五 灰色の夕暮れ 後編



 しかし眠れないなりにも体を休めようとじっと目を閉じていると、焚き火の方から小さな衣擦れの音がして、賢者が魔法使いを起こす眠たげな小声が聞こえてくる。



  起きなさい、交代だ


  まだ……眠いよ


  私も眠い……代わりなさい


  撫でてくれたら……起きてもいいよ



 そんなことを言ったら叩かれるぞと思って目を開けると、しゃがみこんで魔法使いの頭に手を伸ばしている賢者と目が合った。ぼうっと伏し目がちになっていた瞳がハッと覚醒したように見開かれ、素早く手を引っ込めると立ち上がって自分の寝床に行ってしまう。のそりと起き上がったエルフが残念そうにそれを目で追い、のろのろと隅の方で寝そべっている鹿へにじり寄って淡い銀緑色の美しい毛皮に頰をつける。首だけ起こしたルシュが髪を舐めてやると、そのままそこで丸くなって鹿を枕に二度寝を始めた。


 いや、寝るのかよ……。


 代わりに見張りがてら朝食を作ってやるかと起き上がると、柔らかそうな鹿の毛に顔を埋めた魔法使いが「いいよ……起きる」と呟いた。


「撫でたら起きるんだったか」

 歩み寄って淡い金の髪をごしごし撫でてやると、子山羊のようにその手に額を押しつけてくる。人と似たような姿をしているのに、どうにも動物みたいなやつだ。そういえば耳の形も山羊に似ているかもしれない。


「起きたか」

「起きたけれど……毛が柔らかいよ」


 どうやら鹿枕が気持ち良いらしく、今度はルシュから離れ難そうにし始めた。しかしやっぱり寝るんじゃないかと鞄から食材を出し始めると、もぞもぞ起き出してくる。もしや本当に起きられないのではなくて、こいつなりの甘えだったのだろうか。


 眠たそうな顔も麗しいエルフが焚き火の魔法陣の上に鍋を乗せて、側面をピンと指で弾く。するとコポコポという音と共に中に水が溜まって、焚き火の青い炎で温められ始めた。薄々気づいていたが、この魔法使いは下手に指を鳴らさせたりしないで放っておく方が格好良いらしい。


「今日は……僕も食べたいから、野菜のスープね」

 エルフは菜食主義ではなく、肉を食べられない生き物である。味見程度なら大丈夫だが、あまりたくさん食べると消化できずに腹を壊すらしい。本当なら毎日野菜だけのスープにして、肉や魚は別で焼けば……と言ってやりたいところなのだが、彼の作る肉の入ったシチューやスープがあまりに美味いので、勇者はついその一言を言い出せずにいるのだった。


「賢者はね……眠いと、少し優しいよ」

「え? 逆だろ。寝起きとか機嫌悪くないか?」

「寝起きは怒っているけれど……寝る前の眠い時は、ぼうっとしていて優しい」

 恐ろしく手先の不器用なエルフが、恐ろしく危なっかしい手つきで芋の皮を剥く。こんな調子でよくあの味になるものだと思うが、妖精の神秘か何かだろうか。


「あれ? お前、左利きだったか?」

 やたら尖った形に芋を切っている魔法使いの手元を見ながら聞けば、ぼんやり妖精がはたと手を止めて自分の左手をじっと見つめた。


「今は……左手を使っているね」

「右も使えるのか?」


 美貌のエルフは芋とナイフを持ち替えると、ちょんちょんと迷うように右手のナイフで左手の芋をつつく。

「……使えないね」

「そうか」


 自分の利き腕を把握していないなど、どのように生きてくればそのようになるのだろうか。相変わらず妖精の生態は不可解だったが、しかしそんな彼と──実際は男か女かわからないのだが、自分のことを「僕」と呼ぶので、勇者の中ではとりあえず男ということになっている──話すのは良い気分転換になった。


 そろそろ空が明るくなり始めるというところで皆を起こす。馬達にも朝食をとるように言うと、レタを先頭に洞窟外の小さな泉の方へ歩いてゆく。


「ルシュはまだ寝るのか?」

 寝そべったまま動かない鹿に話しかけると、どうやら伝説級に珍しい生き物らしい銀色の牡鹿は、顔を上げて勇者を見つめると耳をパタパタさせながらキュッと鳴いた。


「お前、鳴き声可愛いな……」

 丸くなって腹に埋める鼻の角度を微調整しているルシュを、なんだか魔法使いに似ているなと思いながら眺める。


「勇者、準備できたよ」

 吟遊詩人の声で鍋の周りに集まると、神官が目をこすって頭を振り、それで目が覚めたと判断したのかまだ半分閉じている目でにっこりして仲間達の方へ片手をかざした。それを見た皆が右の拳を胸に当て、その拳に被せるように左の手のひらを添えると軽く頭を垂れる。


「我が水の神オーヴァスよ、大地と豊穣の神テールよ。我らは与えられし地の恵みに感謝を捧げると共に、その恵みに値するものとして生きることを誓います」

「──感謝を捧げ、清い生を誓います」

 神官の祈りに続いて仲間達が声を揃えると、その言葉を受けた聖職者が優しい微笑みを更に深めて先を続ける。

「全ての人々の食卓に、あたたかな愛がありますように。ユ・アテア=ティア・ハツェ」


 祈りを終えるとパンが配られ、食事の時間が始まった。やはり食前の祈りはロサラスのものが好きだと勇者が言うと、何と比べてそう言ったのかわかったらしい神官は複雑そうに笑って「ご飯が美味しくなるようなお祈りの方が、私も好きですね」と言った。


 朝食はちゃんと食べてるだろうか──


 ふとした隙にまた「考えて」いたことに気がついて、こんなことではダメだとスープを口に運ぶ。そしてその美味さに「ハイロもこの味を」と思ってしまって頭を抱えた。


「頭痛ですか?」

「いや、なんでもない」


 顔を上げて首を振ると、本当は気になっているだろうに「そうですか」と笑ってくれる。それが却って申し訳なくて、気持ちを切り替えねばと手早く食事を終えて立ち上がった。


 洞窟の外に出ると、昨日とは打って変わって気持ち良く空が晴れていた。大きく深呼吸して、恋人に鼻を寄せてじゃれ合っている一角獣の側へ行く。

「レタ、少し乗せてくれ。出発前に調子を合わせておきたい」


 金の鬣を朝日にきらめかせている一角獣は、これ見よがしにミュウの鬣を食んで見せながら「今は忙しい」という顔をする。全く懐く様子のない馬にうんざりしたが、しかし勇者には秘策があった。


「お前がそういう態度なら、一度牧場に戻って素直に乗せてくれる有角馬と入れ替えるしかないぞ」

 腕を組んで厳しく言うと、レタが悔しそうな顔で咥えた鬣を離し、少し体をずらして胴を見せた。


「ありがとな。ミュウ、少しレタを借りるぞ」

 背に手を乗せて、衝撃を逃がしながらひらりと飛び乗る。レタがそのまま数歩進むのに軽く動きを合わせ、力を入れすぎないよう気をつけながら前を見た。今のところ、さほど難しさは感じない。


「あ、上手い上手い。そういう感じだよ」

「おう」

 しかし、いつの間にか見ていたらしい吟遊詩人の声に振り返って笑いかけた瞬間、レタが激しく飛び跳ねた。どうも初めて人を乗せる違和感に耐えられなくなったらしい。苛立たしげに嘶きながら暴れ回り、振り落とされそうになって思わず鬣を掴むと、やめろと言うように叫ぶ。慌てて金色の毛から手を離して首にしがみついた。


「ああ、嫌だったな、ごめんな! 降りるから一度止まってくれ」

 首を叩いてできるだけ優しい声を出すと、棹立ちになって怒った声を上げていた一角獣が我に返ったようにこちらへ耳を向け、前脚を下ろして大人しく立ち止まった。


 その隙に滑り降りると、美しい幻獣が振り返って力なく勇者を見る。

「レタ、無理言ってごめんな……お前が本当は人間嫌いなのを知ってて、ミュウへの気持ちを利用した。いいよ、俺は誰か別の馬を探すからさ、お前はお前でミュウについてくればいい。森に追い返したりしない」

 ヴェルトルート語を耳で聞いて理解しているわけではなさそうだったが、この頭の良い一角獣は勇者の視線や声からおおよそ言いたいことを察したようだった。宝石のような真紅の瞳がじっと勇者の目を覗き込み──そして彼は静かに一歩歩み寄ると肩口に優しく鼻を押しつけた。


「レタ?」

 もう一度乗れと言っているように見えるが確信が持てず、おずおずと背に触れるとやわらかく尻尾が振られた。


 背に跨ると、今度は落ち着いた様子で歩き出し、そして次第に軽やかな駈歩かけあしになった。木々や繁みが自ら道を譲っているような感覚は、エルフの走り方に少しだけ似ている。風のように森の中を駆けると、蹄の音が木々の間で反響するように不思議に響いた。どうしてこんなに幻想的な感じがするのだろうと思って、ふと気づく。有角馬よりずっとずっと速く走っているのに、風を切る音が少しも煩くない。


 周囲を軽く一周して戻ってくると、洞窟の前で仲間達が青褪めた顔で待っていた。勇者がレタから降りるとほっとしたように吟遊詩人が口を開いたが、それを手で制して一角獣の方へ向き直る。

「ありがとな、レタ。最高だった」

 レタは当然だと言うように目を細め、得意げに尻尾を上げながらミュウの方へ駆けて行った。苦笑してそれを見送ると、吟遊詩人が腰にしがみついてくる。


「心配したよ、勇者……よくあんな暴れ馬に乗ってられたね。しかもあっという間に手懐けてるし……一体何したの?」

「普通の初心者であれば落馬は当然として、踏まれて死にかねない様子でしたよ。本当に、あなたが狩人バンデッラーで良かった」

「いや、狩人は関係ないだろ。レタが頑張って俺を受け入れてくれただけだよ」


 そういう経緯があって、勇者はなんとかレタに乗って出立することができた。神官の体力に合わせていたお陰で徒歩の旅に疲れを感じたことはなかったが、馬上から見る視点の高い景色は爽快で、優しい揺れも心地良い。何よりこうしてあたたかい生き物の体に触れていると幸せな気持ちになる。


 そうやって心を寛がせていると、忙しさがひと段落したからだろうか、いつの間にか再び心は華奢な異端審問官のことを考え始めていた。今頃森を出て、神殿に辿り着いただろうか。きっと夜通し歩き、そして朝になっても報告が終わるまで眠ることはしないのだろう。どうしたら彼女を──いやだめだ、また気持ちが惑わされている。ちゃんと自分の使命を見ろ。これ以上彼女を好きになっちゃいけない。だって──


「『だって彼女は敵だ、愛するなんて許されない……でもこの気持ちは、どうやったら捨てられるんだ』」


 悲しげに歌うような少年の声にぎょっとして顔を上げると、呆れたような半眼になった吟遊詩人がからかうようにくいっと片方の眉を上げた。

「……初恋?」


「なっ、なんで!」

 勇者が馬上で許される限り勢いよく後ろに仰け反ると、吟遊詩人はいつになくはっきりと青年に見える表情でふっと笑った。

「いや、見たまんま訊いてるだけだけど」

「み、見たまんま……」


 周囲を見回すと、しかし神官は驚いたように「おやまあ」と言っていて、賢者は不可解そうに勇者達の会話を眺めていたので、全員にバレていたわけではなさそうだった。魔法使いはどこか楽しげに耳を立てて勇者を見つめているが、何を考えているのかまではわからない。


「で、悩んじゃってるんだ?」

 吟遊詩人が悪戯っぽい表情をやめて、優しく先を促すように言う。好奇心ではなくただ勇者の痛みを分かち合うような声色に、勇者もあれほど悩んでいたのが嘘のようにすんなりと悩みを口に出すことができた。


「……次に審問官達と戦いになった時、殺す覚悟で戦った方がいいのかってずっと考えてたんだ。でも、昨夜のハイロを見てから……俺、あいつらを手に掛けるなんてとてもできそうになくて。そんな理由で決めていいことじゃないのに」


 今まで、恋をしたと思ったことは幾度もあった。しかしどれもこれも思い返せば、淡い思慕よりも決して愛されないと思い込む空虚さの方が上回っていた。それに初めて気づいた。今のこの気持ちが本物の恋だというのならば、吟遊詩人がちょっぴり意地悪く言うように、これがシダルの初恋に違いなかった。


 ハイロは、今までにシダルが出会った女性の中で最も彼から遠い人だ。しかも恋愛を許されない神官で、なかでも彼を殺そうと迫ってくる狂信的な異端審問官だ。どう考えたって、彼を愛することなど有り得ない女性だった。


 それなのに、憧れが溢れてやまない。もしあの子と親しく触れ合えたら、なんてぼんやりした願望とは違う。彼女を救うためならシダルは何だってできた。守るためなら命だって投げ出せると思った。燃えるような感情が全身を支配して、どうしようもない。ともすれば使命さえ投げ出してしまいそうな激しい感情が、情けなくて仕方ない。


 だからあまり甘やかさないでくれと首を振ると、吟遊詩人は眉根を寄せて「あれ、なんか思ってた悩みと違うなあ」と呟き、考え込むように緩い三つ編みからはみ出した髪を撫でつけた。


「……殺そうと思うならちゃんと考えないといけないけどさ、人を殺さないことに理由なんて必要ないでしょ。個人的に僕は目の前で殺人なんて耐えられそうもないから、勇者が彼らを殺さない覚悟で戦ってくれるなら嬉しいけど」

「殺さないのに、理由はいらない……」


 思ってもみなかった考え方をただ呆然と復唱し、頭の中でその考えを捏ねくり回していると、近くに川の流れる音が聞こえてきて我に返った。頭を振って深呼吸をすれば、そろそろ日が高くなって腹も減ってきていたことに気づく。偶には魚でも焼いて食べるかと皆を川辺の方へ誘導すると、山奥らしい澄んだ小川が流れていた。


 馬から降りると、ごろごろしている岩に寄りかかって休憩をとる。魔法使いは美しい水辺に夢中になるかと思ったが、彼は意外にも鹿に水を飲ませた後、真っ直ぐこちらへやってきた。気疲れした勇者が岩陰で休んでいるのを確かめると頷いてさらりと頭を撫で、振り返って賢者を手招く。


「賢者……訳して」

 魔法使いが優しい響きのエルフ語で話し出し、少し疲れたのかだらりと片手を腰に当てた賢者が被せるようにそれを通訳した。


 彼が話し始めたのは森でも空でも虫でもなく、驚いたことに恋の話だった。

「……勇者がハイロを花のように思うと言うのなら、それは決して妨げられてはならないよ。愛は全てに優先される。仲間が授かった恋のために敵をも愛すると言うのなら、エルフは絶対にそれを尊重するし……僕もまた、君の愛するものを慈しむよう努力する。彼女は……あの濁流に囚われたような信仰を捨てれば、きっと星のような瞳をすると思うよ」


 聡明な語調に目を瞬くと、賢者が「こやつはエルフ語だといつもこうだ」とボソッと言った。岩の向こうから「うっそだぁ……」と呟く声が聞こえてくる。


 妖精の言葉をじっくり頭の中で反芻すると、愛情深いその価値観が深く勇者の心を癒すのを感じた。彼は勇者を甘やかすのではなく、慰めるのでもなく、ただ愛を大切にしろと諭していた。諦めねばならないと自分に言い聞かせていたそれを「捨てなくても良い」ではなく「捨ててはならない」と、そう言ってくれているのだ。


「どちらにしろ、貴方は殺さないという決断をする気がしていましたよ。ここで彼女に恋をしたのもきっと神のお導きでしょう。襲いくる敵を倒すのではなく、狂信に囚われた彼らを救って差し上げれば良いのです」

 視線を落として思いを巡らせていると、神官の声がそれに被せるように降ってくる。

「私が、怒らなければならないとか、殺さなければならないとか、そういう類の『厳しさ』をあなたに求めることはありません。勇者はただその真っ直ぐな心根のままに、愛する世界や愛する人、そしてその美しい信念を守るために戦えば良いのです。あなたは壊す人ではなく守る人でしょう、シダル」


 ああ、こいつらはこうやっていつも俺が喜ぶような言葉ばかり言う! シダルは思った。もしかして、本当の俺はあの日魔狼に襲われた時に死んでいて、今のこれは、俺が自分の都合の良いように作り出した死後の夢なんじゃなかろうか──


「ただ、聖職者を口説き落とすのは難しいですよ。結ばれたいと願うなら彼女には還俗げんぞくしていただかないとなりませんから……あなたは彼女から、狂信者の信仰心を超える愛を勝ち取らねばならないのです」

 神官が続けて言って、少し悪戯っぽく微笑む。吟遊詩人が「確かに……ロサラスが女の人を好きになって聖職者をやめるとか想像つかないよね」と言い、それに「まずあり得ませんね」と苦笑が返された。


「じゃあ俺は、彼女を好きでいても……いいのか」

 一番自分を現実に引き戻してくれそうな賢者を見ると、人間嫌いの世捨て人は嫌そうな顔で「私にその手を話題を振るな」と言った後、もっと嫌そうな顔になって「……そなたの心の問題だ。そなたの勝手にすれば良かろう」と眉間にしわを寄せた。


 勇者は一度息を大きく吸って吐くと「……ありがとう」と呟いて俯いた。そしてそうっと心の蓋を開けて──ほんの一瞬星のように淡く光ったハイロの瞳を思い出し、己の世界にまた輝くものが一つ増えた喜びを噛み締める。


 彼女と恋人同士になりたいだとか、まだそんな想像はできなかった。ただ、ハイロのあの暗く空っぽな心が否応なく喜びに満たされてしまうような世界を作ってやりたいと、勇者はそう思った。





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