかったのか、すると神官が少し苦笑して背筋を伸ばし、時折見せる神の遣いのような顔になった。

「施しを受けなさい、気の第二異端審問官ハイロ。欲に負けて使命を怠るのではありません、あなたの信ずるもののために、命と体力を繋ぐ努力をするのです」


 神官の言葉に頑なだった審問官の空気が少しだけ変わり、話を聞くような姿勢になった。ロサラスは、まるで神の声そのもののような優しい声音で続ける。

「我々があなたの信仰の在り方を肯定することはありませんが、それでも、あなた方のそれがすぐに捨てられるようなものでないことはわかっています。我々はあなたに、異端者に捕らえられ不安であろうこの状況下で、何も無理強いはいたしません。あなたが病に苦しむ恵まれないものを憐れむように、あなた自身の命を憐れみなさい。救える命を粗末に扱って使い潰すことは、あなた方にとっても冒涜に当たるはずですよ」


 肩を落とした様子を肯定と受け取ったのか、賢者がため息をつきながら焚き火の前に積み重ねられた木の椀を手に取った。


 小さな顕現陣の上に椀を一つと匙を二本置くと、少しも汚れていないそれらを「スクラゼナ=イルトルヴェール」と唱えて浄化する。鍋の中身を椀に注いで匙を一本添え、そして残ったもう一本の匙で椀のスープを一口掬って食べてみせると、ぐいと無愛想に差し出した。


「異端であるという認識ではありますが……施しと称して毒を盛るような方々でないことは、我々もわかっています」


 ハイロが諦めたような声で小さく言うと、右手を胸に当てた後にそっと両手で椀を受け取った。少しよろめきながら地面に腰を下ろし、目を閉じて小さな声で祈る。


「我が愛する神エルフトよ、豊穣の女神テールよ。汝に与えられし命を繋がんがため、弱き命を奪う我らをお許しください。我らの命は汝が手、汝の望みのままにその手は火へ水へ、どこへなりと差し入れられましょう。ユ・エリア=ナグ・アツィエ」


 何か切実さを感じる余韻を残して、古語で囁くように歌う声が洞窟の壁に反響しながら消えた。感謝と喜びに満ちた神官のそれとあまりに違う食前の祈りに皆が息を詰めて、淡々とした話し声とは打って変わって熱の込もった審問官の声を思い返している。


 しかし、勇者が神殿の現状をしんみりと憂いていた時間はほんの僅かだった。祈りを終えたハイロがじっと湯気を立てる椀を見つめ、匙を手に取ってスープをひと匙口に含んだ時に──それは訪れたのだ。


 口に含んだものの味を認識した、その時だろうか。フードを背に落としたハイロの淡い茶色の瞳がぐらりと揺れ、さっと涙の膜が張って淡い金色に光った。彼女はすぐ心を落ち着けるように静かに瞼を閉ざしてしまったが、そこに浮かんだのは確かに、鏡のように全てを跳ね返す狂信ではなく、一口のスープに一人の人間として心動かされた顔だった。


 それを見た瞬間──勇者はなにか、心の今までに動いたことのない場所が揺さぶられるのを感じた。息が苦しくて……血がめちゃくちゃに巡るような、抗えない感情の本流に押し流される。ああ、なぜだろう。敵のはずの彼女をどうしてか急に助けてやりたくて、守ってやりたくて仕方がないのだ。


 さあっと、土砂降りから少し雨足が弱まった涼やかな雨音が洞窟に響く。彼女を神殿に帰したくなかった。光に背を向け、あの暗い影に囚われた人々の中へ帰っていく様子を想像するだけで、胸が潰れるように痛む。


「美味しいでしょう。私も神殿を出て初めて知ったのですが……食事とはね、切り詰めて苦しんで飢えた人々へ愛を切り出すだけのものではないのです。愛を受け取って、身に入れて、そして喜びのもとにそれを分け合うものでもあるのですよ」

 無言でスープを口に運ぶハイロに、神官が静かに語りかける。それをじっと耳にしていた彼女が、ゆっくりと伏せていた目を上げた。この人はこんなに美しかったろうかと考えて、ハッと首を振る。


「猊下……貴方がそちらへ行ってしまったことを残念に思います。素晴らしい信仰をお待ちだったのに、なぜ」

「それをお話ししても、今はあなたを苦しめるだけでしょう。神の導きがあれば、いずれきっとわかりますよ」


 片時の隙が生まれたとはいえ、呟くように神官と静かな問答を続ける彼女の瞳はもうすっかり狂信の色に戻っていた。しかし、異端審問官達をどこか不気味で恐ろしいものに変えているそれすら今は痛ましく、彼女を翼の折れた鳥のように見せるばかりだ。自分は何か術にかけられているのではと考えて、そして再び首を振る。それが本当に術ならば、もっと思考を妨げるぼんやりとした幸福感があるもので……こんなに苦しくはっきりとはしていない。


 警戒した様子で賢者に寄り添っていた吟遊詩人が神官と勇者をじっと見比べて、おずおずとリュートを手に取った。小さな声で草原を駆ける馬の歌が歌われると、あたたかい気配が満ちて心の痛みがほっと和らぐ。見ると、真っ青だったハイロの頰に赤みがさし、今にも倒れそうに弱った気配が少し持ち直しているようだ。


 地の魔力は命と豊穣の力だ。彼の歌には心を希望で満たし、生き物の持つ生命力を引き出すような効果があるのだと聞いた。淡い茶色の瞳の中に少しでも光が差し込んでいれば良いと、じっと見つめる。


 と、視線に気づいたハイロが振り返った。目が合った途端、かあっと頰に血が上り、耳まで赤くなった感触がして慌てる。彼女はそんな勇者をまじまじと見て、訝しげに首を傾げた。


「貴方は大変にわかりやすいお方だと思っていましたが……それは一体何の感情です? 喜怒哀楽のどれでもない、強い感情に振り回されていらっしゃる。何かありましたか?」

「い、いや、なんでもない」


 どうやら神殿育ちの彼女には理解できない感情であったらしく、心を読まれなかったことにほっとしながら、勇者は首を振って探るような視線をごまかした。ハイロはもう一度首を傾げたが、大したことはないと判断したのか食器を置いて立ち上がる。

「恵みに感謝いたします。久方ぶりに味のする食事をいただきました。吟遊詩人殿もまじない歌をありがとうございます。少し気分が良くなりましたのでおいとまさせていただきたいのですが、そう簡単にはいきませんでしょうか」


「……帰ればいいよ」


 再び警戒するように視線を巡らせた審問官に、魔法使いがぽつりと言った。ついさっきまでまで強い敵意を向けていたエルフの言葉に彼女が不思議そうにすると、少しだけ棘の抜けた囁き声で先を続ける。

「記憶を奪うようなことをすれば……君はまた僕らを探すため、森の中で無茶をして……倒れるのでしょう? せっかく僕の仲間が癒したのに……すぐに死なれるのは、気分が良くない」


 魔法使いの言葉に賢者が深いため息をついて、そして渋々頷いた。

「捕えた敵の密偵に食事を与えて帰すなど、嫌味でなければ馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないが……ここでそなたの意識を奪って放り出すのは、確かに剣の仲間としての所業ではなかろうな」


 それを聞いて、審問官の肩からどっと力が抜けた。やはり敵に囲まれて恐ろしかったらしい。悪いことをしてしまっただろうか。

「温情に感謝いたします。気の祝福と共に良い夜を」

「貴女にも祝福があらんことを」

 かなり投げやりな感じで挨拶を返した賢者を一瞥すると、ハイロが踵を返して立ち去ろうとする。

「あ……」


 行ってしまう──


 歌を聴いて少し凪いでいた心が急にぎゅっと苦しくなって、勇者は思わず立ち去る彼女を呼び止めていた。


「ハイロ!」

「……何でしょう、勇者殿」


 しかし淡々と振り返ったその瞳を見ると、頭が真っ白になってしまう。


「いや……気をつけて」

「ありがとうございます」


 自分が何を言いたいのかもわからないまま、見送るような言葉をかけてしまった。小さく会釈したハイロがフードを被り、あっという間に夕暮れの闇の中に消える。皆がなんとなく黙り込むなか、勇者はその暗闇を見つめて切ないほど痛む胸をぎゅっと押さえていた。


「……日が昇り次第、出るぞ」

 賢者がため息混じりに静寂を破る。彼が吟遊詩人に目を遣ると、緑の目がぐるりと周囲を見回してひとつ頷いた。


「一度街に戻ることも考えていたが、このまま森を通って国境まで一気に進む。この場所から選べる道筋はそう多くない。おそらくどちらへ進んでも何かしら追っ手とは遭遇するだろう。ならば少しでも早く神殿から離れた方が良い」

「わかった」


 勇者が頷くと、いつのまにか元通りになっていた魔法使いがのんびり言った。

「じゃあ……明日の朝ごはんは、早めに作ろうね」

「いや、急いでるんだからパンと水でいいんじゃない?」

「僕は、スープが……食べたいよ」

「そ、そっか」


 気の抜けた仲間達の会話はいつも通りだったが、勇者は未だ調子が戻らず、先程の時間を思い出しては葛藤に苦しんでいた。


「勇者……大丈夫?」

 吟遊詩人の心配する声に「なんでもない」と首を振る。この悩みを相談するわけにはいかなかった。彼がそれを打ち明ければ、きっと仲間達は勇者の気持ちを尊重してくれるだろう。しかし、それではいけないと思うのだ。


 敵と、どう戦っていくか。それは正義感と使命感から強い意志のもと決断されるべきで、決して突然生まれた恋心などに惑わされてはならないものだった。


 それでも俺はハイロを、彼女の仲間の審問官達をとても殺せそうにない──


 勇者は己の情けなさに泣きそうになって膝を抱えた。この気持ちは、あの一瞬でこんなにも深く心に刻まれたこの気持ちは、果たして捨てられるようなものなのだろうか? 羽で触れるだけで酷く痛むようなこれを剣で切り捨てるなど、果たして自分は耐えられるのだろうか? そう思う間にも心は言うことを聞かず、森へ去っていったハイロの身を心配してしまう。


 その晩は旅に出て初めて、一睡もできなかった。





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